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Dの庭園 〜The Garden of dreams and death〜  作者: 長月京子
第二話:テンペスト

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12/67

3:熱情

1

 ピアノの音色に初めて出会って、虜になったのはいつからだろう。幼なじみの司が聞かせてくれたベートーヴェンが、最初だった。

 彼の家系は代々音楽一家で、父親がどこかの楽団の指揮者をしている。

「香織!新しい曲が弾けるようになったよ」

 近くの公園の砂場なんかより、司にはグランドピアノがおもちゃだった。

「香織もピアノやろうよ。二人で連弾できたら面白いじゃん」

 ピアノの音が好き。そこに連なる司の笑顔も大好き。

「いつかさ、大ホールで二人でピアノ弾けたら格好いいのに」

 けれど、中等部へ上がるころには、ただ無邪気に鍵盤を弾く時代は終わっていた。

 技巧と感情。上を目指す者の厳しい練習。

 司の音は本物だった。

 ただ、追いて行かれたくなかっただけなのに。気付いた頃には競争相手になっていた。

 昔のように笑いながら、二人で演奏する時間がなくなっていたのだ。

「次のコンクールの課題やってる?」

 でも、司は変わらない。二人一緒に練習はできなくなっていたけれど、彼の笑顔はそのままだ。優しい音色も。何もかも。

「私は、司が弾き続けてくれたらピアノやめてもいいんだけどな。で、司のファンでもやるの。第一号だよ」

「何言ってんだ、馬鹿。僕はおまえと大ホールでオーケストラをバックにリサイタル開くの夢なんだから。忘れてんじゃないだろうな。快感だよ、きっとさ」

「でも、あたしには才能ないよ。品のない音だって言われたもん」

「九十九パーセント努力してから言えよな」

 彼は人一倍、練習熱心で、音楽の好きな人。才能よりも努力を重んじる。知名な音楽一家に生まれながら、自分の才能を過信しない。

 コンクール前、学内が殺気立っていても、彼の音はそれらを忘れさせる。柔らかで、芯の強い真っすぐな音色。旋律になれば、風景が浮かぶような。

 司のピアノが好きだった。

 けれど、転機は訪れる。

「どうして。そのまま付属校に通った方がいいよ。司だってそのつもりだったじゃない」

「もう、いいんだ」

 全てがどうでもいいと。彼がなぜ泣いているのか、分からない。

「僕は卑怯だ。もう分からない。自分がどうしたいのか……」

「司?」

「ピアノなんてやってても、何も役に立たない!ピアノなんてやってたから。――もう、たくさんだ。そこまでして、何を守る必要があるの」

「何を言ってるの?」

 彼が弱音を吐くのを、初めて見た。どんな試練も、司の前には、傷を残すことはないと思っていたのに。

「分からない。……元気になって、香織」

「じゃあ、ピアノでも聞かせてよ。そしたら元気になるから」

 狭い病室に、ピアノはなかったけれど。司の笑顔がほしかった。

「ピアノやめないでね。あたし、元気になるって。二人で大ホールで演奏するんだもん」

「でも――」

 肌で風を感じるような、柔らかな旋律。時には鳥肌さえ立つほどの深い音色。司が、音符に魂を吹きこみ、とき放つ。

 心を揺すぶられる音。

「どうすればいいのか分からない、香織」

 涙は見たくない。胸が痛むから、――司。



 目が覚める。

 吹藤風巳は大きな呼吸を繰りかえした。大きく頭を振って身を起こすと、滴がとぶ。自分の頬に触れて、泣いていたことに気付いた。

 夢の中の哀しい思いが、あまりにも重く、切なくて。

「――っ」

 ベッドから出ると、ひどい立ち眩みがした。頭の芯も鈍く痛む。

 ほとんど使用することのなかったフローリングの部屋は、冷たく馴染まない。昨夜の今朝で、もう朝子のいる結城邸宅が恋しい。

 関西へやって来て、このマンションを住家としたのは、はじめの一週間ほどだ。

 シンと静まった寝室は広すぎて、哀しいほど独りだった。

 寝室の扉のところへ行き着くまでに、風巳は膝をついた。目眩がひどく、立っていられないのだ。こめかみあたりで激しく脈打っているのを感じる。

 仕方なく、フローリングの床の上へ、ゴロリと横になった。

「あれ、一条司じゃないか。……香織って、誰だよ」

 頭痛が少しずつ遠のいて、風巳はそのまま目を閉じる。信じられないほど鮮明な夢を見た。他人の思いを。

 今まで見てきた夢とは、桁外れな映像だった。司の顔も、香織の顔もはっきりと覚えている。さっきまで目の前で見ていたとでも言うように。

 思い起こすのが至難な夢の情景を、こんなにも確かに記憶しているのが信じられない。

「――力が……」

 強くなっている。

『夢を見たか』

 結城晶の言葉。彼と出会ってから、少しずつ夢の波長が変わっているのではないか。前よりも敏感に、研ぎ澄まされた第六感。

 今脳波を計れば、どんな数値を示すだろう。

 考えると、怖くなる。できれば、なくなってほしい異質な力だ。強くなることなど望まない。

「喉が乾いた」

 考えるのをやめた。のそりと起き上がって、風巳が寝室を出る。



 午前七時。風巳が冷蔵庫からミルクを取り出したとき、インターホンが鳴り響いた。

 ミルクをテーブルへ置いて、ぼんやりとインターホンの画面を見る。

 この部屋の所在を知っている者は数少ない。しかも、こんな早朝からの来客者なら、警戒してしまう。

 インターホンの白黒の画面は、一階の受付にいる人間の姿を映していた。

「え?」

 このマンションのシステムは、部屋の主が許可を降ろさなければ、外部の人間は一階のロビーより中へ入って来ることができない。

 風巳は思わず声を上げてから、インターホンの受話器を取った。

「斎藤?」 [おはようございます。こんな早朝からの訪問は失礼だと思ったのですが]

「とにかく、すぐロック解くから入って来て」

 一階の硝子ばりのドアロックを、インターホンの操作で解除する。途端に自動ドアのように開いた扉の中へ、斎藤克行が足を踏みいれた。それを確認してから、風巳が受話器を置く。白黒の鮮明な画面が白濁した。

 ミルクを飲みながら待っていると、再びインターホンが鳴った。風巳がすぐに玄関まで迎える。

 ドアを開くと、久しぶりに見る穏やかな眼差しがあった。風巳の表情も自然と優しくなる。

「お久しぶりです、風巳様」

「どうしてここに?もう俺の相手は終わったはずだろ。とにかく、中へ入ってよ」

 客人を部屋へ促して、ドアを閉める。リビングへ戻ると、ソファの前で斎藤が立っていた。

「どうしたの?座ればいいのに」

「はい。では、失礼して」

 風巳の顔から、すっと笑顔が退く。斎藤がその変化を見て声をかけた。

「どうされたんですか」

「斎藤はいつもそうだ。対等ではいてくれない。俺よりも優位に立たない」

「あなたは本家の直系ですから」

 大きく息を吐いて、風巳が向かいのソファに腰掛けた。

「この件で討論を始めたら、水かけ論で終わるんだよね。もういいや。ただ、俺は斎藤を家族だと思ってるよ。斎藤は兄さんって呼ぶことすら許してくれなかったけど」

「――光栄です。その言葉だけで十分ですよ、風巳様」

「俺は不満なんだけどね」

 茶化すと、斎藤が笑った。風巳も笑いながらキッチンへ行こうと立ち上がる。

「お茶でも入れるよ」

「とんでもありません」

「何言ってるの。今、客人は斎藤なんだから。それとも斎藤は俺に常識外れな大人になってほしいわけ?」

「……分かりました」

 風巳が満足気にキッチンへ姿を消す。しばらくすると一度も使ったことのないティーセットを持って戻って来た。

「風巳様。聞きたいことがあるのですが」

「何?」

「何度かここへ訪れたのですが、この二、三日いらっしゃいませんでしたね。学校へ様子を見に行くことはしませんでしたが。ちゃんと登校なさってますか。どこへいらっしゃったんです?」

「ああ、そのことか」

 トポポとカップへ紅茶を注ぎながら、風巳があっさり笑う。

「友人の家に、一カ月ほどお世話になってたんだ。昨夜久しぶりにマンションに帰って来たから」

「友人の家、ですか」

「そう。ちゃんと学校には行ってるよ。同じクラスの女の子の家に、友達と居候してたんだ」

「居候?そう、ですか。楽しそうですね」

「うん。楽しいよ、すごく」

 素直に答えながら、風巳は彼に結城晶のことを問おうかどうか迷っていた。もしかすると、斎藤なら知っているかもしれないのだ。

「紅茶、入ったよ」

「ありがとうございます」

 カップに口をつけてから、斎藤は「美味しいですよ」と笑った。

「……風巳様」

「何?」

「お顔の色が、あまりよろしくありませんね。どこか具合でも?」

 今朝の夢の影響が、まだ体に残っていた。だるさが拭えない。風巳が真顔で斎藤を見た。

「――夢を見たよ」

「例の夢ですか」

「そう。多分それで。今までとは桁外れだった。これから力が強くなることなんてあるのか」

「私には詳しいことは分かりませんが。まだ年齢的に、少しくらいの向上はあるかもしれません」

「少しなんてものじゃなかった」

 苦く吐き捨てる風巳の手が、小刻みに震えている。これ以上の力は、彼にも恐ろしいだけなのだ。

「何か、引き金になるようなことを身の回りで感じたことは?」

 斎藤の静かな問いに、風巳が考えを巡らせる。

「――ない。……いや、一人だけ不思議な人がいて」

「不思議な人?」

「うん。俺と同じように夢を見ているんじゃないかって。そう思わせる人がいるんだ」

 晶の名を伏せたまま風巳が言った。組んだ手に、自然と力がこもる。彼と初めて出会った時、脳裏に広がったイメージを思い出す。

「一族の内情も知ってるみたいな口ぶりで」

「本家のですか」

「うん。でも、こんなところに一族の者がいるとは思えないし。分からないんだ。いろいろと」

「そうですね、こんなところに……」

 斎藤が言葉を濁らせる。いないわけではない。けれど、確率的にまだ出会っているとは思えない。確かに、二人が近づくように、意図的な思惑がからんでいることは確かであるが。

「その方の名前は分かりますか」

「あ、うん。昨日まで泊まり込んでた家の主で。同級生の兄さんなんだけど」

 名を出すことを迷いながらも、風巳は告げた。

「晶……、結城晶って言うんだ」

 カチャン。

 陶器の触れる音が響いた。斎藤が持ち上げたカップが、再びソーサーにぶつかったのだ。

 いつも穏やかな彼の動揺が、風巳に伝わってきた。


2


 四限終了のチャイムが鳴り響き、食堂へのみちのりを争う男子生徒が廊下を走っている。

 室沢晴菜はお弁当を持って、窓際へ移った。親友の結城朝子と向かい合って座る。

 ガラス窓の向こうでは、昼前から振り出した雨が、細い針のように地上へ落ちてゆく。

「木曜日って慌ただしくて、落ち着かないよね。おまけに雨だし」

「うん」

 晴菜の言うとおり、家庭科、体育、移動のある化学という時間割りのせいで、今日はクラスメートとろくにしゃべっていない。

 二人がお弁当を広げた時、ようやく鳥羽良久が化学室から帰ってきた。

「これだから木曜は嫌なんだよ。学食に行くの遅れるから」

「おかえり、鳥羽」

 晴菜が声をかけると、彼は思い出したように席へ近づいてくる。

「なぁ、今日って風巳は?朝から見てないけどさ。……あいつ、結城のところでやっかいになってんだろ?熱でも出したの?」

 朝子が首を横に振った時、廊下から新たな声が呼びかけてきた。

「朝子ー。風巳は?」

 A組の仲谷沙輝だ。昨夜、風巳と共に自宅へ帰ってから、顔を合わせていなかった。

「おぅ、沙輝」

 同じサッカー部のよしみで、鳥羽が沙輝を手招きする。C組へ足を踏みいれて、彼も朝子の元へやってきた。

「仲谷君、また風巳と一緒にうちに泊まりにきてくれないかな」

 開口一番、朝子が沙輝に頼んでいる。

「今日、起きたら家に私一人だったんだよ。今までの反動で寂しくって」

「そりゃ、泊まりに行くつもりだけど。晶さんと、まどかさんは?」

「起きた時にはいなかった。どうせ二人で出掛けたんじゃないかな」

「へぇ。ほんとに仲良いんだな。ところで、風巳は?」

 質問が最初に戻ると、隣の鳥羽も身を乗り出してくる。朝子の代わりに、家庭科の時間に全てを聞いた晴菜が答えた。

「吹藤君、昨夜は朝子のところに居候してないから。なんで休みかは知らないってこと」

「え?あいつ休み?」

 意外だと言いたげに、沙輝が声を上げた。朝子がうなずくと「そりゃ、ズルだろ」と呟いて、茶封筒を朝子の机に置く。

「仲谷君。これ何?」

「とりあえず食費は返しとこうと思って。一カ月もいたから」

「いいよ、そんなの。泊めたのは私とお兄ちゃんの趣味なんだから」

「けじめだよ、けじめ。昨夜、風巳と相談したんだ。それを受け取ってもらわないと、今後、泊まりに行きづらいよ」

 そう言われると、朝子が折れるしかなかった。

「分かった。じゃあ、受け取るかわりに、又きてね」

「ああ、風巳と一緒にね」

 妙に風巳の名前を強調して、沙輝が面白そうに笑う。途端、真っ赤にのぼせた朝子の様子に、鳥羽もピンとくる。

「なんだ、結城ってやっぱりそうなんだ」

「何よ、鳥羽君」

 抵抗を企ててみても、赤い頬では効果がない。みんなで朝子をからかっていると、今頃になって、化学室からクラスメートの木崎京一が帰ってきた。

「よぉ、木崎。なんだよ、おまえ。えらく難しい顔して。――んじゃ、俺、学食行くし」

 木崎の肩をポンと叩いて、入れ替わるように沙輝が教室を出て行った。

「結城。D組の前田が、あとで中庭に来てほしいって」

 言いにくそうに、戻ってきた木崎が朝子に告げる。隣の晴菜が目をむいた。

「何それ。木崎、あんたって男は。まさか、うちのクラスのルールを知らないわけじゃあるまいね」

 朝子には晴菜の言うルールはさっぱり理解できないが、木崎には伝わったらしく、慌てて弁解に出た。

「だから、俺もそんな仲介はできないって、言ったんだけど。でも、しつこく食い下がられてさ」

「じゃあ、しつこく断りなさいよ」

 鳥羽が隣で「そんな無茶苦茶な」と苦笑している。ウィンナーをかじりながら、朝子はひたすら傍観していた。

 晴菜の見幕に、クラスメートの注目が集まっている。「木崎君がルール違反したんだって」と囁く声が聞こえた。

 C組の生徒に共通のルールとは、風巳と朝子に関する法だ。二人の恋路を邪魔するな、その一言に尽きる。

 当の本人達は気付いていないが、暗黙の了解だ。

「悪かったって」

 ひたすら晴菜に謝る木崎が気の毒になって、朝子が助け舟を出した。

「いいよ、木崎君。中庭だよね。食べ終わったら、すぐに行くから。伝言ありがとう」

「あ、うん。――ごめんな」

「いいってば。だいたいなんで謝るの」

 朝子を眺めて、晴菜がフゥッと大きな息をついた。



 昼食を終えて、朝子が中庭へおもむいた。

 木崎と晴菜がその件について言い争っていると、風巳が教室に姿を見せる。

「おはよう」

 自分の席に居座っている晴菜の背中に声をかけると、振りかえった彼女が短く声を上げた。

「――ふ、吹藤君」

「何かあったの?……室沢さん、朝子は?」

 鞄を机の上に置いて、教室を見渡しても朝子の姿はない。

「あ、ちょっとね。吹藤君こそ、すごい遅刻だけど、どうしたの?」

「少し用があって」

 答えながらも、風巳は無意識のうちに朝子の姿を探している。

「結城、中庭に行ったけど」

 気付いた木崎がボソリと教えてくれた。風巳が「そうなんだ」と答えるより早く、近くにいたクラスメートが明かす。

「D組の前田君に呼び出されちゃったんだよね」

「え?」

 不自然に動きを止めて、風巳がクラスメートを見た。真摯な瞳に射抜かれて、上月琴子が息を呑む。

「前田と中庭に?……中庭に呼び出されたって?」

 さっきまで胸の内を占めていた考えが白紙に戻され、新たな感情で埋め尽くされて行く。

 吹藤の名も、夢のことも、何も考えられない。

 胸の底から込み上げた、歯止めのきかない想いのこと以外は、何も。

 いらないものを、切り捨てられる。そんなのは嘘だ。今まで捨ててきたものは、本気で欲したものじゃなかったから。

 一族の中に、望むものなど有りはしなかった。恋心が生まれる環境など、必要なくて。

――奪われる。

 理屈じゃない。彼女は諦められない。

 知らなかった、自分にこれほど焦がれたものがあったなんて。

 こんな時どうすればいいのか、誰も教えてはくれなかった。斎藤ですら。

「吹藤君?」

 厳しい顔をして黙りこんだ風巳に、晴菜がそっと声をかけた。ゆっくり振り向いた彼の瞳に、さかまく思いが宿っている。

 それを隠すように、いつもの笑みが浮かんだ。

「――何でもないよ」

 この気持ちをどんなふうに言葉にできるのか、術を知らない。


3


 マンションの駐車場に車をとめて、斎藤克行がエレベーターへ向かった。最上階に用意された部屋からは、都会が一望できる。真っすぐに伸びる道路の先に、大阪城がそびえていた。

 ながい滞在になるかもしれない。

 そんな予感を抱きながら、エレベーターに乗り込み、部屋を目指す。

 わずか二カ月ほど遠ざかっていただけの風巳の変貌に、斎藤はなぜか焦燥を抱いていた。

 何に焦り、苛立っているのかは自分でも分からない。

 奥底に潜む力が引き合ったのか、血筋が呼び寄せたのか。

 風巳と晶。

 二人の偶然の出会いが早すぎたのだ。

 主である吹藤和彦は、二人の接触を望んでいた。早ければ早いほど、賭けの結果に良と出る可能性が高くなるのだと。

 けれど、斎藤は風巳を彼の側へおくことに嫌悪を感じる。彼に何らかの影響を受け、風巳が変わって行くのを見たくない。

 一族とは別のところで、二人が馴染み、馴れ合うことなどは考えもしなかった。

 普通の人々との出会いのようにではなく、あらゆる意図の上に、血統の因果の上だけに彼との出会いがあってほしかった。

『やっぱり、晶を知っているんだね』

『もう、彼と出会ったのですか』

 何と説明すれば良かったのかは、今でも分からない。激しく追及する風巳を遮って、斎藤が質問を返した。

『あの方のことを、どう思われましたか』

 彼に対して、肯定的な言葉を望んだわけではなかったのに。出来れば、疎み、嫌い、警戒してほしかった。けれど斎藤の意に反して、風巳の答えは――。

『最初は興味があっただけ。何か知ってるんじゃないかって。晶は、どうしてだか吹藤の一族を疎ましく思ってる。だから、俺に対しても風当たりきつくて、苦手だった。できれば近づきたくなかった。――最初はね』

 語る彼の言葉の中に、負の感情はなかった。斎藤の望まぬ方向へ、風巳の気持ちが向いている。

『だけど、逃げることはしたくなかったんだ。晶が何か知っているなら、それを暴くまで、側にいてやろうって』

『それで、何か分かりましたか』

『俺の知りたかった、彼と吹藤との関係は何も分かってない。でも、彼自身のことが、少しだけ分かってきた。どういう人であるかってことかな。……本当は、それを知ることの方が大事だったような気がする。確かに、いまでも彼と一族の関係は知りたいけど』

 因果ではなく、人としての彼を知ることが必要だと。

『風巳様から見て、どういう人だったんです?』

『俺ね、ずっと嫌われてると思ってた。でも違ったんだ。昨夜、分かったばかりなんだけど。晶は俺自身じゃなく、俺の後ろにあるものが嫌いだって。……俺、その時、嬉しかったんだと思う。変な話だけど』

『いいえ、そんなことは』

『うん。嬉しかったな、やっぱり』

 自分で確認するように繰り返して、再び斎藤を見た瞳の真っすぐさ。その眼差しこそ、誰にもない彼だけの武器。

『この人のこと、嫌いじゃないって思えた。好きになれるほど、まだよく知らないけど。……だから今、彼のことを知りたいのは興味だけじゃないと思う。もっと近づきたいから、そのために相手のことを知りたい』

『そうですか』

 斎藤の内に、得たいの知れないもどかしさが込み上げてきた。風巳を引き付ける結城晶への憎しみと言っても、過言ではなかっただろう。

『斎藤に晶のこと聞きたいけど。……やっぱりいい。ルール違反のような気がするんだ。彼から聞かなきゃ、意味がないような気がする』

『私からは、言わずにおきます。ただ、風巳様。彼はいずれ、あなたの敵にも味方にもなれる方です。それを忘れずにいてください』

 一族の因果と、意図を忘れずに。

『あなたとあの方の出会いは、必ずしも、偶然だけではなかったということです』

 大きな思惑の上に、全てが有るのだと。

 真っすぐな瞳を前に、そんな言い方はできなかったけれど。

『知りたくなくても、知るときがきます。必ず、何らかの形で』

『分かった』

 風巳は静かに受けとめた。自分の手で何かをつかもうとしている姿勢の、現れであるかのように。

 もう、ただ言われたまま、成すがままに歩かされていた少年はいない。自分の手で、欲したものを手にするのだろう、これからは。

 それを寂しいと感じるのが、身勝手なことだと分かっている。

『斎藤のこと、家族だと思ってるよ』

 あなたは、いつまでもそのままに。未来が日向にあるように。

「―――……」

 カツンと廊下を進む足音が途切れる。立ち止まった目前にある扉の鍵を解いて。斎藤が部屋の中へ姿を消した。


4


 全ての授業が終了し、生徒達が帰途へつく頃には雨があがっていた。 帰り支度が整っても、朝子は前の席から動かない風巳の背中を眺めていた。

 声をかけたいのに、そうさせない空気が彼の背に漂っている。

「ねぇ、朝子」

「は、はい」

 何の前触れもなく振りむかれて、朝子は思わず背筋を伸ばす。彼と言葉を交わすのは、今日はこれがはじめてだ。

 晴菜をはじめとしたクラスメートは、いつのまにか蜘蛛の子を散らしたように姿を消している。窓際の奥で、二人だけが不自然に教室に残っていた。

「雨、やんだみたいだね」

「あ、うん。風巳が来た時って、小降りになってた?」

「まだかなり降ってたと思うけど」

 乾ききった会話のせいか、息が詰まりそうだった。少しも表情の動かない風巳は、別人のように遠い。

「音楽室に付き合ってくれないかな」

 ようやく表情を緩ませて、風巳が朝子を見る。

「――一条が、来てるかもしれないから」

「一条君?」

「うん。話があるんだ、あいつに」

「だったら、二人の方がよくない?私がいても平気な話?」

 気を遣って確かめてみると、風巳がキュッと唇をかむ。

「……そうだね」

 奇妙な沈黙の後で、彼が思い切ったように口を開く。

「昼休み、どうだった?」

 いつも迷いのない澄んだ瞳が、どこか迷っているようにも見える。朝子が答えられずにいると、彼は椅子を動かして、正面から向かいあうように座りなおす。

「朝子は、前田のこと好きなの?」

 首を横にふってみたが、朝子はなぜか頬が熱くなった。風巳の様子があまりにも張り詰めていて、鼓動が高くなる。思わず顔を伏せると、彼の気配がふっと緩んだ気がした。

「ごめん。俺、何を聞いてるんだろ」

 いやに場違いな戸惑った声に、朝子が顔を上げる。

「今の忘れて。……俺、どうかしてる」

 どうすれば、この気持ちが晴れるのか分からない。昼休みのことを知りたくないと言えば嘘になる。けれど、それを知る権利なんて誰にもないはずだった。それは朝子の領域なのだ。踏み込める範囲ではない。

「前田君は友達だよ。今度、映画に行こうって、それだけ」

 知りたいのは、前田のことではなくて。何を伝えたくて、何が知りたいのかさえ見えない。

「……うまく、言えないけど。そうじゃないんだ」

「え?」

「そうじゃなくて……」

 それっきり、風巳が黙り込んでしまう。教室の窓から、グランドで部活動の準備を始めた人影が、水たまりに土を運んでいるのが見えた。

「風巳は、昨日、音楽室で前田君みたいになりたいって、言ってたよね。あれは、どういう意味?」

 ふっと視線が動く。揺るがない瞳があった。

 吹藤の名に逃げているのは、自分の方だ。朝子に告げることをためらっているのは、枷があるからではない。

 怖いのだ。相手の気持ちを知ることが。自分一人の気持ちだけで手に入るものではないから。

「前田になりたい、か」

 違う。

 自由な立場ではなく、羨んだのは彼の勇気。今なら、素直に称えられる。思いを寄せる相手にそれを告げるのは、潔い、尊敬できるやり方。

「思いっきり、走りたかったってことだよ。俺、元陸上部だったから」

 昨日の台詞はごまかしておいて、風巳は笑って見せる。

 晶の警告は、このさい無視することにした。せき止めてもやがて溢れ出す水流のように、この思いも止まらない。

「聞いてくれるかな、朝子」

「うん、何を?」

「俺の育って来た環境って、ちょっと普通とは違うんだ。こんなふうに自然に生徒でいるのが信じられないし、沙輝と朝子のところへ居候してたなんて、夢みたいな話だよ」

 風巳の言葉に、朝子は頑なに耳を傾ける。

「もちろん、誰かを好きになったこともなかったし。だから、今でも分からないことがたくさんある」

「そんなの、風巳だけじゃないよ、きっと。誰でも分からないこと抱えてるもん」

「うん、……俺、朝子とこうしてるの好きだよ。沙輝とかまどかさんとか、晶とか。みんなでゲームしたりご飯食べたりするのも。嘘みたいに楽しかったから」

 そっと、風巳が朝子の手をとった。大切なものに触れるように、両手で優しく包みこむ。思っていたより大きな手を、朝子もわずかに握り返した。

 まるで何かを祈るように、手が組み合わされている。

「だから、朝子に一緒にいてほしいんだ」

「――うん」

 つながれた手の上に、ポタリと滴が落ちた。朝子の頬から、涙が線を描いて落ちて行く。

「ご、ごめん!」

 パッと手を離して、風巳が思わず席から立ち上がる。

「俺、やっぱり変なこと言ったんだ。ごめん、別にひどいこと言ったつもりはないんだけど。……泣かないで、朝子」

「違うよ、風巳」

 涙を拭いながら、朝子が笑顔を向ける。

「びっくりしただけ」

「え?」

「風巳はいつも明るいけど、時々すごく寂しそうにしてて。そんな時、私なんか絶対眼中にないって思って……。遠くを見てると思ってたから。認めてくれて、嬉しかった」

 感動した、というべきかもしれない。

「朝子は、気付いてたんだ」

「え?」

 抱えつづけた孤独も、背負っているものに潰されそうな心も、気付いてくれた。

 きっと、そんな彼女だったから思いを寄せた。

 逃げたりはしない。欲したものがあれば、手を伸ばして届くまで努力しよう。それで適わなければ、諦めればいい。

 まずは、挑むことが大切なのだ。



「忘れるところだった」と言って、風巳も沙輝と同じように封筒を出した。スッと机の上を滑って、朝子の前で止まる。

「一カ月、滞在してた時の食費」

「仲谷君にも言ったんだけど、受け取るかわりに、また来てね」

「もちろん。だって、そのためにケジメつけてるんだもん」

 結城邸宅に身を置くにことに関して、できるだけ居心地が悪くならないように。

「おぅ、いたいた。風巳、俺、今日クラブなくなったんだ。朝子の家に寄って帰ろう」

 ドカドカとC組の教室へ入って来たのは、A組の沙輝だった。

「なんで、クラブなし?」

「グランドの状態が悪いし、キャプテンと顧問が病欠してるからだって」

「そんなんでいいのか、サッカー部」

「こういう日くらい休んだってバチあたらないって」

 サラリと言ってのけて、沙輝は嬉しそうに笑っている。サッカー部の練習の厳しさは校内でも有名だった。

「又、勉強おしえてくれよ、風巳」

 原田翠という恋人の失踪に関わって、沙輝は一カ月近く出席簿に穴をあけた。抜けた授業の補習を、一週間ほど担任が好意で組んでくれたが、それだけでは追い付かない。

「俺で良ければいいけどさ。転入生だって覚えてる?」

「星雅から来た奴が何言ってるんだよ。俺さ、理数に行くって決めたんだ。だから、そっちを重点的に」

 一学期が終了すると、二学年は進路選択に伴ってクラス替えがある。だいたいの生徒が、もう進路希望の用紙は提出済みだった。

 貴子葉学園、高等部のクラス替えは、後にも先にもその一度きりだ。

「風巳は進路希望、提出したのかよ」

「俺はまだ」

「文系か理系かはもう決めとかないと、やばいぞ」

「知ってるけどさ。朝子は文系だよね」

「うん」

「そっか。考えると、このクラスってあとちょっとなんだ」と呟いて、風巳が席を立った。理系へ進めば朝子と同じクラスは望めないし、文系を採れば沙輝と別れてしまう。

 いかにも高校生の悩みだと思えて、風巳が笑みをこぼした。

「何笑ってるんだよ、おまえ」

「なんでもない。俺、ちょっと音楽室のぞいて来る。先に朝子の家に行っててくれてもかまわないよ。用が済んだらすぐ追いかけるから」

「分かった。今日は風巳に洗いざらい吐いてもらわないとな。先に行ってるよ」

 妙に意味あり気な沙輝の言葉に、扉へと向かっていた風巳がハタリと足を止めた。振り返ると、親友は面白そうに笑っている。

「……沙輝、まさかさっきの」

「まぁ、その、入りにくくってさ。邪魔するわけにもいかないし。そんなつもりはなかったんだけど。明日、覚悟しといた方がいいと思うぞ。室沢達もいたから」

「……し、信じられない」

 目眩を覚えて、風巳が頭を抱えこんだ。沙輝はあっさりとしたものだ。

 会話の意味が理解できずキョトンとしている朝子と目が会うと、思わず顔がのぼせた。

「とにかく、音楽室に行ってくる」


5


 防音のなされた音楽室から、微かにピアノの音がもれている。校庭から聞こえて来る生徒のざわめきに紛れそうなほど、微かな音色だ。

 風巳はC組の教室を後にして、渡り廊下を越え、西館にある音楽室へやって来た。

 速足に廊下を歩きながら、恋路に関するクラスメートのやり方に頭を抱えていたが、ピアノの音が耳に届くとスッと思考が入れ替わった。

 分厚い両開きのドアのトッテに手をかけ、ゆっくりと引く。

 途端に、艶のある音の波がはっきりと打ち寄せて来た。演奏している者は、風巳の来訪に気付いていない。

 大きなグランドピアノの影にかくれて、まだ司の姿は見えない。けれど、夢の中で聞いたピアノと、同じ音だった。

 一条司の奏でる音だ。わずかに哀愁を帯びて艶を増していたが、根底に潜む芯の強い響きは変わらない。

 ゆっくりと風巳が近づくと、気配に気付いたのかピアノの音が無造作に途切れる。

 こちらに向けられた、長い前髪から覗く眼差しが見開かれた。

「君は、昨日の……」

「吹藤でいいよ。一条君だろ」

 軽く拍手を送りながら、風巳が明るい笑みを浮かべる。

「やっぱり、昨日もピアノを弾きにきてたんだ」

「違う。僕は……」

「ピアノをやめたって?」

 司の台詞の続きを口にして、風巳がふと笑みを潜めた。

「やめた人間の音じゃないよ、今のは。……約束を守らなくていいの?」

「約束?」

 いきなり核心へ触れるのはどうかと思ったが、風巳は賭けてみることにした。夢の中で香織と呼ばれた少女の言葉を思い返す。

「大ホールで、オーケストラをバックに二人でピアノを弾くんだろ?彼女と約束したんじゃないの?」

 息をのむ司を前に、風巳は黙って様子をうかがっていた。

「――どうして、そんなこと」

 掠れた声が出るまでに、かなりの時間があった。司が立ち上がって風巳と向き合う。

「君は香織と知り合いなのか」

「そんなことはどうでもいいんだよ、一条。おまえにピアノを続けてほしいと願ってる人間がいるってことが大切なんだ。……彼女は、とても強く、それだけを望んでる」

 香織の夢を共有した者として、それだけは嘘じゃない。

「香織と会ったのか、吹藤。教えてほしい、彼女の様子は?」

「自分で確かめにいけばいい」

「できない」

「どうして?」

 風巳から視線を外して、司がもう一度椅子へ腰掛けた。

「僕は約束を果たせない。音楽から遠ざかって、ピアノの練習もやめたしね」

「でも、放課後に毎日ピアノを弾いてた」

 夢で聞いた、香織の知っている音よりも、今の方がはるかに艶を帯びた深い音をしていた。技術的なことはともかく、音に出る感性は磨かれ続けている。

「ねぇ、香織と会ったの?」

 切ない瞳を向けられて、風巳は正直に首をふった。

「直接は会ってない」

「――そう。あいつ、入院してるんだ」

「そうみたいだね。元気になるって言ってたじゃないか」

 今の言いようでは、過去の二人の会話を知っている口ぶりだ。言葉に出した後でハッとしたが、司はどうやら気付かなかったらしい。

「元気になんてならないよ。……白血病なんだ。今は薬で免疫の数を調整してるけど、ガンはガンだ。いずれは――」

 つきつけられた言葉の苦さが、聞く者にまで染みてくる。原田翠の時といい、香織の場合といい、命と引き換えの思いほど、共鳴しやすいのかもしれない。

「でも、だからって。どうして一条がピアノをやめなきゃならない?」

 胸の痛くなるように苦笑が、司の瞳に浮かぶ。

「僕が、卑怯者だからだよ」

「卑怯者?」

 彼はうなずいて浅く笑う。風巳には、言葉の意味がつかめなかった。

 音楽室の大きな窓ガラスの向こうで、山の端の雨雲がかすかに赤く色づいている。姿を見せない夕日の赤が、雲の帯を染めあげていた。

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