2.硬いベッドでの目覚め。少女であるということ。エネマグラ。
まず感じたのは後頭部、肩、そして腰への違和感だった。
まるで硬い床に仰向けに横たわっているかのような感覚。
次第に脳が覚醒していく。
それと同時に本能が、理性が、考えることへのブレーキを踏む。
気が付けば大変なことになる、考えるな、やめろ。
しかし覚醒した脳と五感は意識せずとも周りの意識を取り込んでいく。
ここはどこだ。
床のように硬いベッドの上。
そして見慣れない西洋風の一室だ。
見慣れない。
その言葉が権蔵の意識をさらに加速させる。
心拍数が極端に引きあがる。
目の前でフラッシュを焚いたようにチカチカする。
私は誰なのだ。そうだ、私は誰だ。
頭の片隅にぼんやりと霧がかかっている。
それをむりやり引き剥がして中身を露にする。
武志。
異常な男。
陰茎。
死。
そうだ。
私は死んだのだ。
私は殺されたのだ。
不審人物に、あろうことか男性のシンボルを輪切りにされて。
なら股間に陰茎が付いていなければ私は私。
『鬼河原 権蔵』である証明になるのではないか。
股間をまさぐる。
陰茎は、ついていなかった。
権蔵は思わず笑いだしてしまう。
そうだ、私は生きていたのだ!
確かに陰茎は輪切りにされた。
だがそれでも命は助かったのだ!
ふと指先に違和感が走った。
脳が、体中の血液が一瞬で冷たくなる感覚が権蔵を襲う。
身体の温度とは真逆に、指先は熱い。
粘膜。そこに指が飲まれる。
権蔵には存在するはずのないモノに指が触れていた。
私は誰なのだ。
股間を輪切りにされたところで女性になるはずなどない。
そんなことは当たり前だ。
当たり前だからこそ、今の状況を飲み込むことができないのだ。
経験に勝る正論はない。
権蔵はいつか、誰かから聞いたかのような言葉を思い出していた。
窓から陽の光が差し込みはじめる。
目覚めてから一睡もできなかった。
いや、こんな状況で眠れる奴のほうがおかしい。
股間を輪切りにされた挙句、目が覚めれば自分を知っているはずなのに知らないのだ。
自分の姿を見ることができればせめて……
鏡だ。鏡を見ればいい。
鏡を見れば自分が『鬼河原 権蔵』か、『それ以外』かがわかる。
探しているうちにこの家に住んでいる人にも出会えるだろう。
権蔵は硬いベッドから体を起こそうとした。
激痛が背中、あばら、腕に走る。
まるで何十年も使われずに錆びた機械を無理に動かしたような感覚。
体中の関節が軋んで悲鳴を上げる。
筋肉が裂けて破れそうだ。
それでも無理やり起き上がった。
それだけですでに息切れはしていたし、壁に手をつけないと倒れそうだ。
権蔵が足を踏み出すのと同時に、ドアが開く。
そこから若い女性がとてとてと歩いてきて権蔵の身体を支える。
「おはよう。とりあえずご飯でも食べよっか。朝ご飯できてるし、ね?」
権蔵は女性におぶられながら涙を零していた。
いい歳にもなって、陰茎を輪切りにされた挙句、
まともに一人で歩くことすらできない。
そんな自分に苛立ってしようがない。
「大丈夫。ご飯を食べたら落ち着くよ」
権蔵の様子を察したのか、そんな言葉をかけてくる。
今の彼にはそんな言葉でさえ救いになった。
リビングには男性が一人いた。
権蔵よりすこし若いくらいか、人柄のよさそうな顔だ。
「あぁ、その子が例の子か。うん、それじゃ揃ったしご飯にしようか」
「それで、その子の身元とかは分かるのかい?」
「ダメ。ご近所さんにも聞いてみたけど、全然そんな話は聞かなかったよ」
「うーん……それじゃやっぱり本人に聞くしかないのかな」
気まずい。
食卓には見知らぬ料理が並び、いかにも別の家庭なのだと主張していた。
それに加えて、目の前で自分のことであろう話をされているのだ。
「なぁお嬢さん、お名前はなんて言うんだい?」
お嬢さん。それは権蔵に少女であるということを自覚させるには十分な言葉であった。
果たして、自分は『鬼河原 権蔵』という男性にしか聞こえないような名前を
口にしていいのだろか。
「こら、人に名前を聞くときはまず自分から。
私はエーコ。エーコ=エネマグラ」
「僕はビーオ=エネマグラ。エーコの夫だよ」
エネマグラ一家か。
道理で西洋風の家であったわけだ。
そして権蔵は思わず吹き出しそうになった。
何故姓がエネマグラなのか。懐かしい。かつて開発していたこともあったか。
「よし、元気になった。ご飯は元気の源だからね」
「……オニー。私はオニー!」
そして権蔵はとっさに思いついた名前を口にしていた。
言った後で少し安直すぎるな、とも思った。
それにまるで自慰みたいな名前ではないか。
「さぁ、早くご飯食べちゃおっか。冷めるとおいしくないからね」
「そうだ。後で市場に買い物に行きたいんだけど。食材、もう少なくなっていただろ?」
まるで数年前の自分の家を外から見ているようだ。
権蔵は黒くて酸味のある、パンのようなものを齧った。
「オニーちゃん、これから市場に買い物に行くんだけど」
食休みをしていると、ビーオが買い物に誘ってきた。
「えっと、私今結構身体が痛むので……」
「市場までは車で行くから大丈夫だよ。
ほとんど歩かないし、歩くときは私がおぶってあげるしさ。
それに留守番させておくほうが心配なんだよ」
夫婦そろって誘ってくれているのに断るのも失礼だ。
それに一度外を見ておいたほうがいい。
自分は今、今の状況をほとんど掴めていないのだから。
「分かりました。よろしくお願いします」
「あーと……そんなに畏まらなくてもいいよ、うん。それじゃ、早速出かけよっか」
「よし、じゃあ僕は車出してくるよ」
車といっても権蔵が想像しているものとは異なっていた。
馬車のような車を見たことのない動物が引いている。
まるで人面馬のような風貌だ。
それに周りの風景といえば、背の低い草が辺りを覆っているだけである。
時たま強い風が吹き、髪や服を砂で汚していく。
ここは権蔵がいた世界ではない、お前のいる場所ではない、と主張しているようだ。
権蔵は、いつか武志の部屋を掃除しているときに見た、
表紙に女の子の描かれている小説の内容にそっくりだ、と思った。
たしかその小説の主人公もこんな世界に迷い込んだのではなかったか。
頭が痛くなる。
どうしてこうなったのだ。
その現実は、権蔵の理解をはるかに超えていた。
馬車の乗り心地は全くよくない。
ことあるごとに揺れ、気分が悪くなる。
さっき食べた朝食をもう戻しそうになる。
「アニーちゃん、おうちの方ってどこにいるかわかるかな?」
酔った権蔵に、エーコがそんな質問を投げかける。
おうちの方。その言葉を権蔵は一瞬理解できなかった。
だが、身元不明の少女にその言葉をかけるのは当たり前だろう。
最も中身は『鬼河原 権蔵』なのだが。
権蔵が答えるのに戸惑っていると
「アニーちゃんはここから北に向かった先にある遺跡に倒れていたんだよ。
もしかして覚えてなかったのかな?」
そういえば何故この家族にお世話になっていたのか
ずっと分からなかったのだが、そういうことかと納得した。
「はい……全然覚えてなかったです」
「うーん……どうしたものかなー」
その時、馬車は突然止まった。
「そこに人が倒れてる!僕がちょっと様子を見てくるよ!」
「最近ずっと倒れてる人を介抱しっぱなしね」
エーコが笑みをこぼす。
権蔵は笑うことができなかった。
「ぷはー、おいしかったです!どうもありがとうございました」
10代後半くらいの女性が満足そうに言った。
どうやらその女性は空腹で倒れていたらしい。
それで権蔵らは買い物の前に
市場にあるレストランへ入ることになった。
権蔵は車酔いのせいで水しか飲むことができなかったが。
「いや空腹で倒れることって本当にあるんですね、自分でも驚きますよ」
「あのままじゃ行き倒れだったからね」
「うん、でなんであんなところに来ていたんだい?
周りに何もなかっただろう?」
「ええ、それが記憶喪失っていうんですかね。
自分の名前は分かるんですが……リキューっていいます」
「僕がビーオ=エネマグラ。隣の妻が、エーコ。それでこのお嬢さんがオニー」
「この子もあなたと同じように記憶喪失で倒れていたのよ」
「へぇ、奇妙な偶然もあったものですね」
「それでリキュ―さん。泊まるところってあるの?」
「それが無いんですよ。お金も無いですし」
「それじゃ、しばらくうちに泊まらない?」
「え、エーコ、食費とかはどうするんだよ」
「大丈夫よ。お金は私が管理しているんだし。今でも少し余ってるんだし。
それにリキュ―さんがかわいそうじゃない」
「……うん。分かったよ」
「え、あ、ありがとうございます!」
そうしてエネマグラ家には権蔵とリキュ―が居候することになった。
「はぁ……また僕の小遣いが減るじゃないか……」
そんなビーオの呟きが聞こえたような気もした。
市場での買い物も終わり、その帰り道。
権蔵はまたあの馬車に乗るのかと落胆していた。
がたがたに揺れる馬車の中は本当に気持ちが悪くなる。
権蔵は酔いを醒まそうと窓際で外の景色を眺めていた。
その時、馬車が横に大きく傾き権蔵らは壁に叩きつけられる。
「マジかよ……小遣いは減らされるしこんな奴に出会うなんてもう最悪だよ」
ビーオの呟きが聞こえたかと思えば、大きな咆哮がそれをかき消す。
窓から外を見るとそこには、てらてらと黒光りする表皮が特徴的な、
巨大な竜がどっしりと佇んでいた。