1.三人
雨に濡れた真っ黒のコートはずしんと肩にのしかかり、裾から絶え間なく水を垂らしていた。
午前から降り出した土砂降りの雨も止む気配はなく、間もなく夜を迎える。
水は肌まで染み、服がぺったりとまとわりついて全身で激しいかゆみを引き起こしていた。
だんだんとイライラしてくる。
しかし、人の少ない雨の日こそ私の活動には最もふさわしかった。
とはいえ、人が全くいなくても困ってしまうのだが……
そろそろ一人ぐらい人間が現れてくれないか。
かれこれ2時間ほど歩いているが、誰とも出くわさない。
今日こそやろうと思っていたのに……
商店街で傘を盗ってくればよかった、と思った。
……いやいや。
このずぶ濡れのコートを老人から盗んだことを思い出す。
老人は倒れながら、逃げ去る私に細い声で言った。
「卑怯者……」
その言葉がぼんやりと頭の中を泳ぐ。
足は止まっていた。はっと我に返った。
「らしくないな。」
自分に言い聞かせるつもりでうっかり声が出てしまった。
誰も居ないと分かりつつ赤面する。
気を取り直して、再び歩きはじめようとした。
その瞬間、籠った悲鳴がどこからか聞こえてきた。
おそらく近い、近いぞ。
くぐもった声だが、近くから発せられているものに違いない。
耳を澄ませて、右を向く。そこには二階建ての家が建っていた。
ここで間違いない。
目の前の扉は、今にも何か出てくるのでは、と思わせるたたずまいだ。
血が沸騰して、グッと心臓をしめつける。
濡れた頬は先ほどよりも赤くなっているだろう。
全身の血が目まぐるしく流れているさまを肌の奥で感じられた。
背筋から指先へ、ビリビリと震えが伝わっていく。
ポケットに潜ませたナイフは、いつの間にか手に握られていた。
思わず顔に近づけると、刃に僅か残った血の香が鼻の奥を突く。
若干くすんだヒルトに、こびりついた血が見えたので、それを舐めずにはいられなかった。
冷たくて鋭い感触の中にぷにっとした小石ほどの塊、雨に混じったそれはいつのものだろうか。
口内で少し転がしてから歯でグニグニ潰した。
人の行く末を思わせる鮮烈な腐敗臭が今度は肺の隅々まで満たす。
そしてその薫りが喉から鼻へ抜けていく。
すっきりとした。
すると、未だ止まない叫び声が徐々に近づいてくる。
足を少し開き、万全の態勢で構えていると、扉が勢いよく開いた。
ーーーーーー
俺はどこにでもいる高校二年生、鬼河原 武志。
今、俺は人生を謳歌している。友達はそこそこ多いほうだし、
製薬会社に勤める父の遺伝子だろうか、成績も良い。
でも実は、変わったところがある。
それは、売れっ子ラノベ作家であるということ。
三年ほど前に「バルトロメオ利休」の名で小説を書き始めた。
高一の時にとあるサイトに投稿した冒険小説が人気になり、書籍化にまで漕ぎつけた。
今では、アニメ化の噂も囁かれている程だが、学校の友人たちは俺の裏の顔を知らない。
今日は開校記念日とやらで、休日だった。
外界で刺激を受けようと思っていたのだが、あいにくの雨だ。
仕方がない、執筆作業をするしかない。
父さんは仕事でまだ帰ってこないだろうし、
母さんは二年前、大麻をキメすぎて逝っちまったし、家には誰もいない。
少しボリュームを上げて音楽を流そう。
卓上のミニコンポにパンクのアルバムをセットした。
気分が乗ってきた。
ついでにコーヒーも淹れようか。
バッと立ち上がり、キッチンを目指す。
砂糖は二個、ミルクは泡立ててコップのふちぎりぎりまで、
どんなコーヒーでもおいしく飲める、俺のささやかな魔法だ。
小説のアイデアをポンポンと頭に浮かべながら、コーヒーメーカーをセットした。
すぐにぐつぐつと音を立て、コーヒーが溜まっていく。
ふと窓に目をやると、ザーザーと降る雨。
数秒前のわくわくが雨に冷やされた。
溜息をつく。
思いつめることは何も無いのに感傷的な気分に浸れるのは、ティーン特有のものかもしれない。
ボーッとしていて、気がつくとコーヒーメーカーはもう止まっていた。
自分に喝を入れるため、無理に元気よく立ち上がり、砂糖とミルクを慣れた手つきで入れる。
カップになみなみまで入った液体をこぼさないよう、少し駆け足で階段を上がった。
昇りきってすぐ右の自分の部屋に入るときにはほぼ全力で走っていた。
危険だと思った時にはもう遅かった。
コーヒーにびちゃびちゃと手を濡らされながら、タンスの角に正面から激突した。
最初は、ゴンッという鈍い痛みに気を取られ気がつかなかったが、下半身に違和感を覚えた。
何かがブチブチと抉られる感触がしたのだ。
足の付け根にショッキングな痛みが走る。
取り返しのつかない事態になった、と本能が言っている。
俺の男根は根元から取れていた。
衝突の反動で後ろへ倒れながら、股間に空いた穴はじゃぶじゃぶと失禁した。
それと同時にカップが手を離れ、宙を舞った。
次の瞬間、顔面にコーヒーがぶちまかれながら、スーッと風に煽られるように意識が飛んでいった。
ーーーーーー
鬼河原 権蔵。現在無職。
私はどこにでもいるような中年男性だった。
少なくとも四日前までは。
私はアダルトグッズの製造販売を行う会社「ビンカンパニー」の開発部に勤めていた。
とはいっても、女性をオーガズムへ導くプロセスは単純明快である。
この手の商品で「開発」できるのは、バイブレーションの強さだとか、素材だとか、それぐらいだ。
されど私は仕事人、そう開き直ったのが五か月前、
業界で磨いた腕で、革新的な試作品をつくりあげた。
柔らかいブラシを使用した、なかなか刺激の強いものだった。
社員による実験、企画を行い、案外あっさりと上層部のゴーサインを貰った。
私の自信作は世に出回り、すっかり満足していた。
しかし、発売数日後に私は一本の電話を受けた。
声を聴くなり、怒っていることがすぐに分かった。
製品があまりに強力過ぎた故、陰核が炎症を起こしたというのだ。
取扱説明書には使用上の注意について明記されていた筈だと言って、半ば強制的に電話を切った。
だが、数日に渡り似たクレームが相次いだ為、商品は回収されることとなり、私は三日前に解雇された。
そんな私だったが、立派な息子が一人いた。
同じ会社に勤めていた妻との間の子だが、
妻は二年前に大麻をキメすぎて逝ったので、今は私が一人で育てている。
成績優秀で将来有望、と担任の教師にべた褒めされるほどだ。
カエルの子はカエルなんていうのは間違っている。
息子に嘘をついて公園のベンチで時間を潰す生活も今日で三日目、雨ざらしの父親である。
息子を騙すのはこれが何回目だろうか。
この噴水広場で、幼い日の息子に職業を尋ねられたことがあった。
私はふざけて、人を気持ちよくする仕事をしている、と答えた。
気持ちよくする、が転じて、癒す、となり、なぜか私は製薬会社に勤めていることになっていた。
息子は私を尊敬しているらしいが、息子の中の父親とは雲泥の差、泣きたくても出せる涙はもう無い。
そろそろ帰ってもいい時間だろう、すぐに売るだろう高級腕時計に目をやった。
18:26…
濡れたスーツに邪魔されながら、重い腰を上げ、息子が待つ自宅へと重い足を進める。
びちゃびちゃと音を立てて歩いていくと、10分もしないうちに自宅前にたどり着いた。
こんなに近いのか。
仕事があった時は距離なんて意識することはなかったので、意外だった。
ガチャリと玄関扉を開けた。
二階から音楽が聞こえた。
息子は、音楽を聞いているときに話しかけるとたいてい嫌な顔をするので、放っておこう。
乾いたタオルで体を拭き、部屋着に着替え、TVをつけたが、
ふと洗濯物のことを思い出す。
家を出るときには雨がすでに降っていたので、二階の寝室で干していたのだ。
重い足取りで階段を上った。
半分上がった辺りで異変に気が付いた。
変な臭いだ。恐る恐る階段を上がっていく。
音楽が徐々に鮮明になる。目線の高さに二階の床が見えた。
茶色っぽいミルクのような液体が、右の部屋から広がっている。
息子の好きな甘ったるいコーヒーを思い出した。
嫌な予感がして、部屋へ駆け寄った。
彼は白目をむき、頭から茶色いミルクが放射状に広がり、口からは泡を吹いていた。
それが息子の好きな泡立てたミルクなのかは分からなかった。
下半身からはドロドロした血液が垂れており、床の透明な液体には血が交じっている。
コーヒーの香ばしさ、血の生臭さ、アンモニア臭が混ざった異臭にむせる。
状況が全く理解できなかったが、
自分の心拍に気を取られて聞こえなかった音楽が再び耳に入ってくると、ビクッとした。
「あ、あ、ああああっ」
「ひゃあああああああああああっ」
最初はその場で叫んでいたものの、すぐに逃げ出したくなった。
のしかかる不幸の連鎖に耐え難くなったのだ。
奇声を発しながらバーッと階段を駆け下り、玄関を目指した。
靴も履かず、勢いよく扉を開ける。雨の中を飛び出した、と思ったのもつかの間、なにかに衝突した。
わずかに正気を取り戻して前を見た。
自分よりも少しばかり大きな男だ。
適当に謝って済ませようとしたが、異常に気が付いた。
男が笑っている。
逃げ出そうと考える前に、男が口に手を突っ込んできた。
その手の味は不衛生そのもので、泥臭く、激しい吐き気を催した。
手を噛みちぎろうと歯を立てると、手の甲のちぎれた血管からプシュプシュと血が吹く。
しかし、男はびくともしない。
そのまま体を持ち上げられ、自宅の庭へ連れ込まれた。
男は私の胸に乗り、片手でズボンと下着を脱がせた。
男の大きな背中から何をするのか見当もつかなかったが、
常人ではまずしないようなことをするのは間違いないだろう。
両手、両足、そして口にはいつの間にかロープが結ばれ、身動きが取れず、声も出ない。
男の右手にはナイフが握られている。
その鋭利な恰好を見てくらくらしながらも、覚悟した私はもう無心になっていた。
すると、男は唐突に私の陰茎を握った。
また、死の恐怖が蘇る。ナイフの刃先に陰茎が垂直に当たると、スパッと先端が薄切りにされた。
声が出ないまま、ロープに歯が喰い込む。
男はどんどんと陰茎を薄切りにしていく。
ギーッギーッと切られるたびに激痛が走り、意識が遠のいていく。
男が四分の三程度切り終わった辺りにはもうほぼ何も見えず、
自分が何をされているのかすら分からなくなっていた。
徐々に恐怖が薄れていき、意識が完全に飛ぶ寸前には、私は意外にも安らぎに満ちていた。
そして私は、見慣れない西洋風の一室で目を覚ます。