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季節の呼ぶ声

盆に帰らず

作者: 稻葉野々

盆には帰りません。


息子から来た最初で最後の手紙は、たった一言、なんとも素っ気なかった。

繰り返し読みながら、陽に当てて透かしてみたり、逆さにしてみたり、様々なやり方でどこかに「ごめん」とか「嘘」とか、そういった言葉が隠されていないか探してみる。

しかし、もちろんそんな都合のよいものは見当たらない。こんな内容でも一俊が書いた文字というだけで愛おしいのだが、それでもこれを本心と認めてしまうのは、やはり悔しい。


こうして手紙を眺める夏の恒例行事も、今年で三度目になった。

便箋はところどころ黄ばみ、斜めに傾いた癖のある鉛筆文字は、私が何度も指でなぞるものだから段々と薄れてきている。

この手紙の通り、結局彼はあれから一度も帰って来ていない。

昔から意地っ張りで頑固なところがあったから、勢い余って手紙を送った手前、きっと引くに引けなくなって、困っているのだろう。

顔を見せてほしい。少しだけでいいから。それができないなら、せめて声を聞かせてほしい。

盆が近くと神棚の裏に仕舞われた手紙を取り出して、私は少しの時間泣く。

喚く蝉の音に紛れ、声を漏らして泣く。



音楽をやるんだと声高らかに宣言して東京へ行ったのは、高校卒業式の少し前のことだった。

せめて卒業してから行きなさいと言ったのだが、まったく無視を決め込んで、驚くべき早さで荷物を纏めてうちを出た。背中には、去年買ったばかりのギターを刀みたいに携えて。

あまりに頑なだったので、最後には折れて、玄関先で見送った。ありがちなドラマを観てるみたいに客観的な気分だった。

真面目なあの子にこんな行動力があったのか。

怒るよりも先に感心してしまったのだが、それは夫の方も同じだったようだ。息子が出て行って呑気な夫婦が2人きりになると、一俊が生まれた頃のアルバムを引っ張り出してきて、それを眺めながら「あの子がねぇ」と困ったように笑って話した。


それから数ヶ月後、上京した年の夏、彼は何事もなかったかのように連絡もなく実家に帰ってきた。

「ほら、土産。」

東京駅でなぜか沖縄の紅芋タルトを買ってきたのが彼らしい。私が不思議そうに箱を見つめていると、うまそうだったから、とぶっきらぼうに言い捨てた。

薄っぺらな荷物は畳に投げ置いて、いつもの座布団に胡座をかく。

どこか緊張した顔つきで俯いて黙々と麦茶を飲んでいたが、風鈴が揺れると、無言の助け舟を出された様にぱっと顔を上げ、東京は暑すぎる、と呟いた。

「どのくらい暑いの。」

「こっちは日陰に隠れればなんとか涼しいけど、あっちじゃ日陰も蒸し地獄。」

シャツの首元を扇ぎながら、わざと苦しそうな顔をする。

このときは一瞬だけ、もう東京飽きた、帰ってくる、なんて言い出すのを期待した。


一度会話を始めると、元のお喋りが戻ってきて、バンド活動やバイトの話、東京でできた友人のことをひとしきり話した。私は正面に座り、黙って聞いていた。聞きたいことはすべてあちらから話してくれた。


話が不意に止み、静かな時間が流れた。沈黙を攫うようにまた風鈴が鳴り、遠くで鷺の声がした。私と彼は同時に窓の外に目をやった。

勢いで家を出たことはやはり悪いと思っていたらしい。

私が一切そのことについて触れないでいると、家に来る前からずっと言おうと決めていたのだろう、口元を拭い、胡座を組み直して、唐突にごめんと云った。

風鈴よりも微かな、子供みたいにか弱く、溶けるような声で。小さく首を垂れて。

雲ひとつない目の痛くなる青空を見たまま、何故だか目頭がじんわり熱くなった。日に焼けた腕は逞しくなっていて、覚悟して私の返事を待つ姿はすっかり大人に見えた。

成長した。私の知らないところで、一人で模索しながら彼なりに進んでいる。そう思うと驚きや喜びが沸くと同時に、少し寂しくもあった。

きっともう、此処で一緒に暮らすことはないのだろうと、改めて覚悟した。


無理やり涙を引っ込めるようにして立ち上がると、

彼は怯えたような目で私を見上げた。

「晩御飯なにがいい?」

腰に手を当て、にっと唇を持ち上げて微笑む。

久々だから、ご馳走作るよ。

彼は一瞬惚けた顔をしたが、次いで私とよく似た照れ臭そうな笑顔を見せた。

「ハンバーグ。トマトソースのいつものやつ。」

幼い頃、毎年の誕生日にリクエストされていたメニュー。まだ覚えていたのかと思うと、ふっと力が抜けて、また泣きそうになる。

それからというもの、盆に帰ってくるときにはいつもハンバーグで迎えるようになったのだ。


正月と盆には律儀に帰ってくる。気がむくと、時々電話もかけてくる。

「そんなに電話してこなくたって元気でいるわ」

照れ隠しで伝えると、

「親父もお袋も、もう年だろ。明日には死ぬかもしんないんだから。」

なんて同じように照れ隠しの悪ふざけを言って笑った。

25歳を過ぎたあたりから、あれだけ夢中になって、こちらが飽きるほど語っていた音楽の話をしなくなった。

まるで触れてはいけない禁忌のように、私もそれを感じ取って、こちらからも何も聞けない。そうしていればまたいつかあちらから話してくれるだろう、と半ば呑気に構えていた。

きっとそれが甘かったのだろう。

もっとしっかり話を聞けばよかった。もしかしたら一人で悩んでいたのかもしれない。離れている分、わかりあえない事はたくさんあるのだという、当たり前のことを忘れていた。


バイト仲間の愚痴ばかり溢すことに腹が立ち、珍しく叱ったのが最後の電話だった。

「俺だって、やることやってんだよ。辞めるわけにはいかねぇんだよ。愚痴ぐらい言ってもいいだろ。」

それを聞いて私はつい、今まで言えなかった、言ってはいけないと思っていた、彼にとって一番残酷な一言を言ってしまった。

「音楽やるなんて大見得切って出て行ったのに、今、一体何をしてるの。」

いつかは聞くべきだと思っていたが、こんな感情的になって言うつもりではなかった。

一瞬の間がこれほど長いと思ったことはない。背後で警報機の音が響いていて、余計不安を煽った。

彼は受話器の向こうで小さく笑った。

たしかに、と呟いてしばらくの沈黙のあと、

「なにしてんだろうな、俺。かっこ悪くて、合わせる顔がねぇよ。」

と今にも泣きだしそうな声で言い、そのまま電話を切った。

それから数日後に、あの手紙が届いた。

「盆には帰りません。」

短い手紙の中には彼なりの決意や、甘えていた自分との決別や、そういう言葉が含まれていたのかもしれない。

そんなこといったって、帰ってくるんでしょう。いつもみたいに。

簡単に考えていた私は。息子の決意を信じられなかった私は。後悔してもしきれないほど、愚かだった。


本当にそれきり帰ってはこなかった。

手紙が届いた数日後、3月の半ば、寒の戻りで北風の冷たい夜。

彼は友人宅でお酒を飲んだ帰り道に、心臓発作を起こして死んだ。

たった1人で。電気の切れかかった街灯にもたれるようにして。どこかにかけようとしたのか、携帯を握ったまま。

見つけたとき、笑ったような顔をしていたと、葬儀に来てくれた息子の友人から聞いた。

東京で出会った、私がまったく知らない男の子だった。こんな形で会うことになるとは、思わなかった。結婚式とか、そういう場で出会いたかった。

まだ若い。あまりに早い。

現実を受け入れる、受け入れないの問題ではなく、ただ盆になればいつものように帰ってくると思った。

手紙のことは、

「ごめん、あれやっぱ嘘。」

なんてお調子者の顔で笑って謝ってくる。そうしてまたいつものようにお喋りをするのだ。

しばらくは、周りから感情がなくなったのではと逆に心配されるほど、泣くこともなく普通に暮らしたのだが、盆が過ぎ、9月になっても戻ってこないとなると、急に体の底が凍るような恐怖がやってきた。

私はようやく、もう電話もこなければ、土産を持って実家に帰ってくることもないのだと理解した。してしまった。

今度は休みなく泣いて過ごした。

身体の水分が空っぽになって、干からびて死ぬんじゃないかと思うくらい。そうなったほうがよかったのだけど。

前触れなしに笑顔を思い出しては泣いた。

彼が最後に持ってきた土産の空箱を見て泣いた。

次泊まったときに使ってもらおうと思い、用意しておいた買い置きの青い歯ブラシを見て泣いた。

離れて暮らしていたから、特別に日常は変わらない。だけど自分の身体の大事な部分が持っていかれたように、確実に生活は不完全になって、もう二度と元のように戻ることはないのだと知った。

いつか会えると思って暮らすことがどれだけ幸せなことだったのか知った。


扇風機が首を振っている。

昔は庭に面した窓を開け放ち、空気を入れれば暑さが和らいだものだが、今は暑い空気が舞うばかりでちっとも涼しくならない。年々暑さが増している気がする。

汗の浮いた額を拭い、台所に立つ。

換気扇にとまった油蟬が煩い。じりじりと油で揚げられてるような音をたてている。


今年の盆は、ハンバーグを作ろうと思った。

茄子や胡瓜なんか今時流行らないよ、好物でもないと帰る気しないし、などと生意気なことをいう顔が目に浮かんだからだ。

恥ずかしがっているのか、私が怒っていると思っているのか。律儀にあの手紙に書いたことを守っているのか。

判らないが、せめて盆には帰ってきてほしい。何事もなかったように笑って迎えてあげるから。

また夏になれば帰ってくるという、夢をみたい。

夢を見て、もう少しだけ生きて、待っていてあげたい。


風鈴が揺れる。振り返ると、すべてを焼き尽くすような強い陽の光が部屋の中まで差し込んで、彼の写真を眩しく映し出していた。

「一俊。」

名前を呼ぶと、まだどうしても目頭が暑くなる。

いけない。こんな姿じゃ、一俊が帰ってくるはずがない。

「まだ泣いてんの?」

母さんってそんな弱かったっけーーー

きっとそんなことを言って照れ隠しで笑いながら、私の顔を覗き込むんじゃないかしら。

まな板に向き直り、一呼吸してから、再び包丁を握る。

待っててね、今ハンバーグを作ってるから。

あなたの好きだったトマトソースの、いつものやつ。

お腹に力を入れてなんとか笑おうとしたけど、玉ねぎがどうにも涙を止めてくれなかった。


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