2章−第3幕 テレッセ重工
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月面には全部で48のドーム型半地下都市が存在した。だが、先のハイヴィスカス戦役により、約半数のドームが破壊され、それらは復興の対象外として未だに放置されていた。その月面の死者数だけ、実に約2億3000万人。空前絶後の大殺戮劇であった。
月面に住まう約半数の人類が死に絶えた。通常の都市であれば、全滅などしなかっただろうが、月には火星とは異なる事情が存在した。
惑星改造技術が適用できなかったのだ。
完成した技術とは言い難いソレは、それでも実用化されており、火星では荒野と砂漠が大半を占めるとはいえ、一応、宇宙服なしに都市の外を歩ける程度にまで改造が進んでいる。だが、この地球の衛星であり、もっとも人類にとって身近な天体に惑星改造が施される事はなかった。理由はただ一つ、重力が小さく大気を地表に繋ぎ止めて置けなかったからである。
結果として、合成強化プラスチックに覆われたドーム型の都市が建設され、約5億人もの人が住む天体となった。ゆえに、この合成強化プラスチックのドームが破壊された時、そこの住民は助かる術がなかった。確かに非難スペースはあったが、それは救助があってのものであり、長時間の非難を計算したものではなかった。助かった者もいたが、それは極少数であり、地球圏に於ける重要な経済拠点となっていた月は壊滅に等しい打撃を受けたのであった。
そもそも月の経済的な重要性は、地球上では大気圏の離脱突入にどうしても多大な費用が掛かる所を、月面であればその輸送コストが20分の1以下に抑えられるという点であった。輸送費削減は企業にとっては重要な課題であり、かくして月面は一大経済特区として2世紀に渡り発展をし続けてきたのである。
だが、最盛を極めていた月面都市であったが、金星無人艦隊の手によって無残にも破壊されてしまったのである。
それでも月面は宇宙艦船建造の一大基地として、全長1000m超級の大型宇宙船を建造する大型ドックが4基、中型宇宙船用ドックが20基、さらに対軌道宇宙機や航宙連絡艇、CAや小型船などを製造する大規模工場に至っては、百以上を数える人類圏最大の工業生産能力を有しており、経済域として健在し続けていた。
そして現在、それら全てが昨今の艦隊再建ラッシュと【カグラ・プラン】による宇宙規模の物流計画の影響で、日夜休まず、次々に艦船を吐き出しているのである。そして、その中の一つにて完成したアーテミーゼ社の新造艦ユリシーズの進宙式が、明日、行われようとしていた。
月面の造船所の多くは民間企業の所有する施設であったが、この新造の重巡艦が建造されたドッグは数少ない連合宇宙軍の所有する施設であった。この建造ドッグは、所謂「軍事機密の保持を目的とした試作艦Xナンバー」の建造を行う為の施設であり、外面を重視する連合宇宙軍の施設にも関わらず、錆止めの赤色塗装だけが施された内装は、彼らが艦隊再建をどれだけ重視しているか物語っている。
そこに、流麗な船殻をした白亜の巨大な重巡艦の姿があった。全長500mを誇る威容は、地球圏の宇宙戦艦クラスと比べても遜色なく、従来の重巡艦とはまるで異なる艦のように思えた。しかも、この大きさでありながら、アーテミーゼ社提唱する少人数による艦運行システムがあり、最小30名で艦船戦闘がこなせるのが売りらしく、様々な部分が自動化されているそうである。
艦名であるユリシーズとは、旧世紀の物語の英雄の名である。もっとも、それにあやかった訳ではなく、単純に過去の英雄とやらの名前をつけたのは、この艦の命名者の趣味であろうことは予測に固くない。とりあえず、新造された重巡艦は、白く輝く甲冑を纏った古の英雄よろしく、神々しい印象を観る者に与えるのであった。
(新型の重巡艦ねぇ。これ1隻で同じ大きさの貨物船が30隻作れる費用が掛るから、驚きだわね)
紺色のスーツに身を包んだ40代半ばの女性――テレッセ重工航宙開発部のマネージャーを務めるマリー・ラッセルは、ユリシーズを眺めながらそんな感想を抱いた。今回のアーテミーゼ社の新型巡視艦のプロジェクトには、大小合わせて百近い企業が参加していた。その中に、旧EU――現・欧州経済圏のフランスの重機メーカーであるテレッセ重工もまた社運を賭けたプロジェクトとして参加をしていたのだ。
テレッセ重工は、これまで古くは航空機や大型トレーラー、新しくは軌道衛星や軍事衛星などの製造で信頼を勝ち取っていた老舗メーカーであったが、創業者から八代目を数えるジャン・バティスト・テレッセは、そのような有象無象の企業家として終わる男ではなかった。
彼が生まれたとき、既に火星や月への植民が始まり二世紀が経過し、今更、地球外の市場に飛び込もうとも、先に根付いてしまった企業に締め出されるだけであり、この一世紀は企業の住み分けが進み、飛び込む余地もない状況であった。もはや経済界におけるシェアに大きな変化はないと思われていた時代だったのである。
だが、それを根底から揺るがす事件が起きたのである。
ハイヴィスカス戦役である。
新たなフロンティアとされ、惑星改造の目的とされた金星には、既に人類が二世紀も前に根付いており、彼らは後から惑星改造を名目とした侵略者たちと戦争を始めたのである。結果、1年に満たない戦争ではあったが、多くの戦死者と人類が保有する宇宙艦隊の実に7割が失われる激戦であった。
ジャン・バティスト・テレッセはそれに目をつけたのである。彼自身、そこまで連合宇宙軍が壊滅的な打撃を受けるまでは予想していなかったが、戦後、地球連合政府が宇宙艦隊再建を重要課題に取り組む事を予見したのである。無論、同じような思考をした者は多かったが、ジャン・バティスト・テレッセはそんな野心家群の中で、遥かに悪辣で、強引で、冷酷であった。
彼は、俗に「第一次月会戦」が行われている頃、宇宙船を造る為に必要な部品メーカーを強引な手段で次々にM&Aをしていった。戦争が終わってから動いては遅く、また戦争の不安に揺れる経営者たちを巧妙に誘導し、次々に傘下に治めていったのである。
次に、彼は火星に飛び立った。艦隊再建に必要な材料である鉱石採掘企業と提携をする為である。戦時中であり、採掘どころではなくなった火星の鉱石採掘企業に多額の独占契約料を支払う事を条件に、彼は3つの鉱石採掘企業との独占契約に成功したのである。
後にジャン・バティスト・テレッセは回想する。
もし、ハイヴィスカス戦役があと1ヶ月は長引いていたら、私は破産しただろうと。
しかし、「もし」はなかった。戦争は、地球連合の辛勝というジャン・バティスト・テレッセにとって、最も望ましい結果で終わったのだ。地球連合政府は、戦争の終結と同時に、すぐさま宇宙艦隊再建に取り組み始めた。
「爆発」とまで呼ばれる宇宙艦船建造の大ムーヴの到来である。地球連合政府は莫大な戦時国債を発行し、宇宙船舶の購入を各企業に求めた。各企業は艦船を急ピッチで作り始めたのである。それは一種の時流にのった経済の大発展であった。その前の金星への植民計画が合ったためもあり、宇宙船舶の建造企業は輸送を目的とした船舶を建造する準備をしていたのである。
かくして、テレッセ重工はたったの一年で大躍進を果たした。宇宙船舶を造るための部品メーカーを押さえ、さらに原料がないと生産をストップさせる企業が多い中、テレッセ重工だけは順調に生産を続けることができたのである。1年前までは無名の企業が、一気に人類経済圏においてトップ50に入る大企業へと成長したのである。
だがジャン・バティスト・テレッセの野心はそれで終わらない。
彼にとって、それは通過点でしかないのだから。
「今、人類圏で十指に数えられる企業は全て、二世紀以上の歴史を持つが、それらは全て過去の遺産と惰性で大企業の看板を下げているだけだ。そろそろ、その看板も新しく取り替える時期が来たとは思わないかね?」
ジャン・バティスト・テレッセは度々、そう云うようになった。彼の思想は、宇宙船舶へと向けられた。無論、テレッセ重工に、宇宙船舶を製造するノウハウはない。そして、船舶を売りさばけるだけのコネクションもなかった。だが、それが何だというのだろうか?
原料を押える事に成功したテレッセ重工は、いくつかの宇宙船舶を建造する中小企業のM&Aに取り掛かる。その手段、悪辣にして狡猾、と業界内で評されたようにジャン・バティスト・テレッセは法に触れる寸前のやり口で、建造技術と施設を入手したのである。
たった2年で一大複合企業と成り遂せたテレッセ重工は、さらなる躍進を虎視眈々と狙ったのである。そこに舞い込んだのが、アーテミーゼ社による少人数による宇宙艦船の運行システムを搭載した宇宙艦隊再建プランであった。
元々、軍事衛星の発注などで一部の連合宇宙軍と繋がりのあったジャン・バティスト・テレッセは、私的なルートを使って、この計画が押し通るように裏工作をした。アーテミーゼ社のプレゼンも上々の出来であり、こうして試作艦として仮採用されたのである。艦船を作るようになったとはいえ、ノウハウや人材育成の件もあり、ジャン・バティスト・テレッセは、アーテミーゼ社に協力しつつ、さらなる躍進の為の力を蓄える事にしたのである。
たった二年間で大企業に成り遂せたジャン・バティスト・テレッセの経営者としての器量は凄まじく、傘下に治めた企業を含めれば数万人の社員を抱える地位に上り詰めながら、彼の処理能力は未だ余裕があった。彼の企業家としての経済的才能は稀有のものであり、人類経済圏全てを治めても機能するだけの能力と気力が彼にはあったのだ。そして人類史上稀有の経済的才能を持つ傑物ジャン・バティスト・テレッセの下に、彼の部下に相応しい優れた人材が集っていたのも、躍進の要因であった事は疑いようもなかった。
とどのつまり、テレッセ重工航宙開発部は素晴らしくピカピカの新しい部門であり、マリー・ラッセルはその手腕をジャン・バティスト・テレッセに買われ、こうして月面の建造ドッグに立っていたのである。
「ジャンも、この情熱の半分でも子育てに注げば、いいお父さんに成れるのにねぇ」
所謂、天才と呼ばれる人種にありがちな、生活感覚の欠如、というのがジャン・バティスト・テレッセにも見られた。彼は、己の会社を強大にさせる事に比類なき情熱を以ってあたり、その才能を注ぎ込んだが、己の実子についてはそれほど興味を抱かなかったようだ。長女は軍の知り合いに預け、企業の躍進の為の人身御供に何の躊躇いもなく捧げ、双子の兄弟には帝王学やら技術やらを教え込んでいるが、それは子育てではなく、優秀な部下を育てる感覚に近いことを、長年ジャン・バティスト・テレッセのビジネスパートナーとして付き合ってきたマリー・ラッセルは知っていたのである。
「さて、フレデリクのスタッフにも挨拶しなきゃね」
偉大なるジャン・バティスト・テレッセの御曹司の片割れであるフレデリクの航宙訓練の手続きに向かうべく、マリーは軽やかに月の引力を振り切る。中継ステーションの襲撃事件が未解決の中、息子に航宙訓練を課す父親の心情は理解できなかったが、命令された以上、マリーは特に気にしなかった。
それで死んでも、あの男は「そうか」の一言で済ます事を知っていたし、フレデリク自身ときたら、自分が不死身か何かと勘違いしているキライのあるクソ生意気なガキなのである。まぁ、親爺が親爺なら、息子が息子といったところか。
こうしてマリー・ラッセルは、次の仕事に向かうのだった。