4章−第1幕 エージェント
第四章
「それは宣戦布告と解釈してよいのだな、レカル・フォルティーナ代表?」
「それ以外にどう解釈しようがあるというのだ。気どるな、バカ!」
(宇宙暦306年9月 火星解放戦線代表と地球連合政府高官との会合より)
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『咲き乱れ、散りゆくは命の華』――誰の日記であろうか、その男が目を通した日記は半ばにそう一文が書かれ、唐突に終わっていた。何度も読み返したのだろう。日記のページの端はボロボロになっている。それを重厚な造りの机の引き出しに仕舞う。
半年前に地球連合政府軍情報部のトップに就任した男――バラゾール・カークは、ゆっくりと目を瞑った。今年で43歳になる彼は、その年齢以上に若く鋭気に溢れていた。凄いと云うほどではなかったが大柄で鍛えられた体躯は、軍服の上からでも見て取れたし、短く切りそろえた黒髪と日に焼けた小麦色の肌は、独特の精悍さを醸し出していた。危険な魅力、と呼称するが最も相応しい雰囲気の男であった。
現在、情報部は総力を挙げて、ステーション連続襲撃事件の調査と、先日の巡視艦ガンドレイクの襲撃犯について調べていた。
西暦から宇宙世紀に年号が変わり、人類も名目上は地球連合政府なる統一政権によって纏められたが、三世紀たった今でも地球上には無数の独立政府が存在しており、地域紛争は続いていた。人類全体の目が宇宙に向けられ、移住が始まる頃、地球連合政府軍情報部は人類社会の必要悪として生まれた。
彼らの目的は同胞である人類の絶対数の安定であった。三世紀に渡って、彼らは社会の闇に根を張った。ゆっくりと、ゆっくりと根を伸ばし、世界の絶対多数の安定の名の下に様々な謀略を巡らせてきた。権力闘争の背後で糸を引き、順調に確実に安定へと人類社会を導いてきた。
宇宙海賊組織の跋扈、火星独立運動の激化、コロニーに蔓延る新興宗教、電脳麻薬という新たな害悪、終わりの見えない地域紛争……etc
情報部は戦い続ける。人類社会の影である彼らは、人類がある限り戦い続ける。もはや彼らは己自身すら見失っていたのかもしれない。何のための闘争なのかを。だが、そんな情報部にとっても金星との戦争は青天の霹靂であった。
彼らとて何もないところから情報を得る事はできない。そして、金星軍は彼らを嘲笑うように彼らの情報網を叩き潰していった。終戦を終えた今日、彼らが知っているのは、彼らの情報網を寸断した部隊の名前と、死んだ諜報員の数だけであった。かくして、バラゾール・カークは情報部再建――あるいは再生と云うべきか――の為に抜擢された男であった。
地球連合政府軍情報部は全部で八つの部門にて構成されている。
即ち、対外諜報部、対内諜報部、保安警察部、政治経済部、財務経理部、資材管理部、総務人事部、施設研修部である。もっとも、公開されているのはこういった八部門が存在している、というだけであり、その詳細な部署や人員構成、責任者や予算などといったところは完全に非公開であり、事実、情報部長に就任したバラゾール・カークにしても、漠然とした構成員数と任務報告しか知らされていないのである。
情報部長就任から七度、対外諜報部や対内諜報部の責任者との面接を求めたが、全てが代理人であり、本人の名前すら明かされなかった。)|《大鎌》(サイス)、|《富》(コイニージ)、|《手紋》(マーク)、|《決定論者》(データミニスト)、|《傍受》(タップ)、|《証人》(ウィットネス)、|《奉公人》(ビホールデン)、|《長椅子の男》(チェアマン)、このコードネームを持つ八名がそれぞれの部門のトップであった。彼らはバラゾール・カークの命令には迅速に応え、詳細な報告書を期日までに提出してきた。だが、決して直接会う事だけは頑として応じなかった。曰く「必要性を認めないと」。ゆえに彼は己の手足となる部下を集った。特殊部隊や空挺部隊はもちろん、人類圏に於いてバラゾール・カークの信任に足るメンバーを集めて、組織したのである。
情報部第9観察室――完全なるバラゾール・カークの手足となるメンバーであった。完全なる私兵組織の編成にも関らず、八名の幹部たちは何も言ってこなかった。バラゾール・カークの行動に気が付かない彼らではないだろうが、それで恩でも売ったつもりにでもなっているのだろうか。
通称『ネスト』と名づけられた、バラゾール・カーク閣下の諜報機関は、情報部とは別ルートでの調査を続けさせている。
そして、今日。
その報告書が届く事となっていた。
重厚な樫の木造りの扉がノックされる。瞑っていた目を開き、漆黒の双眸を扉に向け、入れ、とだけ短く云う。扉が開かれると薄い黄色の真珠のような肌の女性が立っていた。癖のない黒髪に黒い大きな瞳、小柄で華奢な肢体の女性である。
「黄麗、報告書をお持ちしました」
銀鈴の声音が執務室に響く。バラゾール・カークの信任するネストのメンバーの一人であり、唯一、秘書として公の立場を持つ人物である。手渡された報告書を無言で受け取り、報告書に目を通す。
この一冊の報告者が歴史にどのような影響を与えるか、それはまだ誰にも知る事のできない事であった。