08話 「氷の女王」
『おっ? 会話できるようになったかと思えば、この状況とは……私との接吻がそんなに不満だったのか?』
やれやれと呆れたような声が、頭の中で鳴り響くが、今の良は思考停止中のため、反応できない。
ふと我に返ると、金髪の美少女の手に握られた封筒が目に入る。
封筒の中には彩音の分の報酬も入っている。このまま黙って盗られるわけにはいかない。
「か、返せよ!」
椅子から立ち上がって、彼女が持つ二百万円へと手を伸ばすが、あっさりと避けられてしまう。
「手首の酷い火傷。家族と学校に対する記憶の改竄。私たちがいなければ、今頃あなたはどうなっていたのでしょう? これだけのお金じゃ、足りないくらいに私たちは働かせてもらったわ」
だからと言って人のお金を何の了解も得ずに盗って良い理由にはならない。
「お金も渡した上で、私たちの望みを一つ聞いてくれてもいいんじゃない? おまけにキスもして差し上げたのに」
彼女は自らの下唇を小指で撫でながら笑みを浮かべる。その色っぽい仕草に見惚れない男はいないだろう。
それは男である良も例外ではなく、見惚れている自分に気が付くとすぐに、彼女から目を逸らした。
『生意気な女だ。それに下品』
彼女とは違って、元魔王には色っぽさはないが、生意気なのはどちらも一緒だ。
『生意気ではない。元魔王の威厳がある、と言え!』
命令されたが、従うことはなく、目の前の問題の解決を試みる。
「もう分かったから! 俺は別に入ってもいい。でも、彩音が了承しなけりゃだめだかんな? それとその封筒には彩音の分の報酬も入ってるから返せよ」
「私と勝負して、勝てたなら、返してあげても良くってよ?」
「勝負……?」
嫌な予感しかしない。
「鬼ごっこをしましょう。あなたが鬼ね。私に触れた瞬間にあなたの勝ち」
触れれば勝ちというのは、簡単なルールで、すぐにでも彼女に触れようと、足を動かそうとする。
「Regfniez」
彼女が詠唱したその瞬間、動かそうとしていた足が、まるで釘で地面に打ちつけられ、固定されたように動かなくなる。
『ほう?』
感心するような女の子の声が頭で鳴り響く。
足元に目をやると、学校指定の靴と床が凍りついていた。
「まだ、始めるなんて言ってませんよ? せっかちな人は嫌いです」
先ほどまでの笑顔はもうなく、良を睨みつける彼女の目は、全てを凍りつかせそうなくらい冷たかった。
美少女に嫌いと言われ、ショックを受けたわけではない。
いや、正直に言うと少しショックだったが、それよりも彼女の眼光には明確な殺意が込められているように感じ、恐怖していた。
氷の魔法。
良が扱えるのは今のところ、炎の魔法のみで、その詠唱も限られている。
そんな自分が彼女に触れることが果たしてできるのか。
『やってみないことには分からないだろう?』
珍しく正論みたいなことが聞こえてくる。
自称、元魔王である彼女の発言だからと言って、信用していいかというと、そうでない。
目の前の金髪少女の力量も彼の力量も、分かった上での発言にしては曖昧すぎる。
『ならば正直に言わせてもらうぞ。君は、この下品な女には勝てない』
元魔王に言われては納得せざるを得ない。
だったら、無謀なゲームに乗る必要はないんじゃないかと思ったが、目の前のご令嬢は始める気満々なご様子だ。
彼女は、右手の人差し指に嵌めていた指輪を外して放り投げる。
床に落ちた指輪は金属音を立てながら飛び跳ねた。
誤って落としたわけではなく、意図的に床に落とした。
これで何も起こらないなんてことはないだろう。
そして、予想通り、指輪が段々と大きくなり、フラフープと同じくらいの大きさになった。
指輪の内側の茶色い床が真っ黒に染まる。
「その足、解凍し終わったなら下りてきなさい。あなたが下りてきた時点でゲームスタートにしましょう」
そう言うと、彼女は茶色い床に空いた黒い穴に吸い込まれるように入っていった。
『ゆっくり解凍しないと、ゲームどころではなくなるぞ』
助言通り、ゆっくり融かすようなイメージをしながら、詠唱する。
「Weloly masfel」
黄色い炎。
うまくいったかと思いきや、それでは火力が強すぎたようで、解凍はできたものの、足に激痛が走る。
『やりすぎたな』
彼女と同じことを頭の中で呟いた。
下りてこい、と言われたが、下りた時点で足が使い物にならない可能性がある。
黒い穴の中をそっと覗き込んで中を確認しようとするが、真っ暗で何も見えない。
不安で仕方なく、同時に逃げたい気持ちもある。
そう言えば、今部室にいるのは、彼女に付き添っていた一人の女子生徒だけのはずだ。
今なら、逃げ出すことができるのではないかと考えたその時、背中を誰かに押される。
後ろを振り向く間もなく黒い穴に落ちた良だったが、誰が押したかは明白だった。
思わず目を瞑ったまま、穴に突っ込んだ良が、目を開ける前に硬い地面に顔をぶつけて「ブッ!」とどこから出たのかもわからない声を出した。
「いってー……」
鼻が折れ曲がってないか確認してみたが、そんなに高くない鼻はいつもと同じ形をしていて安心する。
起き上がって周りを見回すと、何もない白い空間が広がっていた。
体育館くらいの大きさのそこに窓は一切なく、地面も壁も天井も真っ白。
ただし、そんな白い空間にぽつりと一人の女子高生だけが立っている。
『どんなところかと思えば、さっきいた建物の下じゃないか。魔界にでも繋がってると思ったが、とんだ期待外れだな』
彼女曰く、ここは学校の地下にあたるらしいが、そんな場所にこんな大きな空間が存在していることを知らずに生活していた彼にとっては驚きだった。
「ここなら周りが壊れる心配なんてしなくて、存分に魔法を使ってもらって構わないわ。絶対に壊れたりなんてしないからね」
「ハハ……」
起き上がることはできたが、歩くと痛みが走る。
もはや鬼ごっこどころではないのだが、彼女はそんな事気にも留めないだろう。
追い詰められた状況の中で、良は呆れるように笑った。
その行動で何か吹っ切れたような気がする。
それを感じ取ったかのように彼女は呟いた。
『さっき言った言葉だが、君は間違いなく、この女には勝てないだろう。だが――――今の君には私がいる。働いた者には相応の報酬を与えられる義務がある。君の報酬を取り返すぞ』
頼もしい言葉。いつもならば、面倒くさいと感じてしまうそんな言葉も、彼女の言葉は彼の気持ちを高揚させる。
だが、何もかも既に遅かった。
ゲームは彼がこの空間に下りてきた時点で始まっていたのだから。
「Regfniez ordwl」
頬にふと冷たいものが触れるのと同時に、白い空間の床が一瞬にしてスケートリンクに様変わりした。
不敵な笑みを浮かべる金髪の女子高生の後ろに玉座が形成され、腰を下ろして足を組む。
その姿はまさしく氷の女王そのもので、目を奪われるほどその光景は綺麗だった。
同時に、良は違和感を覚える。
「それさ……座ってたら、濡れるよね?」
ギクリという音が聞こえてきそうなくらい分かりやすく、彼女は動揺してみせる。
「そ、そうなる前にあなたを倒します!」
頭の上から湯気が出そうなくらいに顔を赤らめながら言った彼女だったが、そんな事を言ってる内にスカートはおろかその中まで浸水しているのではないかと、良は思う。
その様子を想像する前に、頬に当たった冷たいものが、天井からしんしんと降り始める。
このままじっとしていれば凍え死んでしまいそうだが、それは彼女も同じはずで、かつ、彼女の方が氷の上に座っているので、体温は彼女の方が早く奪われるだろう。
『この状況は実にまずいぞ……少年』
何がまずいのかピンとこない良は心中で首を傾げる。
『魔法を使ってみればわかる』
使ってみればわかると言われたら使わないわけにはいかず、拳に白い炎を纏う光景を想像する。
「Weith masfel」
その瞬間、両拳が白い炎に包まれ、巻いていた包帯が一瞬で炭になる。両拳が燃えることはなかった。
普通通り魔法が使えて、未だにどこがまずいのか理解できない。
『まだ分からないのか? ちょっと鈍すぎだぞ、君は』
性格のダメ出しをされても分からないものは分からない。
早く教えてくれればいいのにと思っていた矢先に、視界がぼやける。
「あれ……」
両手の白い炎が消え失せ、バランスを崩して地面に四つん這いになる。
「なんで……?」
地面に着いた両手が凍り付いていく。抵抗しようにも力が入らない。
『君の体はもう魔力なしでは生きられなくなってしまっている。ここは魔界と違って空気中に魔力は存在しない』
魔力切れ。先ほど書道部の部室で、氷を溶かし、今、両拳に白い炎を纏った。
たった二回の魔法で、良の魔力はなくなってしまったらしい。
「う、ぐ……」
氷水に手を突っ込んだ時の冷たさと同時に、ズキズキと突き刺さるような痛みも感じる。
「負けを認めたらどうかしら? 本当に死にかねないわ」
『負け?』
その言葉に反応したのは、良ではなく、良の中に存在する少女。
『何を言っている、この女は? 君が負ける条件など、一言も女は言わなかったぞ? だったら、たとえ君が死んだとしても、君が負けたことにはならない!』
良に死ねとでも言っているかのような発言だった。
『少年! ちょっとこちらに来い!』
少女の声と共に、自らの意識を引きずり込まれる。
気が付くと、真っ白い部屋には白いワンピースを着た真っ白な髪の少女が立っていた。
怒ったような表情をこちらに向ける少女は、その碧眼で良の顔を睨み付ける。
『君はもう一生、誰にも負けるな!』
「いや、もう既に負けそうな状況なんですけど……?」
『さっきも言ったが君はこのゲームでは絶対に負けない!』
その言葉は先ほどの発言と矛盾していた。
「さっきはこの女には勝てないって言ってたじゃんか! なのに負けないって意味わからん!」
『“君は”勝てないと言ったんだ! 君と私ではやってみないとわからないとも言った! 油断してるこの女に勝つなら今しかなかろう!』
今しかないと言われても、魔力もなく、手足を氷漬けにされた状態でどうやって勝てばいいのか分からない。
それに戦っているのは自分一人で、意識の中にいるこの少女は今のところ何もしていない。
勝つために何かしてくれるのかと尋ねようとした時、少女が良の方に近づいてくる。
『私と契約しろ! 今後一切、君が負けることを私は許さない!』
契約って言ったって、何かを差し出したり、もらったりするわけもなし。到底、守れるとは思えない約束をしたところで無駄―――――。
その時、今世紀二回目の衝撃が彼を襲った。
それは本日二回目でもあり、彼の人生にとっての二回目の経験でもある。
元魔王で人間ではない彼女の唇と、彼の唇が触れ合った。
それに加えて彼女は彼に抱きついているのだが、今の彼には認識できていない。
『私の唇もなかなかだろう?』
そう問いかけながら笑みを浮かべる彼女は尚も抱きついたまま、口を開く。
『さあ、反撃開始といこうじゃないか、少年?』
「Weith masfel」
気づくと彼は、氷の床に手を着いて、白い炎を想像しながら詠唱していた。
白い炎は彼の両手に自由を取り戻させる。
魔力が切れかかっていたはずの彼がまた魔法を使った事実に、目の前で見ていた金髪の女子高生は、驚きを隠せない様子だった。
そして、彼女の目が捉えたのは先ほどまでとは目の色の異なる男子高校生の姿だった。
(……青……?)
彼女は心の中で呟いた。
「Weith masfel slopinoxe」
もう一度、詠唱した彼の両足が白い炎に包まれるのと同時に爆発した。
瞬間、氷の玉座に座した彼女との距離を一気に詰め、詠唱する隙を与えないまま、炎を纏った拳を振るった。
両目を瞑って、なすすべなしと彼の拳を受け入れる心構えをしていた彼女だったが、いつまでたっても伝わってこない衝撃に目を開ける。
目の前には誰もおらず、少し離れたところに地面を殴りつけた良の姿だけが見えた。
彼女を殴ったと思っていたが、気が付くと地面を殴っていた良は、彼女を殴る瞬間に何か変なものが見えた。黒いようで、透明なような円が目の前に出現したのだ。
『なかなかやりおるな』
元魔王は感心するように呟くが、感心の対象は女子高生ではなかった。
「おーい、お前らそこらへんにしとけよ」
彼女にとってはお馴染みの声が聞こえてくる。
良にとっては聞いたことのあるようなないような声だった。
彼女は立ち上がって後ろを振り返ると、一人の男が立っていた。髪の毛には寝癖がついて、髭は綺麗に揃えられてはいない。スーツを着てネクタイはしているが、Yシャツはズボンの中にちゃんと入っていないし、ネクタイの締めも緩く、全体的にだらしがない。
「お前ちょっとやりすぎだぞ、シャーロット」
だるそうに怒りながら、足を進める男は、地面を殴りつけた良の方に歩いていく。
「よぉ! リョウだっけか? 俺は書道部の顧問やってる八崎ってんだ。気軽に『やっさん』とでも呼んでくれ」
近づいてくると、屈んで目線を少し下げてくれたのはいいが、握手を求められても名前を間違えた人物と握手をするのは気が引ける。
その様子を見ていた八崎は、そんなに自分の手が汚いのかと、まじまじと自分の手のひらを見つめると、だるそうにポケットに手を突っ込んだ。
自ら立ち上がる良だが、普通に立てることを不審に思う。
なぜなら、足の痛みがいつの間にか消えているし、先ほど凍らされた手も、無理やり解凍したのに痛くもかゆくもなかったからだ。
元魔王が何かしら関与してそうだが、語ってくる気配はなく、それ以上考えることはやめにする。
「魔力は……大丈夫そうだ。残念だったなぁ、シャーロット」
「わ、私が残念って意味が分かりませんわ!」
「あ? 接吻したかったんじゃないのか? だから、魔力消費させるようなことしてたんじゃないの?」
「違います!」
「あー……こっちの世界で魔力がなくなった時は誰かに接吻で渡してもらう他ないから」
『そうだぞ』
なるほど。元魔王のキスは魔力を受け渡すための手段だったのか。
だったら、シャーロットという女子高生のキスはどうだったのか。
気にはなったが、彼女の反応が面倒くさそうなので、聞くのはやめておいた。
「一先ず、部室に戻るか。話はそれからにしよう」
そう言って八崎が親指をパチンと鳴らすと、ぐにゃりと光景が捻じ曲がって、良は目を咄嗟に瞑った。目を開けると、そこにはあの白い空間に来る前までいた部室の光景があった。
部室ではシャーロットがいた時にはじっとしていた女子高生が椅子に座ってお茶を飲んでいた。
そして、彼女たちはシャーロットが帰ってきたのを確認すると、すぐに立ち上がってお辞儀をする。
「お帰りなさいませ。お嬢様」
「ただいま」
良がその光景を見て、驚いているのを八崎はきちんとフォローにかかる。
「あれ、シャーロットの使用人な。気にすんな」
耳元でこっそりと彼女には聞こえない声で話すと、いつの間にか十脚以上揃っていた椅子の一つと机に良を座らせた。
「先に言っとくけど、お前もうコミュニティに入ってるから」
「……あ? じゃあ、何の為にこいつと!」
「そりゃあ、お前の実力測る為だろ。知らんけど。おりゃあ関与してねえから、その話は後でシャーロットにでも聞いとけ。んで、俺が今日話さないといけないのはー……っと――――」
胸ポケットから一枚の紙切れを取り出して、見始める八崎。
「――――十億円の懸賞金の掛かった金城をみんなで捕まえよう大作戦!」