07話 「女王の部室」
安心すると、両腕の痛みが増してきた。
左手は指を動かせないが存在はするのでどうにかなりそうだが、存在しない右手は元通りになるのかどうか分からない。
龍に体を食べられてもどうにかなったのだから、おそらく大丈夫だろう。
『生やせば問題ない。髪の毛と同じだ』
また訳の分からないことを一方的に告げてくるのは、天の声。
髪の毛というよりもトカゲの尻尾じゃあるまいし、そう何度も生え変わったりするものではない。
「てかさぁ……お前は、俺の手がこんな状態になるまでよぉ。どこにいたんだよ? あ?」
白い毛むくじゃらの生き物を思いっきり足の裏で踏みつける。
「モフゥ……」
気の弱い鳴き声を発しているが、容赦はしない。
ぐりぐりと押しつぶすように、地面に押しつける。
『「お前が弱いからだろ。クソ野郎」と言ってる。全くもってその通りだな!』
頭の中で響く声がそう告げるが、本当に、目の前の白い魔物がそんな事を言っているのかどうか疑わしい。
「それは意訳しすぎじゃねえの?」
『失敬な! 私は一言一句、的確な言葉で訳したぞ!』
はいはい、とこちらも的確な言葉で対応しておく。
会話をしている分、気は紛れるので結構だが、状況は良くならない。
加えて、意識も段々と遠のき始める。
それは自らの手元を見れば、一目瞭然だった。
大量の血が、服に付着している。
頭もクラクラしてくる。完全に血が足りなかった。
意識も遠のき始めた頃に、目に映る白い髪の碧い眼をした少女。
真っ白な部屋に白いワンピースを着た白い髪の少女が立っている。
「どこ?」
自分も彼女と対面する形で突っ立っており、両手も元通り生えている。
「ここは時間領域ではない別の領域。言わば、深層心理の世界かな?」
答える少女は笑みを浮かべながら、こちらを見ている。
そもそも、意味が分からないのはこの少女の存在だ。
「私は君に埋め込まれた魔力そのものだよ。君にとって、害になる存在ではない。放っておいても問題はない」
「……じゃあ、めんどくせえし、ほっとくか」
「疲れたー」と言いながら、その場に寝転がる良。
「元の世界戻ったら、教えて」
「あ……ああ。分かった」
彼女は頷くと、寝転んだ彼の隣に座り込む。
完全に眠るつもりの彼が寝ている事に、彼女が気が付くまでそう時間はかからずに、顔面を平手打ちする。
風船が破裂したような音が白い空間に鳴り響く。
「寝るな!」
「いってぇな……何が不満なんだよ!」
「私について、他に聞きたいことはないのか!? もう少し、興味を持て!」
我が儘な少女を相手にするのは疲れる。
それに、彼女の自身の話を聞いたら、面倒くさいことに巻き込まれそうな気もするので、できれば遠慮したかった。
だが、今の状況では聞かないと、彼女の機嫌を損ね、面倒くさそうなことになりそうなので、質問する。
「じゃあ、聞くけど誰なの?」
「私は元魔王だ!」
「……あ?」
驚くというよりも、言っている意味を瞬時に理解できなかった。
元魔王と言うと、彼女は魔界の王だったということだ。
そんな大それた存在が何故、こんな普通の高校生である自分の中にいるのか。
彼女は偉そうに胸を突き出しているが、その外見からは魔界の王だったという貫禄も何もない。
「いや、元魔王がこんなとこにいるはずないし、第一、お前、人間みたいな恰好してるじゃん?」
「これは仮の姿だよ。それに、私だって好きで君の中にいるわけではない」
こういう場合、「私が君を選んだ」とでも言うかと思えば、そういうわけではないようだ。
「何故かはわからないが、君だけが私の魔力に耐えることができたのだ。これは凄いことなんだぞ。胸を張って良いことだ」
「俺以外の奴らがヘタレだっただけじゃねえの? んで、耐えられなかったら俺どうなってたの?」
「死ぬに決まっておろう」
まあ、元から、死んだのを助けられた訳だし、そんな危険な実験に付き合わされていたことなど、どうでもいい。
「おっと。もう時間が限られてきたようだな」
「いや……さっき自分で、ここが時間領域ではないとか言ってなかった?」
彼の質問に答えることなく、彼女は突っ立った少年の方に近づく。
「こうなったからには、私は嫌でも君と付き合っていくしかないわけだ」
彼女の顔が、良の顔に迫ってくる。
「よろしく頼むぞ」
彼女の唇が彼の頬に触れた。
そのまま彼の意識は闇に引きずり込まれる。
次に目が覚めた時には自分はどんな状態なのか。
魔界の幽霊にまた、拘束されているのだろうと思っていたが、現実は違った。
ピッ――ピッ――ピッ――ピピッ――ピピッ――ピピピッ――ピピピピッ――ピピピピピピピ……――――
聞き覚えのある不快な音。これは毎朝の安らかな眠りを妨げるためだけに開発された時計の音だ。
この音を止める為にはいつもならば、頭の上の棚にある時計を叩けばいい。その方法を実行すると、目覚まし時計は、ちゃんと彼の頭の上の棚にあり、音も止まった。
「いッてぇーな! クソ!」
時計の目覚ましの音を止めた手に激痛が走り、ベッドの上から跳び起きる。
そこで目に入ってきた光景は、いつもと同じもの。
彼が寝ていたのは自分の部屋のベッドだった。
「いつの間に?」と呟きながら、両手を見る。
包帯こそ巻かれていたが、無くなっていた右手は存在していた。
グルグル巻かれた包帯を外して、恐る恐る確認してみると、火傷や黒焦げた跡はなく、完治していた。
否。完治しているように見えて、触れると痛い。
いったい誰が治療をしてくれたのか、気になるところではあるが、同時に、あれからどうやって自宅まで戻ってこられたのかも気になる。
「まあ、母さんに聞けば分かるかな……?」
キッチンで朝ごはんの準備をしてくれていた母親に事情を聞いたところによると、こうらしい。
二日前の放課後に交通事故に遭った瀬口良は病院に運ばれ、一晩だけ病院で過ごして、昨日無事に退院して、今に至る。
つまり、良が魔界に赴いてから既に二日が経っており、母親の頭の中ではその二日間は誰かの手で改変させられた、偽の記憶が埋め込まれていた。
加えて、偽の記憶の中の自分は、今回の交通事故がこの前の自殺の件とは何の関係もないことを弁明していた。
混乱を避けるために母親の記憶を変えてくれていたのはありがたい。
だったら、龍に襲われ、即死したこと自体、記憶になかったことにしてくれれば良かったのにとは思うが、それでは奴らにとっての利点がないのだろう。良を使って実験することが奴らの目的だったのだから。
勝手に人を実験体にするなど、どうにもあの伊藤と言う男の企業は信用できない。勇者やら魔界やら言っている時点で信用ならないが。
病院から渡されたという怪しさ満載の塗り薬を、無理やり母親に両手に塗られ、その上から無造作に包帯を巻かれる。
謎の塗り薬の効果もあってか、鞄を持った時の手の痛みは無かった。
学校に行こうと家の外に出てすぐに、彼の目は見たことのある人物を捉える。
真面目そうな細い顔に黒縁眼鏡をかけて、いかにも通勤の途中である会社員のような恰好をした男。
伊藤と名乗った男がそこにいた。
「どうも。容態はどうですか?」
男は深々と頭を下げると、家の前で立ち止まっていた良に近づいていく。
「おかげさまで。色々と説明してもらいんですけど?」
「いや、今日は時間が無いんだ。見てのとおり会社に行く途中。質問があるなら、君のパートナーにでも聞いてくれ」
ポンっと目の前に差し出される茶封筒を戸惑いながらも受け取って、首を傾げる。
「なんですか……これ……?」
「勇者としての仕事の報酬だ。本当は銀行の口座に入金するんだけれど、君のはまだ知らないからね。できるだけ早めに作って、此方に知らせて」
「それなら、彩音に渡せばいいじゃないですか」
「彼女の分も入ってる。君が渡してくれ」
文庫本一冊くらいの厚さの封筒。男の報酬と言う言葉を聞いて、何が入っているのか検討がついてしまったために、開けて中身を確認するのを躊躇する。
まだ、野口英世という可能性が残っている。それを信じて封筒を開けて、恐る恐る中身を外に出してみる。
福沢諭吉の束が二個入っていた。
「こんなに……?」
「君の……まあ、君とそこの白い魔獣が倒した金城という骸骨には逃げられてしまったが、倒しただけでも十分な功績だよ。だから、今回の報酬も多い」
あの骸骨は金城と言うらしいが、それよりも気になったのは「“そこの”白い魔獣」だ。
伊藤の目を向けた自らの足元を見る。するとそこには、白い毛玉の獣がいた。
「モフゥ!」
「お前!? なんでここに!?」
驚く良に対して、白いボールは楽しそうにピョンピョンと飛び跳ねる。
「じゃあ、このへんで失礼させてもらうよ。君も早く学校に行かないと遅刻するよ? あと、その生き物、普通の人にも見えるから、どうにかしといた方が良いよ」
「どうにかって……あっ! ちょ! これ……!」
止める間もなく、伊藤はその場を颯爽と去っていった。
茶封筒に入った二百万円と、白い魔物。
どちらも隠すべきものだが、まずは大金をズボンのポケットの中に入れた。
鞄の中に入れても良かったが、肌身離さず持っておいた方がいいだろう。
問題はこの生き物をどうするかだ。
「どうすんだよ、これ……」
「モフ?」
とりあえず家に置いておくというのも考えたが、親に見つかっては面倒くさい。
「鞄の中に入れとくか……」
そう言って足元を見ると、既に白い魔物はいなくなっていた。
急に現れたりいなくなったり、つくづく変な生き物だ。
学校に着くと桜彩音は、彼の後ろの席いた。
「おっはー」
「おはよ」
そんな軽い挨拶をしている場合ではないような気がする。
「ケガだいじょうぶー?」
「一応包帯巻いてるけど、大丈夫」
彼女の怪我も酷かったのに、すっかり元気な様子だが、ダルそうに机の上に頬をつけている。
「あのさ……さっき伊藤って人からお前の分の報酬ももらったんだけど……」
「リョウが持っといてー。私お金無くしちゃうことあるからー」
そう言われ、二百万円を引き続き、持つこととなった。
ダルそうに授業間の十分休みを過ごす後ろの席の女子高生。
その頃、良は大金を誰かが狙っているのではないかと言う疑心暗鬼に陥ってしまっており、トイレに行くことさえ憚られる。
それに加えて、両腕に包帯を巻いているので、クラスメイトから多くの視線を浴びて、より一層警戒心が高まる。
かといってずっと席に着いたまま、周りに目を光らせていても、それこそ不審に思われるに違いない。
誰も自分が二百万円持っていることなど知らないのだから、いつも通り過ごすのが一番良いと思った。
ずっと我慢していたトイレに行こうと、席を立って教室を出てすぐに、ある人物とすれ違う形になる。
見るなと言われても自然と目が向いてしまうほどに、彼女は特別なオーラを纏っていた。
まず、他の学生とは明らかに違う箇所がある。それは髪と目の色だ。
茶色い馬の中に一頭だけ存在する純白の馬のように、優雅な彼女は、金色の長い髪を揺らしながら、横に一人の女子生徒を従わせながら、歩いている。
同じ一年生のはずなのだが、その佇まいは上級生をも圧倒する。
綺麗な紺碧色の眼と汚い自分の黒い眼が合った瞬間に、すぐさま、目を逸らした。
制服も彼女だけは学校指定のものを着ていなかった。
こういうタイプの人間と関わると、面倒くさいことになりそうだ。
そう予感して、何事もなくすれ違って胸を撫で下ろしたその時だった。
「ねえ。お金はちゃんと、内ポケットに入れておいた方が良いのではなくって?」
心臓が一瞬、止まるかと思った。
まだ、彼女が彼に対して話しかけていると決まったわけではない。彼女に連れ添っていた人物に話しかけたのかもしれない。
その可能性にかけて後ろをゆっくりと振り返ってみる。
金髪の少女と目が合った。
当たり前だ。内容が――――。
そこで、気が付いた。彼女は何故、お金を持っていることを知っているのか。
「私はあなたに声をかけたんですよ? 瀬口良くん」
「俺……?」
自らを指差して確認すると、「ええ。そうよ」と言って、近づいてくる。
「普通、同じ学校に通ってるんだったら、挨拶くらいするのが常識だと思わない?」
彼女の言っている事が全く理解できない良はその質問に答えることはできずにただ呆然と彼女から目を逸らして、窓の外に目を向ける。
「あなた……本当に何も知らないのね。いいわ。放課後、荷物を全部持って書道部の部室に来なさい」
命令口調の彼女は、長い髪と制服のスカートを翻しながら良に背を向け、また同じように一人の生徒を引き連れて、教室に戻っていった。
彼女とは同じクラスではなかったのが唯一の救いか、放課後までじっくりと考えられる。
その出来事によってすっかり尿意がなくなってしまった良が、トイレに行くのをやめて急いで自分の席に戻って、ズボンのポケットに入れていた茶封筒を制服の内ポケットの中に入れる。
まず学年で一位を争う美少女の彼女が、何故、今朝貰ったばかりの二百万円の事について知っているのか。具体的に金額を口にしてはいないが、十中八九、内ポケットに入れられた封筒のことに違いはなさそうだ。
ストーカーだったら嬉しいが、そんなはずはないだろう。
彩音に何か聞こうにも彼女は朝からダルそうにしているので、聞きにくい。魔界での出来事のその後のことも、彼女に聞きたかったが今日は無理そうだ。
あの外国人のような女子高生が、勇者と言う職業に関わっている人物で、先日の魔界での何らかの情報を聞いているのであれば、納得がいく。
とりあえずは、放課後に書道室に行かないといけない。後々になって、教室に乗り込んで来られても面倒くさいだけだ。
書道部の部室。
どこにあるのだろうと探し回る必要は無かった。校門から教室に辿り着くまでの道のりにぽつりと存在していた。毎日見ていたのに気にも留めていなかったので、気が付くのに時間は掛かった。
言われたとおり鞄を持って書道部の部室の前に来た良だが、そのドアをノックすることに躊躇いを覚える。
社長に呼び出された平社員と同じような気分だ。何も悪いことはしていない筈だけれど、呼び出されただけで心配になる。
今、書道部室のドアの前でじっとしている良は、誰かが通る度に自分に視線を向けられているのが、見なくても分かる。
こんなにも学校が息苦しいと思ったことはない。
コンコンコン――――。
二回のノックはトイレの時と聞いた事があったので、咄嗟に三回ドアをノックをする。
すぐに反応はなかった。すると、無言のままドアが内側に開き、中へと足を進めると、彼女と一緒にいた女子生徒がドアを閉めてくれた。
部室は教室と同じ大きさだが、机と椅子は二個ずつしかない。
書道の道具は置いてあるが、本当に使っているのかは疑問である。
そして、部室の中で一際目立っていたのは、フカフカの椅子に腰を下ろして、足を組んでくつろいでいる金髪美少女の姿だった。
「とりあえず座ってくださる?」
彼女の発言から一秒も経たないうちに、ドアを閉めた女子生徒によって、彼女と向かい合うように椅子が置かれ、彼は大人しく椅子に座って、鞄を膝の上に置いた。
すると、その椅子を動かした人物が良の横に来て、鞄を自分に渡せと手を差し出してくる。
何の疑いもなく鞄を渡した。すると、机が彼の目の前に運ばれ、鞄はその横に掛けられる。
それから数秒も経たないうちに机の上にコーヒーとスプーン、砂糖とミルクが置かれた。
どこからこんな物を用意したのかと辺りを見回す暇もなく、目の前の圧倒的な存在が話し出す。
「私はあなたと同じ。勇者なの」
やはりそうだった。
「勇者は危険な仕事よね? 魔界は危険の多い場所で、二人一組が一緒になって行動する勇者だけれど、二人だけでは対処できない事案も多くある。なら、勇者同士協力し合うのが効率の良い方法だと思わない?」
「何が言いたいんだ……?」
それは勇者同士協力し合うのは良いことだとは思うが、彼女と一緒に、というのは面倒くさそうなのでできれば避けたい。
「私たちのコミュニティに入ってほしいの」
答えに困る。断るのが無難そうだが、断ったら何されるか分かったものじゃない。
「それは、彩音に聞いてみないことには……――――」
言葉を濁した彼は、にやりと笑みを浮かべる彼女が、目に映る。
その瞬間、コーヒーの乗った机が滑るように横に動かされ、同時に、目の前の少女が立ち上がった。
良が声を上げようとした時には彼女は目の前にまで来ていて、彼女の右手が良の顎に触れた。
そのままクイっと顎を持ち上げて、彼女と目が合ったその刹那――――
「!!!!!!!!!!!!!?????????????」
自分の身に何が起きているのか、初めは理解できなかった。
彼女の顔は、目と鼻の先にあり、綺麗な黄色い髪を耳にかけると、シャンプーなのか甘い香りが辺り一面を包み込む。
――――彼女の唇と良の唇が触れ合った。
それはほんの一瞬のようで、とても長い時間だったような気がする。
ゆっくりと彼女が唇を離すと、甘い香りだけが残り、口の中から鼻を通った。
そして、彼女の手には内ポケットの中に入れていたはずの二百万円の入った封筒があった。
全ては彼女の作戦だったのだ。廊下ですれ違ったときに言った言葉は、内ポケットに入れさせる為の布石。
良とのキスは、内ポケットから封筒を抜き取るための手段に過ぎなかったのかもしれない。
だが、今の良は全くといっていいほど頭が動いていなかった。
「――――入ってくれるよね?」
彼女は小悪魔のような笑みを浮かべてみせた。