プロローグ
勇者は魔王の部屋に辿り着いた。
辿り着くまでの道のりは長かったようで短い。
いや、確実に短かった。
魔界に来て一日足らずでこの場所までたどり着く事ができたのだから。
敵が弱すぎたのか。自分が強すぎたのか。
ここでは、自分が強すぎたと言うことで納得しておこうと思った。
仰々しく、大きな扉から想像するに魔王は十メートルを超える大きさに違いない。
ある程度の心の準備をしておきながら両手で扉を押した。
勿論、そんな大きな扉が簡単に開くわけもなく、顔を引きつらせながら、必死に押して漸く開いた。
明日明後日は筋肉痛で腕が上がらなくなるかもしれないと思いながら、少しでも軽くしようと、肩を回す。
部屋は大きな扉に見合った大きさだった。
巨人でも住んでいそうなくらいに天井までが遠く、それは学校の体育館よりも高い。
光源は疎らに松明が置かれているだけで、暗い雰囲気に包まれていた。同時に部屋の中に薄っすらと立ち込めている霧がより一層、その雰囲気を際立てていた。
勇者はそんな状況でも物怖じすることなく、懸命に肩を回しながら、先へと進む。
そして、彼の目はとうとう、その姿を捉えた。
勇者は一瞥しただけではその存在を魔王とは判断できなかった。
その存在は、その場所だけ光の当てられた玉座に、綺麗で長い足を組み、か細い腕を折り曲げて、肘を付いた状態で腰を下ろしている。
白い長い髪に、碧い大きな眼。その姿は、予想していた仰々しい魔王の姿とはかけ離れたものだった。
「なんだ、その顔は?」
目の前に偉そうに座っている一人の少女が口を開いた。
「え、いや……お前……ホントに魔王?」
「そう。私は正真正銘、魔界の王だ。巷で呼ぶところの碧眼の魔王」
淡々と話した彼女の答えに、通りで眼が碧いわけだと、納得している場合ではない。
これまでの人生で最も動揺している状況が今だった。
だが、勇者は魔王のからかいですぐに平静を取り戻す。
「お前の想像していた魔王とは違って、美しいだろう? そうだろう? もしかして私に惚れたか、勇者よ?」
「いや、それはない」
「そうか……そうやって否定されるとちょっと心に突き刺さるものがあるな……」
「泣きそう……」と最後にポツリと言葉を付け加えたが、勇者には聞こえてはいなかった。
「考えてもみろよ。こちとら、お前のせいで色々と迷惑被ってんだよ。そんな迷惑極まりないヤツに惚れると思う?」
「それもそうだな……君の言うとおりだ……でも、もう少し言葉を選んで欲しかったと……ヒッ、ぐ……そうっ……思うっ……!」
先ほどまで偉そうにしていた態度と表情が一変し、目に涙を浮かべ始めた。
その姿に勇者はまたも動揺する。
「ああ! 分かった! さっきの言い方は悪かったから! だから泣くなよ! な?」
玉座の肘掛にある蓋を開けて一枚のティッシュを取り出して、ズビーッと鼻を噛むと、もう片方の肘掛の蓋を開けてその中に使い終わったティッシュを入れる。
なんとも異様な光景に対して、つっこみたくなった勇者だが、そこは必死に押さえ込んだ。また泣かれても困るからだ。
「なら……私の願いを一つ聞いて貰えないだろうか?」
「……死ねとかそういうのは無しな?」
「君を殺すつもりなどない。ただ、私は君に……私の代わりに魔王になって貰いたいのだ」
「嫌。無理」
彼が即答した後、一瞬の間を置いて、魔王の目から涙が噴き出した。
「ううっ……なって貰わないとっ……私、うっ……困る」
「困るって言われても……急に魔王になれとか無理!」
「じゃあ急じゃなければいいのか……?」
「そういう事じゃなくて……」
勇者は今、誰を相手にして話しているのか分からなくなっていた。
泣き虫な少女なのか、魔界の王なのか。
「私だってっ……好きで魔王になったのではないしっ……君に迷惑をかけることもしたくなかったしっ……!」
「好きでなったんじゃないって……魔王って身分を大いに楽しんでなかった?」
「け、決してそのようなことはない!」
これ以上、突っ込んでいっても彼女の顔が酷くなるだけなので、一つ質問をしてみる事にする。
「好きでなったんじゃなかったら、なんで魔王になる必要があった?」
「それは……――――」
彼女は何かごにょごにょと呟きながら顔を俯ける。
「歯車が変わってしまったのだ。私が……ここにいるだけで……」
「……歯車?」
「だから、私は……ここにいちゃ……――――勇者」
彼女は顔を上げて、泣きながら続きを紡いだ。
しかし、その涙は先ほどまでのものとは違って、彼の目には美しく見えた。
「私を救ってくれないか――――?」
その瞬間、勇者は後方に吹っ飛ばされた。
それは彼女が玉座を立ち上がると同時に起こった。
勇者が体勢を立て直す前に、彼女は一歩足を前に踏み出す。
勇者の体は床を転がった。
「救うって! どうやって!?」
「私を殺すのだ。私は……存在していてはいけない」
今の彼女は行動と言動が噛み合っていない。
「殺して欲しいなら、大人しく殺されろよ!」
床を転がっていた体を起こして、立ち上がる。
彼女との距離は既に数百メートルほど開いていた。
「それはできない……だから、君の力で私を殺せ」
「もし殺せなかったら……?」
「君が死ぬ」
もうその目に涙は浮かんでいない。
綺麗に光る碧眼が遠くに存在する勇者を睨みつける。
先ほどとは明らかに雰囲気が異なっていた。
だが、その雰囲気は魔王という言葉とは合致している。
「それが本当の姿ってことかよ……だったら、こっちも手加減なしでやるからな――――Drows miny hdan」
一方的であった、大人が子どもを相手にするような戦いが、勇者の詠唱と共に一変する。
それから数時間にも及ぶ死闘の末に勇者は魔王を殺した。
その時、二人によって交わされた言葉は二人にしか知りえない。
その時、二人によって交わされた約束は二人にしか守れない。
勇者は魔王になることなく、一人の王として、今は魔界にいる。