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雨の中にいた少女

作者: キタロー

梅雨らしい雨が降っている。空は灰色の絵の具で塗りつぶしたような色をしていた。


じめじめした空気と路面から梅雨独特の匂いが鼻を突く。授業を終えた俺は鬱陶しい水溜まりを避けて足早に帰路を急ぐ。


今日はダチの日向が補習を受けてさえいなければ、放課後はいつも駄弁ったり、ゲーセンに行ったりして時間を潰すところだが…今日は仕方ない。


帰宅ルートの見慣れた公園を通る。雨さえ降ってなければ小学生がキャッチボールしたり、遊具で遊んでいただろう。


「あれは……」


この状況下では不自然ともいえるオブジェが視界に入った。


それはこの雨の中、傘も差さずにブランコに座ったまま。顔は俯いていて表情は見えない。乗っているブランコも微動だにしない。


誰もいない雨の公園。異質なオブジェにも見えた“人”は、うちの高校のスカートを穿いていた。


俺の視界に映るその光景は、世界から取り残されているようだった。


気がつけば俺は立ち止まっていた。


そして公園に足を踏み入れ、その“人”へと歩みを進める。


雨音で足音と気配がかき消されるのか、少女は俺に気づくことはなく俯いたまま。


少女の傍らまで近づいたことで俺は気づいた。


肩が震えていた。


何がどうしたものか。引き返すのも考えたが話しかけてみることにした。


「なぁ、大丈夫か?」


俯いた少女の肩は小刻みな挙動から、ビクッと大きく反応した。


「悪い、驚かせて。でも風邪ひくだろ。誰か待ってんの?」


少女は言葉を発する代わりに頭を左右に振った。


「じゃあなにやってんの?こんなびしょ濡れで。ブランコで楽しんでるようには見えねえけど」


言葉が浮かんでこない末にわかりきったことを指摘してしまった。


数秒の間を置いて、俯きながら少女は呟いた。


「…り…たく…ない…です」


少女の言葉は雨音にかき消されてよく聴こえなかった。いや、雨が降ってなくても怪しいが。


「わりぃ、聞こえなかった」


「帰りたく…ないんです」


あどけないながらも、透明感のある声。しかし、その声は震えていた。


なんとなくそうなんじゃないかと思っていた。例えば、傘を差して携帯でもいじっていたのなら、俺は素通りしていただろう。


さっき俺の目に映った少女は、まるで捨て犬のように見えて俺と同じ匂いがした。


だからこそ他人事に思えなくて放っておけない。


「帰りたくないって…このままって訳にもいかないだろ。傘も持ってないし、びしょ濡れじゃないか」


「そんなの、いらないです」


「はぁ…」


拗ねた子供を相手にしてるような会話に溜め息が漏れる。


「で、なんで帰りたくないんだ?」


…………………………。


雨音だけが聞こえ、目の前の少女は長い沈黙。


さっきからブラウスが透けてて水色のアレが見えている。目のやり場に困っていた俺は、この無言の空気が気まずくなっていた。


「ま、言いたくないならそこまで関わる義理じゃない、か…」


俺は踵を返し、背を向けた途端、少女が声を発した。


「待ってくださいっ!その…あの……」


俺は振り向いた。少女はブランコから立ち上がっていた。足も震えて足元はおぼつかない。長い黒髪は頬やブラウスに張り付いている。


少女と初めて目が合った。長い時間雨にあたっていたんだろう。その瞳には涙と見間違うほどの雫。いや、泣いていのかもしれない。


「はぁ。ここじゃなんだし、話す気あんなら俺ん家来な。帰りに傘もやるからよ」


少女は俺の言葉に予想もしていなかったのか、目を丸くして、言葉に詰まっていた。


別に下心があるもんじゃないが、この雨の中で立ち話をするのに抵抗があった。それにこんな全身びしょ濡れじゃ店にも入れないだろう。


俺はお互いの腕が触れるほど距離を縮めた。もはや手遅れだが、こいつにこれ以上雨があたらないように傘の位置を調整、相合い傘になった。


「あ、ありがとう…ございます…」


俺は照れくさくなり、灰色の空を眺めながら話題を探そうと脳内を掻き回した。


「あぁ、そうだ。名前は?」


椎名しいな 千尋ちひろ…一年です」


少女の方も俺の制服で同じ高校に通ってると気付いたのか、ご丁寧に学年まで教えてくれた。


「俺は、たちばな 雪人ゆきと三年だ」


一つの傘の下に二人、俺たちは歩き出す――






公園から徒歩十五分ほど。少々年期が入ったアパートの前で足を止める。


「ここが俺の家」


水気をはたいて傘をたたみ、鍵を開けて先に入る。


「本当に、いいんですか?」


目を伏せ、緊張した面持ちで椎名が言う。


「別に俺が言ったことだし気にすんなよ」


椎名は一旦顔を下に附せて「はい、お邪魔します…」


声は小さく、両手を胸にあて、猫背で敷居をまたぐ。


「あっ、話の前に風呂入れよ。乾燥機もあるから」


「い、いえっ、そんな、お風呂だなんて!」


頬を微かに赤く染め、より恥じらいが増した。


「いや、せめて服乾かしてもらわないと家の中が濡れるんだけど。それに風邪ひくっつーの!」


「す、すみません!色々迷惑かけるみたいで、ええっと、そのっ…」


「後で色々聞いてやるから。ほら、こっち」


千尋はさらに身体を縮めて俺の後に付いてくる。


「じゃあ後はゆっくりと。俺はリビングにいるから。あっ、バスタオルとドライヤーはここな」


「あっ、はい、ありがとうございます」


家に帰りたくない…か。あいつ、どれだけ思い詰めてたんだ…。雨宿りもしねえで。


紅茶を淹れる準備をしながら、さっき公園で出会ったばかりの少女、椎名 千尋のことをぼんやりと考えていた。


まあ、もうすぐわかるか…。






コンコンと、リビングのドアをノックする音。


椎名が申し訳なさそうに頭を下げながら入ってきた。


「すみません、どうもありがとうございました」


ロングストレートの黒髪は一挙一動にサラサラと反応する。


「あ、あぁ…」


正直ちょっと見とれてしまっていた。


「コホン!ま、まあ適当に座りな」


仕切り直しに軽く咳払いし、紅茶を淹れる。


「落ち着いたか?」


「はい、お陰様で」


まだ緊張してるものの、椎名の表情にあった暗さは少し薄れていた。


「はい、どうぞ」


湯気が舞う淹れたての紅茶を差し出す。


「すみません!なんかさっきから私、頂いてばっかりで…」


「こっちとしては当然のもてなしなんだから気にすんな」


テーブルをはさんで俺の向かい側に椎名が。喉を潤す紅茶も用意したことだし、いよいよ本題に入るところか。茶うけは無いが。


「あの、いつも一人なんですか?」


「ああ。親父は仕事で出張に行ってる。母親は俺が中学の時に事故で亡くなってるからな」


「す、すみません!いやなこと思い出させてしまって…」


間髪入れずに椎名は申し訳なさそうな顔に変わった。


「そう何度もかしこまんなくていいよ」


気まずい雰囲気を払おうと、俺はあえて笑顔を作ってみた。


「それよりそっちの話だ。なんで帰りたくなかったんだ?」


正座している椎名は俯きながら口を開いた。


「私は、…虐待…されてるんです…」


近年はニュースでも珍しくない、家族間の深刻な問題だった。


「虐待って…手をあげられるのか?」


「はい。叩かれることもあるけど…母は私が邪魔で仕方ないんです…」


「邪魔?なんでまた…」




なんでも椎名は物心つく頃に両親が離婚し、母親が引き取ったらしい。


しかし、それからの椎名の人生は悲惨で真っ暗な生活だった。


離婚してからの母親は急激に変わっていった。新しい男ができては、その男の家に泊まり込んだ。


男が椎名の家に来るときは、母親から最低限の食事代を渡され、明日まで帰ってくるなと言われるらしい。


それでも椎名にとっては一時的に解放された安息の時間だった。


そんな家にいるよりはどこかで寝泊まりした方が苦痛じゃなかったという。冬場や雨の日は苦しいが。


母と二人でいるときの椎名に居場所は無かった。母親に罵倒され、機嫌が悪いときは暴力に怯える日々。


終いには実の母親から、あんたなんか消えればいい。死ねばいいのに…と。


そんな暮らしを椎名は繰り返してきた。


親しい友人もいなく、誰にも相談できずに耐えてきた孤独で辛い生活。


椎名の心は既に限界だった。


雨が降りしきる中、どこにも行くあてもなく、公園のブランコで一人泣いていた。




「大変…だったんだな…」


俺は正直ここまでとは思っていなかった。


「はい…。もう、どうしたらいいかわからなくて」


「おまえほどじゃないけど、俺も辛かった」


「え…?」




他人に打ち明けるのはこれが初めてだ。


俺の人生も親の都合で流され、本当の意味で安息が無かった。


親父の転勤で住所が変わり、友達ができて仲良くなってもまた転勤。その都度俺は涙を流してサヨナラをしてきた。


親父を憎んだことがある。けど結局は無力でどうにもならない。俺は親父について行く他なかった。


そして母親の事故死。当時俺が中一の頃に起きた。母さんがいない生活はとても辛く寂しかった。


親父は仕事でいつも夜遅いから、独りになる時間が圧倒的に増えた。俺はとにかく寂しくて、人の温もりが欲しかった。


苦痛を味わいながら生きてきた俺と椎名。


目の前の少女は何度涙を流してきたんだろう?その寂しさを…俺は知っている。




「だからわかるんだ。その孤独感は。誰かに手を引いて貰わなければ、いつまでも変わらない…」


「はい…。でも私には誰も…」


「俺がいる」


突拍子もない展開に椎名は困惑した。


「ど、どういう事…ですか?」


「逃げ道ならここにある。家出したり、母親に殴られるよりマシだろ?」


この発言は自分でも狂ってると思う。目の前のこいつはさっき出会ったばかりだ。


けれど…使命や正義でもなく、俺はただ、目の前の女の子を守りたかった。


「逃げ道…?」


俺の言葉の意図がわからず、椎名は考え込んでいる。


だから今度ははっきりと言った。


「おまえは今日からこの家に住めばいいって事だよ」


「えっ…!?」


目を泳がせ、その小さな口から驚愕の声が漏れた。


「けど決めるのはお前だ。ここで俺と一緒に暮らすって言うなら俺は歓迎するし、このまま帰るなら引き留めはしない」


ついでに生活や食費やらは心配すんなと付け加えた。


現在一人暮らし状態の俺は金銭面での苦労は無かった。親父が地方への出張が決まったとき、俺はこの家を離れないと言ったのが始まり。


高校生にもなれば俺だって一人暮らしはできると、維持でもこのアパートを離れなかった。


ならばせめてものと、親父は毎月の生活費を俺一人には余分といえるほどの額を振り込んでくれる。それに甘えてる俺も悪いが。


椎名はまだ困惑した表情で戸惑っている。


「わ、私は…」


椎名一人では結論を出すまでに時間がかかりそうだから、まずはシンプルに二択で訊いてみることにした。


「なあ、おまえは暴力を振るう母親と一緒の生活と、この家で俺と平穏に生活する……単純にどっちがいい?」


「それはっ、それはもちろん…家には帰りたくありません!でも、だからといって橘さんのこと…よく知らないですし…そ、それに…」


「それに?」


「あ、厚かましいにもほどがありますっ!橘さんのお父様にも絶対怒られちゃいます!!」


真っ赤な顔で今日一番の大声になった。


「んじゃあ、今から親父に電話して許可取ってみるよ」


俺はポケットから携帯を取り出した。


「ちょ、ちょっと橘さんっ!や、やめてくだ――」


「あ、もしもし親父?うん、あのさ――」






自分でも拍子抜けするほどに、あっさりと許可は下りた。


親父曰く、「お前ももう子供じゃない。物の良し悪しがわかるだろ?自分が信じたことをやれ!ただし、責任はとれる範囲でな!」


これって…初対面の女の子だって言うの忘れてたから、こんなあっさり認めたのか?


ちなみに今のやり取りは椎名にも聞こえるようにスピーカーホン通話にしていた。


「聞いたろ?親父はおまえがここに住んで良いって――」


「…ひっ…くっ、…っ」


泣いていた。顔を両手で覆い、嗚咽する声が両手からもれる。


「お、おい!椎名っ!?」


背中をさすってやる。息継ぎする度にビクつく体が俺の手を伝う。


「椎名!どうしたんだよ?」


この華奢な背中に辛い現実と不幸を背負い続けるのは痛々しく、哀れずにはいられない。俺が少しでも負担を軽くしたいと思った。


椎名は泣き止む気配がなく、次第に大きくなる泣き声に、俺はもういたたまれなくなった。


簡単に壊れそうなほど細いその体を、そっと抱き締めた………。


腕の中の椎名は拒んだりしなかった。泣きじゃくって乱れた呼吸が俺の庇護欲を掻き立てる。


「よく頑張ったな。今まで独りで歩いてきたんだもんな。でもこれからは大丈夫…きっと大丈夫だから!お前はもう我慢しなくていいんだ」


頭を撫で、その綺麗で艶のある黒髪を指ですく。


根拠のない言葉は残酷な言葉だと思う。でも、口にすれば俺自身が奮起できそうな気がした。


「おまえは俺が守るから…ここに居ていいよ」






梅雨が終わり、真夏に突入した。俺と千尋の同居生活は何だかんだでうまくいっている。


呼び名が椎名から千尋になったのは、ひとつ屋根の下で生活する者同士、「親しみがなければうまくいかない」と、先に俺が下の名前で呼んだことがきっかけだ。


別に長い付き合いでもなかったから変えやすかったし、千尋も嫌そうじゃなかった。ちなみに俺は「雪人くん」て呼ばれてる。


あれからというと、千尋は一旦家に戻り、着替えや私物などを取りに行ってきた。


その際母親に、しばらくは家には帰らないと伝えてきたようだったが、母親はその理由を訊いてこなかったという。


俺達としては好都合だが、ホントに不憫だなぁ、千尋は…。


そんなこんなで同居生活はもう二ヶ月が経過。別に男女のアレな行為はしていない。


千尋が作る料理は美味いし、他の家事だってそつなくこなしてくれてる。もちろん俺も少し手伝ってるけどな。


容赦ない日差しが俺の気力と体力を奪う。今は千尋と一緒に登校中だ。


二人で登校するようになってからは、周りの生徒の視線が俺達に集まった。


その後も俺達の噂が学校中に広まったりしたが、ようやく落ち着きを取り戻した感じはする。


俺は大丈夫として、千尋はずいぶん気にしていた。多少周りの目も落ち着きはしたが、今でも少し緊張してるようだ。


「おはよっ!お二人さん、今日も熱いね!」


この茶化してきた奴は俺と同じクラスの日向ひなた 翔平しょうへい


中学の時からつるんで二人でバカやってきた友人だ。


「おまえは朝から元気だな」


「橘こそ、こんな可愛い子と登校してんのにシケたツラしてんなよ」


「わっ、私は可愛くなんかっ――」


千尋は顔を真っ赤にして恥ずかしそうだ。二人でいるときに日向に出くわすと冷やかされる展開になるのが常だった。


「暑苦しいんだよ…。あと、おまえもいい加減に慣れろよな」


「しっかし、橘はいいよなぁ。もし公園で声かけてたのが僕だったら、今頃僕と千尋ちゃんは手繋いでるよ」


「アホかおまえは!そんなつもりで声かけたわけじゃねえって!


「へへーん!嘘だね。僕にはわかるよ」


「ふん。言ってろ…」


でもあの時は、なんとなく千尋に惹き付けられたのは事実だ。


「で、千尋ちゃんは橘のこと、どう思ってんの?」


「ばっか、なに訊いてんだよっ!!」


「いいじゃん!これくらい別に!おまえだって気になるだろ?」


ちくしょー!日向の奴めェ!


「さぁさぁ、千尋ちゃん答えて♪」


「ど、どうって…雪人くんは優しいですし、頼れるし、それに…そのぉ…」


「へ〜いへい。優しくて頼れるから大好きだってさ、雪人く〜ん」


「最後のは言ってませんっ!」


俺達の日常はこんな感じだ。はぁ…。






午前の授業が終わって昼休み。俺は弁当が入っている手提げを片手に屋上へ向かう。


学年が違う俺達は学校ではなかなか会えなく、ここで一緒に弁当を食べるのが当たり前になっていた。


千尋はうちに住み込んでからは朝、昼、晩と料理を振る舞ってくれる。もちろんこの弁当も千尋の手料理だ。


一年の教室は一階で、三年の教室は三階だ。だから必然的に俺の方が屋上に辿り着くのは速い。千尋が来るまでフェンスに体を預けて地上を見下ろし時間を潰す。


ガチャ。と、古びた扉が軋みをあげながらゆっくりと開いて、千尋が見えた。


「おつかれ!やっと午前の授業終わったな。メシにしようぜ!」


「雪人くん……ごめんね…。今日は、お腹痛くて…お弁当食べれないんだ…」


猫背になり両手で胸を押さえる千尋の見慣れたポーズ。だが表情はいつにもまして暗かった。


「腹痛?大丈夫か?俺も行ってやるから保健室で薬貰ってこよう」


千尋は俯きながら首を左右に振った。


「大丈夫…。ほんとに一人で大丈夫だから…。雪人くんはお弁当食べてて…」


最後に無理をしてるような笑顔でそう言って、千尋は屋上から姿を消した。


「大丈夫かあいつ…まあ、こんな日もあるか」


俺は千尋が作った弁当を校舎を見下ろしながら食べた。うん、美味い。


結局、弁当が食い終わるまで千尋は屋上に来なかった。そればかりかチャイムが鳴っても来なかった。






下校の時間。やっと今日の全ての授業が終わり、俺は帰りの支度をするところだった。その時、聞き慣れた声で呼ばれた。


「橘ーーッ!」


日向だった。


「ハアハア…お、おい、橘…ち、千尋ちゃんは?」


「千尋?今日は買い出しじゃないからな、真っ直ぐ家に帰ったんじゃないか。どうかしたのか?」


腹痛で昼飯を食わなかった千尋。それに日向の落ち着きのなさを見て俺は嫌な胸騒ぎがした。


「おい、千尋がどうかしたのか!?」


日向は神妙な面持ちでこう言った。


「いいか、落ち着いて聞けよ?千尋ちゃんは……イジメられてるみたいなんだ」


「なん…だと…誰にだ!?おいッ!誰にやられてるんだッ!!」


「痛ッ!落ち着けよ、橘!」


気がついたら俺は日向に詰め寄っていた。


「あ、わりぃ…。でも誰なんだよ、千尋をイジメてるのは!」


「犯人の名前はまだ知らねえ。けど、さっき二年の廊下を歩いてたら聞こえたんだよ」


「二年の?なんて?」


「あの千尋って女、ざまみろ!消しゴムふりかけは効いたみたいね。…って、女子生徒が言ってたんだ」


「はあ?消しゴム…ふりかけ?」


「ああ。千尋ちゃんの弁当を奪って消ゴムのカスを入れたみたいなんだ!」


「クソッ!!」


「あっ!橘、どこいくんだよ!?」


気づけなかった。今思えばあの時のあいつは妙に俺を避けてた。つまり、嘘をついてたんだ。


「クソッ!なにが腹痛だよ!」






駆け出してから二年の教室まであっという間だった。


日向は女子生徒と言っていたが、犯人の名前を知らない以上、片っ端から聴き込みする必要がありそうだ。


「なぁ、ちょっといいか?」


「はい?なんですか?」


「二年の女子の中で、一年の椎名って子にちょっかい出してる奴知らないか?」


「いえ、知らないです」


「そっか、ごめん、ありがと」


くそ、一発で見つかるとは思ってなかったが、焦ってくるな…。


その後も手当たり次第聴き込みを続けたが、みんな知らないの一点張りだった。


千尋のことも心配だ。とりあえず今日は諦めて、明日もう一度、日向と犯人探しするか。


引き返そうとした瞬間、やんちゃな女子特有の笑い声が廊下に響いた。


「てかさ~、あんな地味で暗い奴が橘先輩と一緒にいるなんて許せないんですケド」


「アハハ!ほんとマキって橘先輩のこと好きなんだね」


「ハァ?ったり前じゃん。告ってOKだったら海にデート行こうと思ってたのに」


「明日また弁当に入れとく?」


「消しカス如きでアタシの怒りおさまんないっつーの!ライターで髪の毛燃やそっか♪」


二人ともスカートが異様に短く、頭髪も明るい見た通りのギャルだった。


「アハハハ!ウケる!坊主になったら先輩もさすがに引くんじゃない!?」


柱に隠れて会話を聞いていたが、こいつらのバカげた会話にもう我慢できなかった。


「おまえらっ!!」


二人組の女は驚き、軽く悲鳴をあげ俺に振り向いた。


「た、橘…先輩…!?」


二人組は互いに顔を見合せ、ヤバイ、信じらんないと声を漏らしていた。


「てめぇらか?千尋の弁当に消しゴムのカス盛り付けしたのは」


「そ、それは、ち、ちが――」


「何が違う!?さっきの髪燃やすってもう一回言ってみろッ!!ぶん殴るぞ!!」


「橘先輩!聞いてくださいッ!マキは橘先輩の事が好きだから――」


「だから何してもいいって思ってんのかよ!?そんな汚ねぇ人間は嫌いなんだよ!!」


廊下に響き渡る俺の怒声に、そこら中にいた全員の視線が集まった。


「ごめんなさい…、許してください…」


マキと呼ばれた女は涙を流し謝罪した。


俺はもう一人の名前を知らない女を睨み付けて言った。


「おまえの他にも荷担したやつはいるのか?」


「いえ…アタシ達だけです…」


もう一度、射殺すような視線で女二人を見る。


「二度と千尋に近寄んじゃねえ」


千尋の敵は俺の敵だ。相手が女だろうが許さん。


女二人は膝から崩れ落ち、泣き叫びながらすみませんすみませんと何度も頭を下げた。


千尋が心配だ。これ以上こいつらにかまけてる暇はない。俺はこの場をあとにした。






走る。このまま家まで脚を休めない。真夏に猛ダッシュ。立ち止まったらきっと滝のような汗が流れるだろう。


けど、今あいつは死ぬほど悩んでる顔をしてるんだ。一分でも早く千尋の傍に行って安心させてやりたい。


学校から家まで俺史上最短でのゴール。そのままの勢いでドアを開け家に入ろうとした。


「ッッ!?」


予想外のドアに俺は激突した。


鍵が掛かっていた。千尋が出掛けるとき、俺が家に居なければ鍵は掛けていく。すなわち、千尋は家にいないことを意味した。


「おかしいな…今日は買い出しの日じゃないのに…」


鞄から鍵を取り出し家に入った。


部屋を探し回ってみたが、やはり千尋がいる気配がしない。こんなときは携帯で生存確認をしたいところだが、千尋は携帯を持ってないのが悔やまれる。


それにしても暑い。身体中から吹き出た汗を拭い、タオルをテーブルに置こうとしたとき、一枚の紙切れとお金が置いてあった。


「金と…置き手紙…?」




雪人くんへ


私が雪人くんと一緒にいると、やっぱりダメな気がします。


私のことは捜さないでください。


財布に入っていたお金はこれで全部です。


それと、私が預かってる鍵はドアポストに投函しました。


今まで本当に迷惑をかけました。


そして、今までありがとう。


千尋




「なんだよ…これ…ふざけんなよ…」


手紙を持つ手は震え、今度は変な汗が滲み出る。


千尋が家出?これからの生活はどうするんだ?あいつはあの母親がいる家に戻るのか?


混乱した頭は次々と疑問を投げ掛ける。そんなことよりも、もっと単純で大事なことを思い出した。


「千尋を捜さないとッ!!」


俺は家を飛び出た。まずはとにかく千尋が行きそうなところを自転車に乗ってしらみ潰す。


千尋は所持金を置いていった。だから電車やタクシーに乗って他の町には行けないはずだ。


だがあてが無さすぎる!こうなったら可能性が高そうなあいつの家に行ってみよう!






自転車で走り続けて十五分ほどで着いた。俺は今、千尋の自宅の前にいる。


乱れた息を整えずインターホンを鳴らした。


数秒待ったが反応がないのでまた押してみる。


「くそっ、いねぇのかよ」


今度は直接ドアをノックして大声も出してみた。


「ごめんくださーい!誰かいますかー?」


もしかしたら居留守の可能性もあるかもしれない。俺はドアを開けようとしてみた。


開いた!?


施錠されてなかった。千尋の母親は近場に買い物にでも行ったんだろうか?


俺は玄関で千尋のローファーを探したが、普段千尋が履きそうにないハイヒールや靴しか見つからなかった。


靴を隠すのはわかるが鍵を掛けないのはおかしい。第一あいつがこんな駆け引きするとは思えない。


ここには…いない?


こうなると完全にお手上げだ。あいつには転がり込めるような友達もいないはずだ。


クソッ!


俺はあてもなく千尋を捜した。






思い付いたところは全部見て回った。無一文でも入れる店や施設、念のために駅の中も見たが空振りだった。


もしかしたら母親が帰ってきたかもしれない。千尋が戻ってきているか訊こうとしたが相変わらず留守だった。


最後に学校にも戻ってみたが、千尋の靴箱には上履きがあるだけだった。


次第に空は暗くなり、雨が降りだしてきた。千尋はどこにいるんだろう…。


俺は途方にくれ、雨が降りしきる灰色の空を見上げる。制服が濡れても気遣う気力などなかった。


自転車に乗らず、ただ押して歩く。あいつのいない家に帰りたくなかった。千尋を見つけるまでこうしていたっていい。


千尋が、好きだ…。


今まで意地が邪魔して言えなかった。でも、これからは沢山伝えたい。何百、何千回でも、あいつが聞き飽きても伝えたい。


千尋に会いたい…。


目が滲む理由は雨と涙のどちらだろうか?恐らく後者だろう。濡れたワイシャツの袖で拭って見えた視界の先には、いつか見たオブジェがあった。


あの日と同じように傘も差さずにブランコに座ったまま。


「ち…ひ…ろ……」


声が震えた。会いたかった人がいた。やっと見つけた。


「千尋ぉぉぉっ!!」


自転車を放り、俺は千尋のもとへ全力で走り出す。


「ゆき、と…くん?」


千尋は立ち上がり、おぼつかない足取りで必死に俺に近づこうとする。二人の距離は縮まって、俺は千尋を抱き締めた。


「バカッ!心配したんだぞ!?ずっと捜してもいなかったから…」


抱き締めた腕の中で千尋の微かな体温を感じる。それが嬉しくて、もっと存在を感じていたくて、力強く抱き締めた。


「どう…して?捜さないでって…」


「好きだ……千尋が好きだ!」


「だめ…だめなの。わたしが雪人くんの傍にいたらッ――」


震えるその唇を…俺の唇で塞いだ。


強引な愛情表現でも千尋は拒まない。だからこそ千尋の想いを確信する。


瞳を閉じたらここが世界から切り離された気がした。雨音がBGMを奏で、俺達は互いの指と舌を絡め、触れ合う粘膜に酔い続けた。




そっと唇を離して、愛する千尋の顔を見つめた。


「千尋……愛してる」


「はい。私も、好きでした。雪人くんを…愛してます」


頬を染めた千尋が細い腕で俺を抱き締めた。それに答えるように、俺も肩を抱いて再びキスをした。




「帰ろうか。俺達はこれからも、ずっと一緒だ」


「はい」




出会った日から雨の日がちょっと好きになったんだ。こんなに愛しい人に会わせてくれた雨に感謝してる。


すれ違って行く人々は俺達をどう思っているだろう?


この雨の中、二人ともびしょ濡れなのに、こんなにも俺達は幸せそうな顔をしてる。



~完~

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― 新着の感想 ―
[良い点] ハッピーエンドで良かったです。 [一言] 続きが読みたいです!
[良い点] 物語が綺麗で読みやすかったです!。ここからのこの2人の未来への展開が凄く気になりますがここで終わるのが丁度いい気もします。とても感動しましたm(*_ _)m
[良い点] ほのぼのしていて良かったです。 [一言] 暗くてシリアスな所もありましたが、全般的にほのぼのしていて何より読みやすかったです。 良い小説をこれからも書いてください。
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