間引きの理論
間引きの理論
デミーの子育てと抱擁卵とは限界が来たようだ。結論は卵の処分しかない。時を失するとデミー家族の崩壊、絶滅の恐れがある。「解っているならできないことはないでしょ」などと平然と言う人間とは付き合いたくない。死刑判決が確定しているのだからさっさと執行しなさいと言うのと同じだ。正論だが最善かと躊躇するのが凡人である。司法が判決時に悩んで結論を出したのに行政がぐずぐずするのはおかしいでしょ、税金の無駄遣いですよ。ごもっともです。
昼間は子育て、夜は卵を抱くデミーを観ているともう少し様子を観ようとなる。もう少しが3日過ぎた。ひなの成長は早い。デミーは庭に連れ出して餌の見つけ方獲り方を教えだした。時は今、敵は本能寺の心境で巣から卵を取り出す。処分方法は。ゆで卵にして食すのが一般的である。あれほど受精卵を食べたいと言っていた妻もデミーを観ていると辞退しますと言い出したのだ。虞や虞や汝を如何せむ。「日本人のWさんが受精卵欲しいと言っていたでしょ」と妻。
自分に都合のいいことはすぐ思い出すのは女の通有性だ。
「されば忍び難きを忍び、進呈致すことにするか」
「そうですよ、それが最善の方法と思われます」
この調子の良さで植民地支配にも東洋一の貧しさにも堪えてきたのであろう。
次は卵をWさんに進呈すれば済む。しかし卵を探し求めるデミーを想像すれば気が重い。沖縄地方では妊婦に崖の割れ目を飛び越えさせたというではないか、山国では赤子の顔に濡れ衣をかぶせて間引いたらしい、とかそれらしき理屈を並べる。人は理屈だけでは納得できない。自分行動を正当化するには麻薬か酒が必要だ。心の叫びを封するのだ。卵進呈にはさらに三日が過ぎた。Wさんは卵かけすると喜んだが小人にはなかなか吹っ切れるものではない。
私はデミー親子を庭に連れ出した。警備係を務める。犬の来襲に備えて竹棒を、監視のための椅子を木陰において親子を見守る。デミーは砂掻きをやってみせる。「二三度掻いては餌がいないか観るの」「こんな感じ」「そうよ、そら出てきた」「ママこれ食べても大丈夫」「大丈夫よ」デミーは卵を抱く間のストレスを発散するかのごとく砂掻きに興じる。
腹がくちてくるとデミーは腹這いになる。雛はその下に潜り込むのだが今日はひょいと背に飛び乗った。互いに親子の温もりを感じているようだ。デミーの顔は幸福に満ちている。産後の女は神秘的な美しさを見せるがデミーは神々しいとさえ思わせる。
一安心だ、あとはデミーが巣の卵消失、盗難に気づくか、またどのように反応するかだ。夕方夕闇が迫ってくるとデミーは巣に戻る。その時どうなるか。鳴いて身を焼く雉鳩の悲劇の幕は切って落とされた。
大原の野を焼く男 野を焼くと 雉ぎすな焼きそ 野を焼く男 正岡子規
ところがである、その時になるとデミーは2羽の雛と巣に戻ったが何の異変も起こらなかった。拍子抜けした。数日葛藤を重ねた私の悩みはこの程度であった。デミーは2羽の子を得て十分と判断したのか、卵は忘れ去ったのか、定かではない。問い質したいところであるが鶏と人間との複雑な会話は難しいのだ。
今日も今日とて庭先で餌を啄むデミー親子の監視員を務める。犬の襲来はほぼ無くなったが車の出入りのたび雛を心配する。その嬉々とした親子を観ながら一年先はこのアパートで飼い続けることができようかと空を観る。今年は台風が多いせいか日本の秋のような天気が続く。まあその時はその時考えるかとゆっくり背伸びをした。
南海の 小島の中の 借り家に 我酔い痴れて 鶏とたわむる
完 2013.10.28 マクタン島にて




