もう寝るから、その話は後で。1
とにかく暑い。アスファルトからの照り返しが空気を熱し、息を吸うと肺の中に汗をかいているような感覚がする。むせかえる暑さが容赦無く弱った細谷優を襲う。喉がひどく渇いていた。しかし水を飲みたいとは思わなかった。
細谷優は、いま東京にいる。死ぬほど暑いこの地を歩き回るのには内心かなりうんざりしていたが、最早彼にはそれを気に留める気力さえもなかった。優が消えてから、人生で唯一の友であった絵を全く描かなくなった。せいかくには、描けなくなった。その他にも、食欲を失ったし、今となっては睡眠も取れなくなりつつある。そんな姿を見兼ねてか、嘲笑いたかったのか、分かりはしないが、細谷に救いの手が差し伸べられた。斎によって。細谷にとって忌々しく、いつ見ても自分と正反対で、まるで世の中の善だけしょって生きてきたような顔をしている男、そして細谷から優を奪った男である斎が細谷に優の居場所を教えたのだった。
「チッ…暑ぃ…」
悪態をついてもこの喧騒の中じゃ誰も気が付かない。細谷はふと、自分の足取りが一歩ずつ力強いものになっていると感じ、驚いた。
心が、踊っていた。これ以上ないほどに高揚している。まるで小さい頃初めて遊園地に連れていってもらった時のように、楽しく、嬉しく、その他には何も考えられなくなるこの感覚。しかしその直後、胸のあたりが締め付けられる感覚が細谷を襲った。これは明らかに、綺麗なものではなかった。この痛みは、優を抱いている時に味合っていたそれだ。
自分は彼女と再開して、一体何を乞うのだろう?許し?側にいてもいいという許しを乞うのだろうか?何よりも、彼女を自分のものにしてもいいという許しが欲しい。それが本音だった。しかし彼はそんなことが出来るのは最早自分ではなく、あの忌々しい斎のみだということを重々承知していた。だからせめて許して欲しかった。あのことを散々罵って、蹴って、殴って、刺してくれたっていい。自分は、優に殺されるに値する大きな罪を犯したのだ。
愛していたのに。
5年前に戻れたら一体どれほど自分は満ち足りるだろう。あんなロープで彼女を縛らなくても、彼女は決して離れてはいかなかったはずだ。細谷が精一杯取り組んだ彼女を傷つけた代償としての行動と優しさは、彼女にとってはただのナイフでしかなかった。細谷は未だに優ととったあの朗らかな朝食が忘れられない。
"このウィンナー美味しいね。"
"ほら、山本の家農場だから。従兄弟の特権なんだ。"
"へぇ、羨ましいな。…まさか料理できるなんて思わなかったなぁ。"
"焼くくらいならできるに決まってる。お前も、今度作れ。"
"なんかカップルっぽいね、それ。"
"いっそ結婚するか?"
"え?"
"結婚するか?"
"…いい、よ。"
あれは一体、どっちの"いいよ"だったのか。
細谷はもう一生その答えは聞けないだろうと思った。
彼が優を探し求めてついた場所は、病院だった。
優は自分を呼ぶ声で目を覚ました。書館の二階の通路の床がひどく冷えている。かなり深く眠っていたようだ。瞼の裏にはまだ細谷優の姿が焼け付いて消えない。まだ好きなんだ、と残念な気持ちになった。自分を幸せに出来るのは自分しかいないのに、どうして不幸になろうとしているのか、優自身もほとほと分かりかねていたのだ。
「飯食ってくか?」
下から声がしたので、優は立ち上って手すりから体を出し斎を見下ろした。彼の方向からとてもいい匂いがする。何かのソテーのようだ。
「いいの?」
「そんな満面の笑みで言われると、なんかダメって言いたくなるんだけど。」
「ダメ!男に二言は無し。ちょっと待ってて、今片付けてすぐに行くから!」
優は本を元あった場所に戻すと梯子を素早く降り、そして一息つくと同時に目の前の窓の景色に目を見張った。夕焼け。秋の訪れを感じさせる、細切れの雲。一日に一回見られればラッキーな飛行機雲が夕焼けを突っ切って、右の椵木の上を悠々と超えていく。落ちた葉が舞い上がると同時に鳥達が羽ばたいていく。少し遅れ気味の小さな鳥が風に煽られて一回転した。綺麗なアクロバット飛行。
山の向こうにある一際大きな夕日が今まさに沈もうとしていた。
"すごい…"
山の霧の青と夕日の赤が溶け合って、群青の僅かな隙間を紫に染め上げる。紫の空には既に星達が煌めきはじめ、形の歪んだ夏の第三角形がまたこの季節から新たな形を生み出していく。そして日は沈んだ。
優は久方ぶりに自然を満喫した気分になった。斎の家に寄ってよかったと心から思った。
一階へ降りて行くとワインを持った斎が悪そうな笑顔を浮かべて待っていた。馬鹿らしい、そう思いながら椅子に腰掛けると何も突っ込まれなかったのが悔しいのか悪態をついてから斎も向かいの椅子に腰掛けた。
「今日は頑張ったよ。子羊のソテー赤ワインソース…」
「で、その左手に持ってるワインは?追加のソース?」
「いいや、これは飲み用。」
そう言っていかにも楽しそうに笑った斎は本当に12歳の頃から変わらない光を持っていると、優は改めて感じた。飲酒は別として。
「言っとくけど、あんたがベロンベロンになってもあたしはこれ食べたらすぐ帰るからね。」
「いや、今日こそは負けない俺は!」
「酔いやすいのは生まれつきでしょうが、バカ。もうあんたの吐いたの処理するのは嫌。本当に無理だから!」
「じゃあせめて一杯だけ!な?」
お互いのグラスにワインを注ぎ、斎は満足そうに優を見つめた。優は分かっていた。彼は家族ごっこをしたいのだ。彼は優を妻に見たてている。別に何も感じはしないが、何故か今日ばかりは"この人の妻になるのもありかもしれない"と思えた。
「ところで、優は大学もう決めてんの?」
子羊のソテーを切り分けながら斎はさりげなく優に問う。
「ああ、それね。私、来年から海外行くから。」
ガチャッ
フォークとナイフの落ちる音がした。一方優は子羊のソテーを一口食べ、うん、この赤ワインソースはかなりいける、後でレシピを教えてもらおう、そう思った。
「…どこに。」
斎は珍しく低い、落ち着いた声で聞いた。両手を下げたところを見ると、最早食事を再開する気はないらしい。
「小学生の時住んでたところ。」
「ああ、なら、不便はないだろうけど…。ったく、何で言わなかったんだ?」
「面倒だから。」
「俺の気持ちが?」
以外にも斎の方から核心をついてきた。そうなのだ。優は嫌だった。男が自分に縋るのが堪らなく嫌だった。特に斎のような、自分が認めている人物にそんなことをされたら、彼女の中で人間に対する何かが崩れてしまいそうな気さえしていた。
「…応えられない。」
「別にいいよ、今は。それに、俺は止めなかった。せめて言って欲しかったんだけどな。まぁ、お前の事だから、大丈夫だろう。」
斎がワザと突き放すように言ったのが分かった。優は何故か泣きそうになった。今までのドロドロした感情が、今更になって全て胸の底から込み上げて来た。細谷に愛されたくても愛されなかった自分、惨めで汚い自分に親友までもが匙を投げた。何もかもが崩れる感覚が優を襲った。
「おい、どうした、優?」
「…ッ苦しい…!」
「息出来ないのか!?大丈夫…」
「違うッ…もう、帰る…ごめん。」
「おい!待てよ!」
扉まで走ってすぐに自転車に乗る。後ろから斎の声が聞こえたが遠のいていった。真っ暗で電灯もない道をひたすら風を切って自転車を漕いだ。情けない。このまま闇に交じって消えてしまいたいとさえ思った。
玄関の扉を開けてすぐにへたり込んだ。息切れが激しい。ハァハァという声が直に聞こえて、余計に嫌になった。細谷に抱かれている時みたいに胸が痛い。だけどちょっと何かが足りない痛みだ。