無防備な週末
遮光カーテンの隙間から朝の光が射し込むなか、彼女はぎゅうぎゅうとぼくを押しつぶす。
土曜の朝、待ちかねた週末。
金曜の夜にへとへとになって戻ってきた彼女は、こてんとぼくに身体を預け、あっという間に眠りに落ちる。そして翌朝、慢性的な睡眠不足なんだからと、ぼくに手足を絡ませてはいつまでも寝床からでようとしない。起きなくちゃ、と自分に言い聞かせるように上半身を起こしたところで、またぼくの腕の中に戻ってくる。なんてかわいいんだろう。ぼくは彼女が寒くないようにしっかりと抱きとめる。
「ぱぱっと起きらんないのはぁ、あたしのせいじゃなぁい。この子があたしを離してくれないのがいけなぁい」
舌足らずな甘えた言い方で、彼女はぼくを責める。いいさ、どれだけでも責めればいい。きみの疲れを癒すためなら、ぼくはとことん甘やかす。再び眠りについた彼女をそっと包み込む。
二度目に目覚めた彼女は「ああ、もうしょうがないなぁ」と立ち上がり、カーテンを開ける。それからもう一度ぼくのところに戻り、自分のパジャマを脱ぐ。彼女の裸は見慣れているけれど、週末はいくぶん無防備に見える。まだ眠たそうなとろんとした目でぼくからシーツを剥ぎとる。ぼくは彼女のなすがままにされる。まったくしょうがない。
部屋着を着た彼女にひっぱられ、ぼくらはベランダでひなたぼっこをする。秋のおだやかな陽射しは日に日に短くなっている。二人で並んでベランダの手すりにもたれかかる。ぼくは力を抜いて手すりに身体をあずけ、彼女は両手を天に伸ばしてストレッチをする。いい天気だね、と言おうとしたところで洗濯機のブザー音に邪魔される。白いシーツや枕カバーが干されて、風にゆれるのを眺める。きょうは本当に良い天気だ。
彼女と知り合って十年になろうとしている。彼女がぼくにひとめぼれした、というとうぬぼれのように聞こえるかもしれないけれど、事実そうだからしょうがない。ぼくをじっと見つめる彼女の視線に、ぼくも目が離せなかった。あったその日に「うちで暮らす?」と訊かれ、ぼくは黙ってついていった。それが出会い。
彼女は出版社に勤めていて、毎晩帰りが遅い。月の終わりが校了日で、その日は無言でおやすみとも言わずに寝てしまう。ときどきは酔っぱらってぼくに抱きついてくる。酔っているときの彼女は格段にかわいい。大好き、とか二度と離れたくないとか、普段は口にしないようなことをぽろりと吐露する。
出会ってから一度だけぼく以外の恋人がいたようで、しょっちゅう家をあけていたことがあった。ひとり暗い部屋に残されたぼくは誰とも口をきかないで過ごした。もしかしたらもうお払い箱なのかもしれない、そう思った頃に彼女は帰ってきた。一週間毎夜泣きつづけ、それから思い出したように泣きじゃくり、次第にその間隔が長くなっていった。ここまで彼女を泣かせた相手にぼくは腹を立てた。だが、彼女は相手のことは一度も口にしなかった。聞いてもいない相手のことをどうしてぼくが尋ねられよう。ぼくにできることはただ抱きしめてやることだけだ。いまも彼女はときおり泣きながらぼくの腕の中で眠りにつく。会社で辛いことがあったのかもしれないし、たんに感傷に浸っているだけかもしれない。月が綺麗だとか、花が可憐だとか。彼女はときに感傷的すぎる。あるいはただ泣いてストレスを解消したいのかもしれない。何も言わずに彼女はぼくにしがみつく。ぼくはといえば、きつく握りしめてこわばった彼女の手をほぐすだけだ。その手が柔らかさを取り戻す頃に彼女はうとうとしはじめ、やがて眠りに落ちる。そうして一日が終わる。
週末ごと、晴れればふたりでベランダにもたれかかる。日光浴と言って彼女はぼくにもたれかかる。雨が降れば午前いっぱい惰眠をむさぼる。ぎゅうぎゅうとからだを寄せてくる彼女を、ぼくは静かに受け止める。そんな日がずっと続くと思っていた。
「どうしようか?」
その言葉は独り言のようにも、ぼくに聞かせるかのようにもとれた。
冬が訪れようとしている、ある金曜のことだ。彼女は日付が変わる頃に部屋に戻ってきた。ベッドに横になっていたぼくをひっぱって立ち上がらせ、コート姿のまま、ぎゅうぎゅうと抱きついてきた。
とうとうこの日がやってきた。
ぼくは彼女にきつく絞られて深く息を吐きだした。
彼女がぼくと別れたがっていたのはとうに知っていた。ここ数年、冬が深まると彼女はいつも難しい顔になる。寒いんだよね、と何枚も重ね着をしてぼくに肌を許さない。
丸十年、彼女にとってもぼくにとってもおもいがけない蜜月だった。だが、彼女はぼくを棄てるだろう。彼女がそうと決めたのなら、着古したTシャツかよれたタオルみたいにあっけなくぼくは棄てられる。
どうしたらいい? つめたく彼女を拒む? ベランダから余分にからだを乗り出して偶然を装って落ちてみる? いや、そんなことをしてもしょうがない。彼女はぼくをもう必要としていない。彼女の涙を拭うのはもうぼくじゃないのだ。
最後となった夜、彼女はクローゼットから余分に毛布をだしてきた。
「なんだか最近すごく寒いし、今年一番の冷え込みになるんだって」
その毛布がぼくらの最後の夜に、薄いベールを挟んだように思えた。最後の最後に拒絶された気持ちになった。
心がぺたんと萎んだ。これで本当に最後なんだ、そう実感して萎んだ心を膨らませるのが難しくなった。ぺちゃんこになって横たわったぼくに彼女の身体の暖かみが伝わってくる。
彼女はいつも自分勝手でわがままだ。仕事熱心だけど家事が苦手で、家ではいつも無防備で独り言ばかり言っている。そんな姿をぼくにだけ見せて、ぼくにはいつもやさしかった。
彼女がぼくに抱きついてきてぽろりと涙をこぼした。あぁ、もうそれだけで十分だ。ぼくはいつものように彼女の肩が、足が冷えないように布団の中に押し込める。そうすると彼女はいつものように寝返りをうってぼくの中で丸くなる。
明日でさよならだね、ぼくはきみが大好きだったよ。明日になったらきみは別人のようにふだんの寝穢い姿を押し隠し、ぼくを追い出す。それでもいいんだ。きみに「うちにくる?」って誘われたときからぼくはきみから逃れられなかったんだから。ぼくはきみのぬくもりを感じながら目を閉じる。
――こちらのお品、下取りでしたよね。
――はい、お願いします。
――あれ、羽毛布団じゃないんですね。羊毛?
――そうです。あたりだったみたいで、長く使いました。死んだ親に買ってもらったので棄てられなかったんですけど、丸十年経ったので思い切りました。
――うちの下取りは処分になりますが、それでよろしいですか。
――はい、大丈夫です。この子、そういうことですねたりしませんから。
――この子?
――ええ、彼以上に大事でした、この子。
よくある話でした。
お読みいただいてありがとうございました。