祈念
以前、別名義で他の投稿サイトに掲載されたものを加筆修正しました。筆者は宗教などには詳しくありませんので、寛大な心でお読みいただければ幸いです。
「彼女は神に祈り、救われ、そして、絶望したのです」
心を閉ざした少女を遠目に望み、医師はそう、牧師に語った。
「神に祈ったのですか」
少女は答えない。
応えることすらしない。
「あなたは救われたのに、あなたの願いは叶わなかったのですね」
真白いベッドに座る十五歳の少女。
一年前に兄を失った。姉と慕った兄の恋人と共に。
大切な家族を失った。
目の前で。
「あなたは自分の死を厭わなかった。死にたいとは思わなかったでしょう。しかし、お兄さん達が助かるなら、それでよいと思った」
白い室内に響くのは、低くやわらかい牧師の声と、生命維持装置の稼働音。
部屋の入り口近くに寄り掛かる医師の立ち会いの元、牧師は少女に語りかける。
「あなたは神に祈ったのですね」
少女は動かない。
「自分は死んでもよいから、お兄さん達を救けてほしいと。しかし、二人は亡くなり、あなたは生き延びた。あなたの願いとは裏腹に。あなたの願いは叶えられなかった」
外の喧騒も、この部屋の静謐な空気を乱すことはない。
「あなたの慕ったお二人は、敬虔な神の信徒だったそうですね」
牧師の言葉に、医師は僅かに眉を寄せた。
確かに亡くなった二人は敬虔な信徒だった。七日に一度の休日には教会に赴き、朝の礼拝を欠かさなかったことを、この小さな町の者なら誰でも知っている。
この青年は何を言うつもりだろう。年齢は自分と同じほど、まだ三十には届いてはいまい。
今日突然この小さな医院に現れた巡回牧師は、一年前、町を襲った洪水で肉親を失った少女に面会を求めてきた。
「彼女に伝えなければならないことがあります」
そう、穏やかな微笑みの中に、真摯な目の輝きが印象的だった。
無駄なのではないかとも思った。この一年、彼女を可愛がっていた町の人々が入れ替わり立ち替わり声をかけてきた。しかし、その誰の声にも少女は応えなかった。
「あなたのお兄様達は天に召されました。神の御元であなたが幸福になることを願っていらっしゃるのですよ」
そう説いたこの町の老神父の声にさえも。
同じことを説くつもりなのだろうか。
だとしたら、やはり無駄なのではないだろうか。
それとも、また違うのだろうか。
医師は壁に背を預けたまま、無言で二人を見つめた。
牧師は少女の目の前に膝付いたまま、声を潜めた。
「神を憎みましたか」
牧師の表情は静かであり、感情を読み取ることは出来なかった。
「敬虔な信仰を心においた二人を生かさなかった神を憎みましたか」
室内の空気が震えたような気がした。
「絶対の信仰を求めるだけ求め、しかし、結局は二人を見殺しにした神を憎みましたか」
「―――……ゎっ」
医師は目を見開いた。随分擦れていたが、それは紛れもない、少女の声だった。
「神なんかいないわっ!」
一年ぶりに言葉を発した少女は、痩せた顔の中にギラギラと輝く目で牧師を睨み付けた。
「信じるものは救われる。神様はいつも見守っていて下さる。神父様はいつも言っていたわッ。兄さんだってッ! でも、神は結局救けてくれなかったじゃない!」
「だから、神はいないと?」
「そうよ!」
少女の顔は歪んでいた。
「兄さんもレナさんも神様を信じてた。神は私達と共にいる。神は様々なものを与えて下さる。深く信じればきっとなにものからも救けて下さる。そう信じて毎日毎日祈りを捧げてた! この町に兄さん達ほど敬虔な信徒はいなかったわ! それなのに!」
あの洪水での死者はあの二人だけ。負傷者は数多く出たが、その後不思議と死に到った者はいなかった。
「わたしは生き残ったわ。わたしは兄さん達のように神を信じてなかった。だって兄さん達がいてくれればそれで幸せだったもの。神様なんていてもいなくてもどうでもよかった。どうしてよ!? 逆じゃない!? 神がいるならどうしてわたしが助かって、兄さん達が死ななければならなかったの!? どうして兄さん達を救ってくれなかったのよ!!」
叫び、そしてむせかえる少女の背をさすりながら、牧師は静かに見つめている。
神を否定する少女の姿を。
やがて落ち着きを取り戻した少女を、牧師は覗き込んだ。
「逆ですよ。神に祈りが届き、その願いを神が叶えたからこそ、あなたが生き延びたのです」
「なにを……」
「祈りは届きました。三人の人間の、二つの願いが」
牧師は初めて少女から目をそらした。
「危機的状況に直面したとき、神に救われるこということは、必ずしも、己が生き延びることと同義ではないのです」
あなたのように、と牧師は再び少女を見つめ、目を細めた。
「神に祈りはとどいていたのです。自分はどうなってもよいから兄達を救ってほしいというあなたの祈り。お兄さん達が生き延びれば、『兄達が救われた』という事実があなたを救ったでしょう。例えあなた自身が大怪我をしたとしたとしても。また、死に至ったとしても」
でも、と牧師は一度目を伏せ、少女を見つめなおした。
「お兄さん達の祈りもまた、神に届いていたのですよ。――自分達はどうなってもいいから妹を助けてほしい、幸せに生きてほしいという祈りが、願いが」
少女の眼が見開かれた。
愕然と。
「あの洪水の時、亡くなられたお二人は祈り、願ったのです。あなたの命の救済を。あなたの長い幸福な生を。病に冒され、先の短い自分達の二人分の命を供物として」
医師が、眼を見開く。
何故、という言葉を飲み込んだ。
同時に、少女の唇が戦慄く。
「病……?……二人が……?」
「はい」
牧師が告げた病は、致死性の強い伝染病。余命は幾ばくもなかったなかったという牧師の言葉に、少女が初めて医師の方を見た。
一年ぶりに合った視線を受け止め、医師は頷く。
牧師の言葉に、偽りはなかった。そして彼らがこの小さな町で初めての罹患者だった。
そんな、と言葉を失う少女へ、牧師が言う。
「二人はあの場で祈り、願いました。自らが信ずる神に。妹の命の救済を。長い生の幸福を」
再び自分へ顔を戻した少女へ、牧師は問うた。
「自分を信じない者からの祈り、願いと、自分を平素からも深く信ずる者達からの祈り、願いと、あなたならどちらを聞き届け、手を差し伸べますか?」
響いたのは、室内の空気を震わすほどの嘆き。
喉が破れ声が嗄れるほどの叫び、体内中の水分が無くなるのではないかと思うほどの落涙――
兄や義姉になるはずだった女性の、二人の愛しい者達の名を繰り返し呼びながら泣き崩れる少女を静かに見つめ、牧師は静かに退室した。飛び込んできた看護婦に少女を任せ、医師もその後を追う。
扉を閉め、牧師を呼び止めると、医師は険しい眼で問いかけた。
「あんたは、二人と面識があったのか?」
振り返った牧師は首を横に振る。
「私がお二人や彼の少女の存在を知ったのは、一月前です」
「ではなんで二人の病のことを知っていた。生前知っていたのは二人と、俺と、さっきの看護婦だけだ」
早期に罹患したことに気づいた二人は、すぐに自分の元に訪れた。そして同時に、自分達の死期を知った。町の混乱の避けるために箝口令をしこうとした矢先だった。あの、町を飲み込む洪水が襲ってきたのは。
患者の情報を流すよう真似は、医師はしたことがない。それは看護婦も同様で、その辺りは徹底していた筈だし、第一その時間すらなかった。だから誰も知るはずがない。それなのに何故この余所者が知っていたのか。
「お聞きしたのです。一月前に」
「誰からだ」
険しい視線を静かに受け止めながら、牧師は無言で視線を巡らせる。そしてそれは、医師の背後で固定され、切れ長の眼が細められた。
訝しく思った医師は振り返った。そして息を飲む。
少しの距離を置いた廊下の暗がり、そこに認めた二人分の人影に。
「あなた方からのご依頼、果たさせていただきました」
人影たちは頷いた。
半分は、と。
そして微笑んだ。
自分達を呆然と見つめる医師に向かって。
一年前までと変わらない、穏やかで、温かな微笑を。
そして、静かに消えた。
あの子をよろしく、という音のない言葉を遺して。
立ち尽くす医師に、牧師は答えた。
「一月前にお二人から依頼を受けました。閉ざしてしまった大切な人の心と、涙を取り戻してほしいと」
遠く離れた町にいたので、遅くなってしまったけれど。
「……心残りが、旅立つのを躊躇わせていたんだな」
彼らが祈り、願ったのは、大切な人達の幸福。自分達を飲み込んだ洪水とともに町に襲いくる伝染病を洗い流し、平穏な日常を生きてほしいと。しかし、命は助かっても、町が天災からの復興を果たしても、その人達の心は逆に凍りついてしまった。
だから、すがったのだろう。自分達の声を聞ける者を探して。
そして、ようやくいけたのだ。
「あいつららしい」
言って、その頬に流れた雫と唇に浮かんだ微笑に、牧師もまた微笑んだ。
礼を言って見送る医師に背を向け、外に出た牧師は、囁く。
「ご依頼の完了は、今、確かに」
親友と妹を思い、一年ぶりに零れた微笑と雫を証しとして。
応えるように、優しい風が吹いた。




