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娼館街に赴き、リュカはすぐに以前来たときと様変わりしていることに気づいた。以前は下品な活気に満ちていたのに、現在は人影もまばらで、明らかに静かになってしまっている。
これはどういうことかと、近くの飲食店で軽くお腹を満たしながら周りの会話に耳を傾けた。その話を要約すれば、こういうことだった。
まず、北方から帰ってきて、いざ娼婦を抱きに娼館街に来た奴隷商人が重い病にかかり死んだ。次に、奴隷商人と関わりのあった娼婦が同じ症状で死に、死体を片付けた奴隷商人の仲間も死んだ。これは呪術かなにかだ、と奴隷商人の買い付けてきた奴隷を調べると、奴隷達も多くがこの病に苦しんでいることが分かった。
――そして街では自粛ムード、と。要するに北方で流行っていた病にかかった男が祖国へ帰ってきて発症したってのが実際のところなんだろうと思うけど……。なんでこの世界の人達はそこから「奴隷達が自らを犠牲にして奴隷商人を呪ったのだ」と考えるのかな。
北方の人々を蛮族として扱っているくせに、心のどこかで後ろめたいものを感じているから余計にそうやって攻撃的になる。奴隷を買う気でいる自分のことは棚に上げて、リュカはそういう考え方しかできない人間を見下していた。
だから屋敷へとんぼ返りしたリュカはここを治めている父親に報告するより先に、メイド達やコック達に「なにをするにしても、手を洗い、うがいをすること。屋敷の中にあるものはまずそれが清潔であることを確認してから使うこと」を厳命した。馬鹿だとリュカが思った領民は後回しだった。
前世では当たり前な衛生管理も、ウイルスや細菌の存在を大多数が知らず、何か病が起きれば呪術と考える人の多いこの世界では進みすぎている感のあるこの命令にも、メイド、コック達は黙って従った。リュカは優秀な人間を登用した父に感謝した。もちろん、なぜそんな知識を持っているのか怪しまれないように、「この間、父と会食したさる高名な学者の言っていたことだ」と嘘の情報を付け足すことを忘れなかった。
社交界デビューも果たし、兄のかわりに半ば父の秘書じみたことをしているリュカなので、この嘘はリュカにとって疑いを晴らすと同時に信憑性を高める都合のいいセリフだった。その分、あまり使いたくなかったのだが。下手をすれば自分が死ぬかもしれないという状況では仕方ない。
この対処がどれだけ功を奏すか分からなかったが、メイド、コック達がリュカの命令を素直に聞いたことを確認してから、リュカは仕事中の父に話をしにいった。
「お父さん、お話があります」
仕事を終えてパイプをくゆらせていたラファランは、リュカが突然自室に来たことにあんのじょう驚いた。普段、リュカは自分から何かを主張することのない子、として通してきたから無理もない。
「どうした、ラファラン」
「街で病が流行りつつあります。どうやら何年か前、北方で流行ったもののようです」
何が起きたのかと訝しむラファランに、誰から聞いたのか、いつ聞いたのかなどの情報は一切入れず、簡潔に伝える。ラファランの顔色が変わる。
「すぐ対処する。よく伝えてくれた」
即座にラファランは仕事モードに入った。それ以上リュカに何も聞かず、リュカも何も言わない。その程度には、父子は信頼しあっていた。
その日から、地獄のような日々が始まった。
ラファランもリュカも眠れない日々が続いた。デマを抑え、正しい情報を流すように努め、様々な分野の専門家を交えて話し合いの場を持ち、王国に早馬を出して援助を頼み、どうにかして流行を抑えようとした。
しかし、その努力もむなしく、市民はデマに惑わされ、正しい情報は信じず、専門家の話が理解できない人間が大多数で、王国の援助も焼け石に水だった。
結果、ロークフィード領民の役十人に二人が病で死に、奴隷の多くがデマに惑わされた市民の起こした暴動によって殺され、それを鎮圧するために領兵が投入されるという最悪の事態に陥った。
グレーネス家自体は、リュカの初動が良かったのか、それともただ単に幸運だったのか。伯爵家族から、下っ端に至るまで百人を超える人間がいるにも関わらず、犠牲者は一人だけという奇跡的な結果になった。
ラファランはその死んだ使用人を手厚く葬った。
その使用人は、リュカが一番なついていた使用人だったからだ。
名前を、マイラ・ブラッドと言った。