日連丸事件から今日で82年
日連丸事件は、1944年3月16日、北海道釧路沖で米潜水艦の攻撃により沈没した陸軍輸送船「日連丸」の悲劇が訪れた。
仙台編成の第42師団など約2,800人が乗船していた。
軍事機密として約40年間隠蔽されることのなかったのだ
戦死した肉親がどんな最期を遂げたのか、知りたいと思うのは遺族として当たり前の気持ちである。その願いを踏みにじり、旧日本軍は不都合な事実を隠したである
北方に向かった輸送船が釧路沖で米潜水艦に撃沈された「日連丸事件」から、今日で82年になった。乗員約2800人のうち、生存者はたった45人。新潟、宮城、福島各県出身の将兵が多数犠牲となった。
太平洋戦争中のことだったとしても 近海で大勢の兵士が犠牲になった事実を軍は隠ぺいしたという事実はありえないことだ
悲劇的な遭難事件だったため旧日本軍は洗い流したい汚点として軍事機密として口令をふさいだ、
生存者と遺体を運んだ寺を憲兵が見張った。遺体が流れ着く海岸の漁が禁止され、うわさ話をしただけの人が逮捕されるに至り、
誰もが恐怖で口を閉ざした。遺族には空の骨箱と、戦死を伝える簡潔な通知が届いただけだった
日本軍は生き延びたわずかな兵士にも十字架を背負わせられ口をふせがさせれる。
ある日本兵士は船の破片につかまり九死に一生を得たが、監視下に置かれ生きていることを家族に連絡できず、仲間の死も伝えることができなかったという
しかし日本軍は生存した兵士が生きていればどこかで公言するかもしれないと恐れた
日連丸の沈没から約1カ月半後、他の生存者とともに輸送船「伏見丸」に乗せられ、再び北の海で撃沈される。そして500人以上が犠牲になった
2つの撃沈事件を奇跡的に生き延びた兵士は後にこういっている
「日本軍は日連丸事件を公にするくらいなら死んでくれ」と言っているようなものであった と




