十億人
何年か前まで、私はこの世の仕組みをよく知らなかった。
空は何故、我々の頭上に貼り付いているのか。いつか突然、落ちてはこないものなのか。空の上には、何があるのか。
地は何故、常に我々を乗せているのか。地の下には、何があるのか。いつか突然に地が崩れて、その下に落ちてしまわないのか。
そういうことが、不安で仕方なかった。
毎日のように、憂いては怯えていた。
だから余計に、世界を知ることができなかった。
知ろうとして行動するのが怖かった。
そんな私を変えてくれたのは、あの人だ。
あの人は私に、この世の仕組みと構造を教えて、わたしから不安を取り除いてくれた。だから私は、更に世界を知ろうとする心を持てるようになった。
あの時から私の人生は始まったと言っても良い。
私はあの時まで、永い夢を見ていたかのようだった。
あの人とは最近会っていないが……今頃どうしているだろうか。健やかに、息災に過ごしているだろうか。
……会いたい。
ここにきてそんなことを、今更、思ってしまった。
「……ああ」
日差しが顔にかかる。また朝だ。
ここに来てから今まで一度も、眠ってなどいない。眠ったら、無意識に身体が動いてしまうかも知れないからだ。
しかし、おや?これは何度目だ?
何度目の朝だ?
私は…えーと…日数を数えていた筈なのだが……
3日目を数えた辺りから、忘れてしまった…?
いや待て、そんなことがあるか?私は確かに意識がぼおっとしたままで過ごしていて、記憶があまり続かないことも多い状態だったけれども、そんなほんの少しの日数をこうまで数え忘れるものだろうか?
何か、おかしいのではないか?
しかし、頭が回らない。飲まず食わずだしな。
疑問を持っても、それだけで精一杯だ。それ以上を考えることは、もうこの状態では困難である。
「…………」
相変わらず、身体は全く動かさないようにし続ける。
気分はそう、あの…音に聞こえし、修行僧なる者達のような感じだ。来世は恐らく、本当に僧侶にでもなるのだろう。
考えても仕方ない分、こうして動きを止め続けるのに集中できるし、もう慣れてきて……
あれ?いや、こうして動きを止め続けるのに慣れてきた分、考えてもあんまり仕方がない…?
……わからなくなってしまった。
もういい。もうそろそろ餓死するだろう。
じきに、その時は来る。
「ーー、ー」
おや?私の左のほうから、音が聴こえる。
馬車が進む音だろうか?人の声も聴こえるような気がする。
まあ、どうでも良い。
「ー、ーーー……ー!?」
何か話しているようだが、私は振り向くこともできない。聞く意味も無いだろうし、どうでも良いだろう。
私には関係無い。
「………!」
……ん?
ん、ん、お?
勢いよく、足音が近づいて来ていないか?そうだ、左から近づいて来ている。私の右に何かあるのだろうか…?
まあ、どうでも……
「何してんだお前はああああ!!!」
……え?
「どうしてだ!どうしてこんなに、こんなに長く…!」
「ブラス…?」
気付けば私の目の前には、ブラスがいた。
私の両肩を掴んで揺すりながら怒声を発しているが……
一体、どうしたというのだ。
「何故、戻って来た…?」
「お前、本当にあれからずっと、ここから動かなかったのかよ!?何考えてんだ!?ふざけるなぁ!」
い、いやぁ、何をそんなに怒っているのだろう?
どうしてそんな、泣きそうな顔をして……
「待て、私から離れるべきだ。前にも言ったろう?私は…」
「もう良い!もう何も言わなくて良い!何も言うな!お前は俺が引き取る!連れて行く!おぉいお前ら!馬車をここへ!」
「あ、待て、ちょっと…!」
言いながら、ブラスは強引に私の身体を引っ張り上げて持ち上げて、馬車を呼び寄せた。
それでも私は、身体のどこにも力を入れる訳にはいかない。
「大きな布を持って来い!それでこいつを運んで行く!」
「待て、今いいところなんだ!もう少しで死ねるんだ!」
「黙れ!……よし、それだ!それを持って来い!」
……嗚呼、そうか。やっと気付いた。
ブラスはあの後も、ずっと気にしていたんだ。
私をここに置き去りにしたことについて、筋違いにも見当違いにも、罪悪感を抱いていたのだ。
それに堪えかねて、またここへ様子を見に来てしまったのだろう。
口では、知らないぞなどと言っていたが……それとは裏腹となる思いを彼が秘めている可能性を、どうして私は考えなかったのだろう?
私は何を間違えた?あのような口喧嘩のような口調で、突き放すような言い方をしてしまったことが、却って同情を買ってしまったのだろうか?
まずいことになった。
「よし、ここに乗せろ。そっちの足も持ち上げろ」
「ま、待て!お前達は損しかしないぞ!?私はどのような施しを受けても、それを受け取ることはできないぞ!?もはや私は、喋るだけの人形だ!自分から動くことは無いぞ!?そんな無駄なものを引き取るためだけに、大きなリスクを払って損もして、そんなことで良いのか!?」
「良い!」
「……えっ」
そ、そんなはっきり言い切られても……
ちょ、ちょっと待てよ、顔が熱くなってきた。
あれ…あ、まずい!なんという間の悪さだ!こんな時に、涙が出てきてしまった!これでは同情を買ってしまう!
何故だ!?何故よりによってこんな時に出るんだ!?
「積み込め!この辺に乗せとけ!」
「でもブラスさん、これって体裁が悪くないですか…?傍から見たら、俺たち人攫いですよ……」
「構わん。お前は嫌なのかブルトゥス?それならそうと、別にお前達まで巻き込むつもりは無い。俺が一人でこいつを背負って連れて帰るまでだ!」
「正気か!?私は叫ぶぞ!?人攫いだと叫ぶぞ!?」
「…はあ。そこまで言うなら、俺達はブラスさんに従いますよ」
「ブルトゥスお前もか!?考え直せ!私を連れ帰っても何にもならん!」
「お前は黙ってろ!」
まずい…!
このままでは、この世界が壊れてしまう。
私が、この世界を壊してしまう…!
「待て!わかったわかった、見せるから!実演をするから!一旦下ろしてくれ、私が身体を動かしたらどうなるか見せてやるから!それを見てからでも遅くはないだろう!?」
「知らん!見せなくて良い!」
「ええ!?」
いや、それについては本当に意味がわからない。
見ておけよ。別に、見るだけなら良いだろう?
見るだけ見てから連れて帰れば良いのに。
もしやこの男、自棄になっているのか…!?
「いや、えーと、冷静になれよ……あっ」
と、そんな悶着の拍子に。
私はつい、手を動かしてしまった。
「あ………」
ほんの一瞬、手がびくっと動いた。
そして、それによって生じた衝撃波と熱で。
ブラスの身体が、消し飛んだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「…………」
「…………」
私の視界の端には、馬車の陰に偶然居たためかろうじて助かった男が、一人座り込んで怯えているのが見えたような気もしたが、そんなことはよくわからない。
よく見えない。よく知らない。よく考えていられない。
よく、よく……よくも。
よくも、冷静になれなどと。
ぬけぬけと、言えたものだ。
「な……なんなんだ……お前……」
「…………」
怯えているその一人の男と私を除いて、ここにはもう、生きている者は誰もいない。
みんな死んだ。私を引き取ると言い張って何を言われても聞かなかったブラスも、それに同意したブルトゥスや他の男達も、身体が吹き飛んで即死した。
しかし、しかしな。
今怯えているその男よりも、さっき私をヤケクソになって引き取ろうとしたブラスよりも、誰よりも冷静でなかったのは私だった。
何が、冷静になれだ。
これまで何日も、ずっと身体を微動だにせずに過ごしてきておいて、今更どうして、動いているのだ。
何をそんなに、動揺しているのだ。
涙まで流して、同情を買うリスクを高めて。
私は一体、何をしたいんだ。
何がしたいんだよ。
「……いや」
「ひっ…!」
いや。
本当はわかっている。
ずっと、考えないようにしていたんだ。
ハハハ……自分のことなのに、何を忘れているのだ私は。
最初に言ったじゃないか。
最初に叫んだじゃないか。
助けてくれ、と。
「あは、あははは……」
「ぃいぃぃ…!ばっ、化け物…!」
私は、本当は助けて欲しかったんだ。
最初から、誰かが助けてくれることを願っていたんだ。
あの時。
ブラスが私を引き取るだの何だのと言って、強引に連れて行こうとしたのを、私が必死に止めようと、文字通り懸命にやめさせようとして、『お前は損しかしないぞ』と論ったのに……『それでも良い』と、彼に断言された時。
嬉しかった。
どうしようもないくらいに嬉しかった。
救われたような、気がした。
だが……それでも、どうしようもないのだ。
嬉しいから、何だと言うのだ?
嬉しければ、人を破壊しても良いのか?
嬉しければ、人を消し飛ばしても良いのか?
嬉しければ、世界を滅ぼしても良いのか?
そんなこと。
そんな訳、無いだろう…!
「ブラス……愚か者め。お前は本当に愚かだ……」
「だ、誰か…!助けて…!」
これまでの全てを想い起こし、全ての感情が込み上げてきて、私は滝のように涙を流しながら、しかし口調は穏やかだった。
穏やかな口調で、融けかけの遺骨に語りかけた。
「こんな私に、歓びを教えてしまった。嬉しさを教えてしまった。希望を見せてしまった。幸せを見せてしまった」
「はぁ、はぁ…!誰か…!」
「お前にまた会いたいと、思わせてしまった」
そう言って、私は。
全てを諦めて、全てを捨てて、全てを手放して、全てを打ち棄って、全てをやめにして。
全力で、ブラスの遺骨を抱きしめた。
この世界に来てから初めての、全力だった。
元の世界でも出したことの無いくらいの、全力だった。
その拍子に、私の足が地面を踏み抜き、砕いた。
周囲を灼く光。
弾け飛ぶ景色。
崩れ去る地面。
そして、黒く塗り尽くされる世界。
そんな世界の終わりを横目に。
とうに蒸発した、彼の遺体を抱きしめたままで。
私は再び、世界を憂うのをやめた。




