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怨嗟の記録  作者: かわさきはっく


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第37話 腐蝕の城

 山田健吾は決して折れない男だった。

 かつて、鈴木一郎の人間としての最後の復讐によって、彼の小さなデザイン事務所は経営が傾いた。しかし、山田という男は、ゴキブリのような生命力と、ハイエナのような貪欲さを併せ持っていた。彼は決して諦めなかった。


 彼は、すぐさま別の事業へと鞍替えした。その名は、「山田あんしんリフォーム」。聞こえの良い社名とは裏腹に、その実態は弱者の不安を食い物にする、悪質な詐欺集団だった。結局、同じことが繰り返されたのだ。搾取する対象が、従業員だけでなく、顧客である高齢者たちにまで広がっただけで。


「奥さん、これは大変なことですよ」

 その日も、山田は、ある老夫婦の家の薄暗い床下で、さも深刻そうな顔をして、懐中電灯の光を、一本の柱に当てていた。

「この柱、シロアリに完全にやられちまってる。このままじゃ、次の地震で家が、ぺしゃんこですよ。お二人の命に関わる問題です」


 もちろん、それは真っ赤な嘘だった。柱は築年数相応に古びてはいるが、構造上の問題は何もない。彼が懐中電灯で照らし出している、白い粉のようなものは、彼自身が、家に入る直前に、こっそりと振りかけた、ただの小麦粉だ。

 老夫婦は山田の言葉に顔を青ざめさせた。

「そ、そんな……。ですが、私どもには、そんな大金を……」

「ご心配なく!」

 山田は人の良さそうな、しかし、その目の奥に、一切の光を宿さない笑みを浮かべた。

「奥さんたちのために特別なローンを組みましょう。これで、安心して余生を過ごせますよ」


 彼は法外な金利のローン契約書に震える手でサインする老人たちを、満足げに見つめていた。彼の従業員たちは、皆、社会の吹き溜まりから集めてきた、良心の呵責など持ち合わせていない若い男たちだ。彼らは山田の指示通りに、必要のない工事を行い、安物の建材を使い、手抜き工事で、莫大な利益を上げていた。


 山田は自分が悪事を働いているとは微塵も思っていなかった。

 自分は時代のニーズに応えているだけだ。情報弱者から、金を巻き上げるのは、ビジネスの基本。かつて自分の会社を傾かせた、あの、名前も思い出せないような、陰気な元社員のことも、とうの昔に忘れていた。あれは、ただの不運な事故。そして、自分は、その逆境を自らの才覚で乗り越えた成功者なのだ。


 その夜、山田は自らが建てた悪徳の城の最上階にいた。

 プレハブの安普請な事務所。しかし、彼にとっては、かつてのどんな豪華なオフィスよりも、心地の良い場所だった。壁には、今月の莫大な売り上げを示すグラフが、誇らしげに貼られている。彼は、一人、高級なウイスキーをグラスに注ぎ、その勝利の美酒に酔いしれていた。


(俺は負けない。誰にも、何にも……)

 彼が、そう、心の中で呟いた、その瞬間だった。


 ガッシャーン!という、鼓膜を突き破るような轟音が、事務所中に響き渡った。

 山田は驚いてグラスを取り落とした。何事かと音のした方を見ると、そこには信じがたい光景が広がっていた。事務所の窓ガラスが粉々に砕け散り、その中央に、一羽の、巨大なカラスが突き刺さるようにして、もがいていたのだ。


 カラスは狂ったように羽ばたき、ガラスの破片を撒き散らしながら、室内へと転がり落ちた。そして、血とガラス片にまみれながら、床の上をのたうち回り、壁や机に、何度もその体を叩きつける。漆黒の羽が抜け落ち、血走った目が憎悪に燃えるように、山田を睨みつけていた。

「カァ……!カァァァァ……!」

 それは、鳥の鳴き声ではなかった。まるで、地獄の底から響いてくるような、呪詛の叫びだった。


 やがて、カラスの動きは痙攣するように弱々しくなり、最後に大きく一度、羽を広げると、ぴくりとも動かなくなった。

 事務所には元の静寂が戻ってきた。しかし、その静寂は、もはや彼が支配していた城のものではなかった。それは、死の匂いが立ち込める、墓場のような、不気味な静けさだった。


 山田は腰を抜かし、椅子からずり落ちそうになった。

(……な、なんだ、今のは……。鳥が迷い込んだだけか……?いや、違う……!あんな、死に物狂いで……!)


 その静寂の中心に、すう、と、鈴木一郎の悪霊が、その姿を現した。

 その顔には何の感情もなく、その瞳は底なしの闇のように、ただ、床にへたり込んで哀れに震える、山田一人だけを、じっと見つめていた。


「……お、お前は……鈴木……!」

 山田は記憶の最も深い澱の底から、その名前を、ようやく引きずり出した。


 悪霊は答えなかった。

 ただ、その右手に、あの黒いノートを、音もなく現出させる。

 そして、ページをめくる、乾いた音が、山田の頭の中に、直接、響き渡った。

 一郎の平坦な声が、忘却の彼方にあった、最後の罪を朗読し始めた。


「平成十一年二月十日。木曜日。お前は、俺がインフルエンザで、三十九度の熱を出しているのを知りながら、出社を命じた。『代わりはいないんだ。這ってでも来い』と。そして、お前は、俺から搾取した金で豪遊していた。俺が生きるために、必死で稼いだ社会保険料まで着服していた」


「わ、悪かった!謝る!金なら返す!あの時の金、全部、返すから!」

 山田は見苦しく、命乞いを始めた。


 だが、悪霊は、ノートを、ぱたん、と閉じた。

「お前は俺の人生の土台を腐らせた。俺が社会で生きていくための最後の希望を、お前は自らの欲のために食い物にした。お前は俺の血と汗で、偽りの城の礎を築いた」


 悪霊は、一歩、山田に近づいた。その足元から黒い靄のようなものが滲み出している。

「だから罰を与える。お前が最も信じ、最も価値があると思っている、お前自身の、その肉体という城を、内側から腐らせ、崩壊させてやる」


 そう言い残すと、一郎の姿は闇に溶けるように、かき消えた。

 事務所には、山田の荒い呼吸だけが響き渡った。


 翌朝。

 山田は自分の体に起きた異変に気づいた。

 体の内側が、むず痒い。まるで、無数の小さな虫が、皮膚の下を這い回っているかのような、耐え難い、不快感。

 彼が、その痒みに耐きれず、腹部を掻きむしった、その瞬間だった。

 ブチュリ、という、湿った音と共に、彼の皮膚が薄皮のように破れた。そして、その傷口から、信じがたいものが、うごめきながら這い出してきたのだ。


 白い、小さな蛆虫だった。


「ぎゃああああああああああああああ!」

 山田の絶叫が、廃墟と化した事務所に木霊した。

 一匹ではない。数十匹、数百匹の蛆が、彼の体の内側から、皮膚を食い破り、次々と湧き出してくる。彼の肉体が、内側から腐り始めている何よりの証拠だった。


 それは始まりに過ぎなかった。

 日を追うごとに、彼の内臓は、その機能を、一つ、また一つと、停止させていった。まるで、見えざる虫に食い荒らされるかのように。彼は生きたまま、自分の体が、内側から腐敗していくのを、ただ、感じ続けることしかできなかった。

 それは、決して逃れることのできない、死の呪い。


 その絶え間ない苦痛と、自らの体から放たれる腐敗の悪臭の中で、彼は、ようやく理解した。

 これが罰なのだ、と。

 自分が他人にしてきたことと、全く同じ、報いなのだ、と。

 彼の絶望の絶叫は、誰にも、届かない。ただ、彼自身の崩れゆく肉体の中に、虚しく、木霊するだけだった。

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