第35話 獣の烙印
高橋雄一は生きていた。
いや、肉体は、まだ生きていた。しかし、彼の魂は、あの日、銀座の高級クラブで、鈴木一郎という名の復讐者に、その全てを食い尽くされた。
莫大な負債と、かつての信者たちからの追及。その全てから逃げ出した彼は、流れ着いた先の街で、再び、その天性の才覚を悪用していた。マッチングアプリで孤独な中年女性に狙いを定め、巧みな言葉で心を掴み、結婚をちらつかせては金を騙し取る。そう、結婚詐欺だ。しかし、かつてのように巨額の富を築くことはできず、その日暮らしの金を稼ぐのが精一杯。彼の手元に残るのは、虚しさと、わずかな、はした金だけだった。
彼は、一日中、スマートフォンの画面を眺めて過ごしていた。検索するのは自分の、かつての名前。高橋雄一、あるいは、田中誠。画面には自分の成功を伝える、古いニュース記事や、自分を「カリスマ」と称える、ゴーストライターが書いたブログが表示される。彼は、その、失われた栄光の残骸を、何度も、何度も読み返し、そして、今の自分との落差に絶望していた。
彼を騙したあの男。相川正輝、いや、鈴木一郎。あの男は、もう、この世にはいない。木村という男と刺し違えて死んだと、ニュースで見た。
(死んで、逃げやがって……)
高橋の心にあったのは恐怖ではなかった。ただ、自分をここまで貶めた男が、自分より先に楽になったことへの醜い嫉妬と、やり場のない憎悪だけだった。
その夜も、彼は万年床になった布団の上で、安物の酒を煽り、眠ろうとしていた。壁の薄い隣の部屋からは、誰かの押し殺したような笑い声が聞こえてくる。その、自分とは無関係な世界の営みが、彼の孤独を、さらに際立たせた。
うとうとと、意識が浅い眠りの淵に沈みかけた、その瞬間だった。
部屋の空気が一変した。
隣の部屋から聞こえていた雑音が、すう、と消え失せ、代わりに耳鳴りのような、絶対的な静寂が訪れた。そして、真夏だというのに、まるで、冷凍庫の中にいるかのような強烈な冷気が彼の肌を刺した。
(……なんだ……?)
高橋が布団の中から顔を上げた。
そして、彼は息を呑んだ。
部屋の狭い入り口に、一人の男が立っていた。
痩せた背の高い男。その姿は半透明で、輪郭が僅かに揺らめいている。その顔には何の感情もなく、その瞳は底なしの闇のように、ただ、高橋一人だけを、じっと見つめていた。
鈴木一郎。
死んだはずの男だった。
「……ひっ……!」
高橋の喉から、引きつったような悲鳴が漏れた。
「な、なんで、お前が、ここに……!お前は死んだはずじゃ……!」
彼は布団の上で後ずさろうとしたが、体は金縛りにあったように動かなかった。
悪霊は答えなかった。
ただ、その右手に、あの黒いノートを、音もなく現出させる。
そして、ページをめくる、乾いた音が、高橋の頭の中に、直接、響き渡った。
一郎の平坦な声が、忘却の彼方にあった、一つの罪を朗読し始めた。
「平成十五年六月十日。火曜日。天気、雨。お前は俺に言ったな。『鈴木さんのような誠実な方こそ、豊かになるべきなんです』と。そして、俺はお前を信じた」
「や……やめろ……」
高橋は頭を振った。思い出したくもなかった。自分の数ある詐欺行為の、その、ほんの一つに過ぎない過去の出来事を。
だが悪霊の朗読は止まらない。
「俺が、お前に託した三百万円。お前にとっては、ただの数字の羅列だったのだろう。だが、あれは俺にとって、ただの金ではなかった」
「あれは、病で亡くなった俺の両親が、俺のためにと遺してくれた、最後の温もりだった。あれは社会から拒絶され続けた俺が、もう一度、立ち上がるための、最後の希望だった。そして、何より、人間不信に陥っていた俺が、もう一度だけ、人を信じてみようと思った、最後の信頼だった」
悪霊はノートから、顔を上げた。その、感情のない瞳が、高橋を射抜いた。
「お前は、その全てを踏みにじった。お前は、俺の最後の人間としての価値を、ただの紙切れに変えたのだ」
「わ、悪かった!謝る!だから、許してくれ!」
高橋は見苦しく、命乞いを始めた。
「金なら、返す!いや、金は、もうないが……何でもする!だから、命だけは……!」
「許しなど、乞うな」
悪霊は、ノートを、ぱたん、と閉じた。
「お前は、その偽りの笑顔と甘い言葉で、俺の信頼を裏切った。だから罰を与える。お前の、その詐欺の道具を永遠に奪い去ってやる」
そう言い残すと、一郎の姿は闇に溶けるように、かき消えた。
ブースには元の雑音と生ぬるい空気が戻ってきた。
高橋は、しばらくの間、夢だったのかと自分に言い聞かせようとした。だが、心臓の激しい動悸と、全身に浮かんだ脂汗の冷たさが、それが紛れもない現実だったことを彼に告げていた。
翌朝。
高橋は自分の体に起きた異変に気づいた。
顔が、おかしい。鏡を見て、彼は絶句した。
かつて、人の信頼を勝ち取るために、常に手入れを欠かさなかった、滑らかだったはずの肌。それが、まるで、古い、なめし革のように、どす黒く変色し、硬質化していたのだ。無数の深い皺が刻まれ、その顔は、もはや人間のものではなく、得体の知れない、老いた獣のようだった。
それだけでは、なかった。
体中から、耐え難い悪臭が立ち上っている。それは、汗の匂いなどではない。もっと根源的な、腐肉が、ゆっくりと発酵していくような、甘く、むせ返るような死の匂いだった。
彼は慌ててシャワーを浴びた。石鹸を体に、何度も、何度も、こすりつける。しかし、その醜い皮膚の色も、体に染みついた悪臭も、全く落ちることはなかった。
犯罪グループのアジトから、追い出された。
「おい、高橋。お前、一体、どうしたんだそのツラは。それに、臭えんだよ。そんなんで、仕事になるか!」
若いチンピラに、ゴミでも見るかのような、冷たい目で罵倒された。
彼は行く当てを失い、街をさまよった。
すれ違う人々は皆、彼の、その異様な容姿と悪臭に眉をひそめ、あからさまに彼を避けていく。かつて、彼の周りには、彼の甘い言葉に吸い寄せられるように、人が集まってきた。しかし、今、彼の周りにあるのは拒絶と侮蔑だけだった。
彼の最大の武器であったはずの、人の信頼を勝ち取るための「見た目」。
それが、逆に、人々から獣のように疎まれ、拒絶されるための、「烙印」へと変貌したのだ。
高橋は公園の、一番奥の、誰にも、気づかれな-いようなベンチの下で、膝を抱えた。
飢えと渇き。そして、何よりも、耐え難い孤独。
彼は、初めて、鈴木一郎が、三十数年間、味わい続けた、絶望の、その、ほんの入り口を垣間見た。
だが、彼の救いがたい魂は、まだ折れてはいなかった。
(……まだだ……。まだ、終わらん……)
彼は震える手で、スマートフォンを取り出した。
(……顔が見えなければ、声が聞こえなければ、まだ、騙せる……。ネットの世界なら、俺は、まだ、神に、なれるはずだ……)
その醜い獣の貌に、かつての傲慢な詐欺師の笑みが、一瞬だけ浮かんだ。
それは、自らの最後の破滅を早めるだけの愚かな笑みだった。




