第34話 地獄の道標
蓮城桔梗は古美術店の奥にある静謐な茶室で、一人、目を閉じていた。
彼女の周りには、この数週間で集めた、いくつかの新聞記事の切り抜きが、静かに置かれている。
『元教頭、原因不明の奇病で精神錯乱か』
『郊外の一家、父子ともに突如、男性器が壊死。警察も捜査に乗り出す』
『都内各所で、原因不明の体調不良を訴える中年男女が続出。いずれも、同じ中学校の卒業生か』
世間では、それぞれが独立した、奇妙で、悲惨な事件として扱われている。しかし、桔梗の目には、その全ての記事から、同じ、どす黒く、禍々しい「気」が、糸のように立ち上っているのが、はっきりと視えていた。
鈴木一郎。
あの、自らの魂を呪いそのものへと変質させた、鬼神の仕業。
彼の復讐は、終わるどころか、むしろ、その範囲を加速度的に広げている。
「……これ以上は、見過ごせない」
桔梗は呟いた。
神凪玲泉の死は、同業者(と世間では思われている)の、自業自得の末路だった。だが、今、呪いの牙は明らかに、罪の意識すらないであろう、かつての傍観者たちにまで向けられている。これは、もはや復讐ではない。ただの、無差別な、魂の虐殺だ。
彼女は再び、意識を集中させた。
前回、鬼神の霊視を行った際、彼女は、その怨念の奔流に、危うく飲み込まれかけた。だが、今は違う。被害者が増えれば増えるほど、この世に残される、彼らの魂の叫び、その苦痛の残滓が、皮肉にも、鬼神の居場所を示す、道標となっていた。
桔梗は、その無数の悲痛な叫び声に、自らの意識を同調させていく。
(……聞こえる……)
足が腐り、光を失った、佐藤和也の絶望。
髪を失い、未来を奪われた、渡辺恵子と子供たちの嘆き。
両手を失い、心を閉ざした、伊東健太の息子の、声なき慟哭。
そして、今、この瞬間も、次々と生まれている、新たな犠牲者たちの恐怖と苦痛。
それらの声は全て、一つの場所へと収束していく。
桔梗の意識は、その声の奔流を遡り、暗く、険しい山道を進んでいく。
(……ここだ……)
彼女の霊視に、はっきりと、一つの光景が映し出された。
時間が止まったかのような廃村。
村を見下ろす、小高い丘の上。
巨大な岩に、半ば埋もれるようにして佇む、古びた小さな祠。
そして、その祠の、暗闇の中心に、それはあった。
古びた、桐の箱。
その中から、全ての元凶である、何十冊もの黒いノートが、禍々しいオーラを放っている。
それは、ただの紙の束ではなかった。三十数年分の怨念と、二つの魂を喰らい、それ自体が、一個の、邪悪な生命体のように、ゆっくりと、力強く脈動していた。
「……見つけた……」
桔梗は霊視から意識を引き剥がした。全身は冷たい汗で、びっしょりと濡れている。しかし、その顔には確かな手応えがあった。
呪いの源泉。鬼神の心臓。その在り処を、ついに突き止めたのだ。
彼女は、すぐに行動を開始した。
霊視で見た特徴的な山の形、そして廃村の佇まい。それを手がかりに、古地図や、地方の郷土史、廃村に関するマニアックなウェブサイトなどを徹底的に調べ上げていく。
そして、数時間の調査の末、ついに、一つの名前に行き着いた。
「忌澤村」
かつて、土着の特殊な信仰を持っていたが、ある時期を境に、歴史から忽然と姿を消した村。公的な記録には、ほとんど残されていない、忘れ去られた土地。
間違いない。ここだ。
桔梗は立ち上がった。
これから向かう場所は、ただの心霊スポットではない。鬼神が、自らの心臓を守るために作り上げた神域であり、魔境だ。生半可な準備で足を踏み入れれば、神凪玲泉の二の舞になる。
彼女は古美術店の奥の奥、普段は決して人を入れることのない、蔵へと向かった。
分厚い桐の扉を開ける。ひやりとした清浄な空気が、彼女の肌を撫でた。
蔵の中には、彼女の先祖が、代々、受け継いできた、数々の霊的な武具が、静かに、その時を待っていた。
彼女は、その中から、いくつかのものを選び取った。
一つは、黒檀の鞘に収められた、一振りの古い短刀。その刃は隕鉄から鍛えられたと伝えられ、あらゆる邪なものを断ち切る力を持つという。
一つは、数珠のように連なった、漆黒の霊石。持ち主の精神を守り、邪な気の侵入を防ぐ、強力な結界の役割を果たす。
そして、最後に、彼女は、一枚の古い狐の面を手に取った。それは、彼女の一族が、古来より、神域に足を踏み入れる際に、自らの「人間」としての気を隠し、異界の存在に同化するために使われてきたという、呪具だった。
準備は整った。
桔梗は、それらの武具を黒い布に丁寧に包むと、蔵の扉を固く閉ざした。
その夜。
桔梗は、一人、黒い四輪駆動車のハンドルを握っていた。
カーナビの画面には、目的地は表示されていない。ただ、彼女の頭の中にある、忌澤村へと続く地図だけが、彼女を導いていた。
高速道路のオレンジ色の光が、次々と後ろへと流れ去っていく。
街の灯りが遠ざかり、やがて完全な闇が、彼女の車を包み込んだ。
これから始まるのは除霊ではない。
それは、神殺しにも等しい、あまりに危険な戦い。
勝算は分からない。
だが行かなければならない。
これ以上、あの鬼神に新たな絶望を喰らわせるわけには、いかないのだから。
桔梗はアクセルを、さらに深く踏み込んだ。
車のヘッドライトが、闇の先に続く険しい山道を静かに照らし出していた。




