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怨嗟の記録  作者: かわさきはっく


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第31話 鬼神のカルテ

 伊東健太は祈りをやめた。

 工房の片隅に追いやられた、粗末な神棚は、今や、ただの埃をかぶった木箱でしかなかった。神も仏も、この地獄には、いない。いるのは、ただ、終わりの見えない絶望と、日に日に腐り落ちていく息子の両手、そして、夜ごと彼の枕元に現れる、あの能面のような悪霊だけだった。


 偽りの霊媒師が目の前で焼き殺されてから、一ヶ月。伊東の心は恐怖を通り越し、不条理への冷たい怒りに支配されつつあった。なぜ、自分たちが。なぜ、これほどの罰を。その問いは、答えのないまま、彼の魂を内側からじわじわと焦がしていた。


 その日も、彼は工房の椅子に座り、ただ虚空を見つめていた。

 不意に工房のドアが、コン、コン、と、静かにノックされた。

「……何の用だ」

 伊東は誰に対するともなく、吐き捨てるように言った。もう誰とも会いたくなかった。


 返事はない。ただ、ドアが、ゆっくりと、音もなく開かれた。

 そこに立っていたのは、一人の女性だった。

 黒いシンプルなパンツスーツに身を包み、その長い髪は、まるで、夜の闇を溶かし込んだかのように艶やかだった。化粧気のない、涼やかな顔立ち。しかし、その瞳だけが、この世の全てを見通しているかのような、深く、静かな光を湛えていた。


「……どちら様?」

 伊東の声には、あからさまな警戒心が滲んでいた。

蓮城桔梗れんじょうききょうと申します」

 女性――桔梗は静かに一礼した。

「先日、チャペルで亡くなられた神凪玲泉かんなぎれいせん氏の件で、少し、お話を伺いに参りました」


 その名を聞いた瞬間、伊東の全身に鳥肌が立った。

「……あんたも同類か!人の弱みにつけ込んで、金を巻き上げに来たのか!帰ってくれ!」

 彼は怒鳴りつけた。もう騙されるのは、ごめんだった。


 しかし、桔梗は少しも動じなかった。

 彼女は静かに工房の中を見回すと、ぽつり、と呟いた。

「……この工房には、木の匂いよりも、墓場の匂いが強く染み付いていますね。そして、癒えることのない、若い魂の嘆きが聞こえる」


 その言葉に伊東は息を呑んだ。

 彼女は、何も、見ていないはずだった。息子のことも話していない。それなのに、なぜ。

「……あんた、いったい何者だ」


「私は、あなた方が関わってしまったものの正体を、少しだけ知っている者です」

 桔梗は伊東の目を見て静かに言った。

「あなたを襲っているもの。それは、もはや、鈴木一郎という、個人の霊ではありません」


 伊東は言葉を失った。この女は、「本物」だ。彼の理性が、そう告げていた。

 彼は力なく、その場に崩れ落ちそうになるのを、なんとか堪えた。そして震える声で尋ねた。

「……じゃあ、あれは何なんだ。俺たちを、こんな目に遭わせている、あれは、いったい何なんだ……」


 桔梗は工房の中へと、静かに足を踏み入れた。そして、伊東の向かいに立つと、残酷なまでに冷静な声で告げた。

「あれは怨念の結晶。鬼神、とでも、呼ぶべきものです」


 彼女は語り始めた。自らの霊視によって垣間見た、その呪いの、おぞましい構造を。

「三十数年という、長すぎるほどの歳月をかけて、丹念に練り上げられた、純粋な憎悪。そして、儀式の最後の仕上げとして捧げられた、二つの魂。一つは、復讐にその身を捧げた、鈴木一郎自身の魂。そして、もう一つは、その憎悪の最初の対象であった、木村雄介の魂」


「二つの魂と、三十年以上の恨みが、一つの器の中で混ざり合い、練り上げられ、そして、変質した。もはや、それは、個人の感情ではない。ただ、そこに記録された罪に基づき、無差別に罰を与え続ける呪いのシステムそのもの。それが、今、あなた方を襲っているものの正体です」


 伊東は、その言葉を、ただ、呆然と聞いていた。

 システム。そうだ、あの悪霊の行動は、あまりに機械的で正確だった。まるで、プログラムされた機械のように。


「そんな……そんなものが、あるというのか……。では、どうすれば……。どうすれば助かるんだ!除霊は、できないのか!」

 彼は最後の望みを託して叫んだ。


 しかし、桔梗は静かに首を横に振った。

「……不可能です」

 その一言が、伊東の最後の希望を粉々に打ち砕いた。

「あれほどの純度と密度を持つ怨念を、人の身で覆すことなど、到底、できません。神凪玲泉の末路が、その何よりの証拠。彼は自らの欲で、触れてはならない神域に足を踏み入れてしまったのです」


 絶望。

 完全な、光の一切ない絶望が、伊東の心を支配した。

 では、もう、何も打つ手はないというのか。ただ、家族が、一人、また一人と、壊れていくのを、見ているしかないというのか。


 彼は座っている椅子の肘掛けを、指が白くなるほど強く握りしめた。その、かつては、温かい家具を生み出していたはずの手。今は、ただ、無力に震えているだけの手。

 その時、桔梗が続けた。


「……ですが」

 その声に伊東は、はっと、顔を上げた。

「不可能を可能にする、という意味ではありません。ただ、このまま、何もせずに、滅びを待つのが唯一の道ではない、と、申し上げているだけです」


「……どういう、ことだ」


「どんな、強力な呪いにも、必ず、その力の源泉が存在します。そして、今回の呪いは、私の霊視によれば、はっきりと形を持って、この世に存在している」

 桔梗の静かな瞳が、伊東を射抜いた。

「……『記録のノート』です」


「ノート……!」

 伊東は悪霊が常に手にしていた、あの黒いノートを思い出した。


「ええ。あれは、ただの記録ではない。あれこそが呪いの設計図であり、怨念の拠り所。鬼神は今もなお、そのノートに記された、三十数年前の罪を、一人、また一人と、読み上げ、その記述通りに罰を執行しているに過ぎない。いわば、あれは、鬼神のカルテなのです」


「ならば……そのノートを燃やしてしまえば……!」


「そう単純な話ではありません」

 桔梗は伊東の希望を再び、打ち消した。

「ノートは、すでに、この世で最も強力な怨念が渦巻く、結界の中に奉納されている。並の人間が近づけば、その場で、正気を失うか、命を落とすでしょう」

「ですが」と、彼女は続けた。

「そのノートを破壊すること。それ以外に、この呪いの連鎖を断ち切る方法はありません」


 伊東は椅子の肘掛けを掴むその手に力を込めた。腐り落ち、動かなくなった両足では、もう二度と立つことはできない。しかし、彼は、その上半身を、必死に乗り出した。その瞳には、先ほどまでの絶望の色は、なかった。

 そこにあったのは、自らの罪と、その不条理なまでの代償を、全て受け入れた上で、それでもなお、抗うことを決意した、一人の父親の顔だった。


「……その場所は、どこなんだ」

 彼は椅子に座ったまま、身を乗り出すような姿勢で、桔梗に尋ねた。

「そのノートがあるという、地獄の入り口は、どこにある」


 桔梗は答えなかった。

 ただ、その静かな瞳で、伊東の覚悟を見定めようとするかのように、じっと見つめ返していた。


 二人の間には、決意に満ちた沈黙が流れていた。

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無関係な人間が邪魔すんなや。
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