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怨嗟の記録  作者: かわさきはっく


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第27話 偽りの祭壇

 絶望の淵に立たされた伊東健太と渡辺恵子にとって、インターネットの向こう側に見つけた「神凪玲泉かんなぎれいせん」という名は、暗闇に灯る唯一の蝋燭のようだった。そのウェブサイトは洗練されたデザインで、依頼者からの感謝の声とされる、数々の手紙の写真が掲載されていた。原因不明の病が治った、会社の経営が上向いた、家庭内の不和が解消された――。そのどれもが、今の二人にとっては、喉から手が出るほど欲しい、奇跡の物語だった。


「……信じられるのかしら」

 電話をかけるのをためらう渡辺に、伊東は力なく言った。

「もう、信じるしかないんだ。俺たちは普通の世界の人間じゃ、なくなったんだから」


 震える指で渡辺は、サイトに記載されていた番号へと電話をかけた。応対に出たのは秘書と名乗る、落ち着いた声の女性だった。事情をかいつまんで話すと、女性は少しも驚いた様子を見せず、「先生は全てお見通しです。一度、お会いになられるとよろしいでしょう」と、都内の一等地にある、オフィスビルの住所を告げた。


 数日後、二人は、そのオフィスの前に立っていた。磨き上げられたガラスのドアには、金色の文字で『神凪霊力研究所』とだけ記されている。場違いな場所に、二人は互いの顔を見合わせた。

 中へ入ると、そこは、彼らが想像していたような、薄暗く、線香の匂いが立ち込めるような場所ではなかった。白を基調とした、清潔でモダンな空間。受付の女性に案内され、通された応接室で、彼らは、その男と対面した。


 神凪玲泉は四十代半ばほどの、涼やかな目元をした男だった。上質なシルクのシャツに身を包み、その物腰は宗教家というより、むしろ有能な経営コンサルタントといった風情だった。

「……よく、お越しくださいました」

 神凪は穏やかな笑みを浮かべ、二人に席を勧めた。


 彼の前で、伊東と渡辺は、堰を切ったように、自らの身に起きた地獄の体験を語り始めた。鈴木一郎の亡霊のこと、黒いノートのこと、そして、家族を襲った、あまりに残酷な呪いのことを。

 神凪は、その話を、ただ、黙って聞いていた。時折、深く頷き、同情するような、悲しげな表情を浮かべる。その態度に、二人は、ようやく、自分たちの苦しみを理解してくれる人間に出会えたのだと、心の底から安堵していた。


 全てを話し終えた後、神凪は、ゆっくりと口を開いた。

「……お辛かったでしょう。あなた方が背負わされているものは、人間の手に負えるものではありません。それは、三十数年の時を経て、完全に実体化した強力な地縛霊です。そして、その怨念の核となっているのが、その『記録のノート』に違いありません」

 彼の言葉は全てを見通しているかのように淀みがなかった。


「先生!助けてください!どうすれば、この呪いを解くことができるのでしょうか!」

 渡辺が懇願するように身を乗り出す。


 神凪は、少し、悲しげに目を伏せた。

「……除霊は可能です。ですが、これほどまでに強力な怨念を浄化するには、こちらも、命がけの儀式を行わなければならない。そして、そのためには、相応の準備が必要となります」

「準備、と申しますと……?」

 伊東が尋ねる。


「怨念のエネルギーを中和するための特殊な触媒。そして、儀式を執り行うための、清浄な結界。それらを整えるためには……正直に申し上げて、多額の費用がかかります」

 神凪は、一枚の見積書をテーブルの上に、そっと置いた。

 そこに記されていた金額は、一千万円。

 常識で考えれば、ありえないほどの法外な値段だった。しかし、今の二人にとって、金の価値は、失われつつある家族の命や未来に比べれば、あまりに軽いものだった。


「……払います」

 伊東が即決した。

「それで助かるのなら。私の全財産を投げ打っても構わない」

 渡辺も、涙ながらに何度も頷いた。


 神凪の瞳の奥に、誰も気づかないほどの満足げな光が、一瞬だけ宿った。


 一週間後。

 儀式は郊外にある、今は使われていない、結婚式場のチャペルを貸し切って、執り行われた。神凪によれば、ここは、かつて、多くの人々の幸福な誓いが交わされた、聖なるエネルギーに満ちた場所なのだという。


 チャペルの内部は異様な雰囲気に包まれていた。祭壇には、意味不明な文様が描かれた布がかけられ、床には赤い塗料で、巨大な魔法陣のようなものが描かれている。無数の蝋燭が不気味な光を放ち、壁にゆらめく影を落としていた。


 伊東と渡辺は魔法陣の中央に正座させられた。

 やがて、奥の扉が開き、神凪が、その姿を現した。彼は白を基調とした、豪華な刺繍が施された、儀式用の衣装に身を包んでいる。その手には、先端に何枚もの紙垂しでがついた、大きな杖を握っていた。

「……これより、怨霊浄化の儀を執り行う。何があっても、決して声を出さぬように。心を強く保ちなさい」

 厳かな声で、そう告げると、神凪は祭壇の前に立ち、呪文のようなものを唱え始めた。それは、何語ともつかない、抑揚のない声だった。


 伊東と渡辺は、固唾を飲んで、その様子を見守っていた。本当に、これで助かるのだろうか。一縷いちるの望みと、拭いきれない不安が彼らの心の中で渦巻いていた。


 神凪の儀式が最高潮に達した、その時だった。

 チャペルの中の空気が一変した。

 全ての蝋燭の炎が、一斉に、青白く揺らめいた。そして、先ほどまでの比ではない、骨の芯まで凍りつかせるような、強烈な冷気が二人を襲った。


 祭壇の、その背後の闇から、すう、と、鈴木一郎の悪霊が、その姿を現した。

 今までで、最も、はっきりとした、実体に近い姿だった。


「ひっ……!」

 渡辺が短い悲鳴を上げた。

 伊東もまた、全身の血が凍りつくのを感じていた。


 だが、最も恐怖に顔を歪ませたのは、彼らではなかった。

 神凪玲泉、その人だった。

「……な……な……」

 彼の口から、呪文は、もはや出てこない。その顔は血の気を失い、引きつっていた。

(嘘だ……!こんなこと、ありえない!ただの脅し文句だったはずじゃ……!本物が出るなんて……!)

 彼の頭の中はパニックで真っ白になった。


 悪霊は伊東と渡辺には、一瞥もくれない。

 ただ、その感情のない瞳で、震える神凪を、じっと見据えていた。

 そして、その声が、チャペルにいる全員の頭の中に直接、響き渡った。


『お前には、その二人を苦しめる権利はない』


 その言葉は二人を救うためのものではなかった。

 それは、自らの獲物を横取りされようとしている、絶対的な捕食者の怒りの声だった。

『彼らの罪を裁くのは、俺だ。彼らの絶望を喰らうのも、俺だ。お前のような、偽物の神が、介在する余地など、ない』


「ひいいいいい!」

 神凪は、ついに、狂ったような悲鳴を上げ、後ずさった。彼は儀式用の杖を放り出し、祭壇から逃げ出そうとした。

 その時、彼の足が、もつれた。彼はバランスを崩し、床に描かれた魔法陣のすぐそばに立てられていた、巨大な燭台に倒れ込んだ。


 ガシャン、という、けたたましい音と共に、燃え盛る蝋燭ろうそくが床に散らばる。

 そして、そのうちの一本が、神凪が着ていた、燃えやすい儀式用の衣装の裾に引火した。


 炎は、まるで悪霊の意志を持ったかのように、あっという間に彼の全身を包み込んだ。

「ぎゃああああああああああああ!」

 人間のものとは思えない断末魔の絶叫が、聖なるはずのチャペルに木霊した。

 彼は炎の塊となって、床を転げ回った。


 伊東と渡辺は、目の前で起きている地獄絵図を、ただ、呆然と見ていることしかできなかった。

 彼らが最後の希望を託した男は、今、彼らの目の前で、生きたまま焼かれていく。

 やがて、救急車のサイレンの音が遠くから聞こえてきた。

 しかし、全ては手遅れだった。


 神凪玲泉は搬送先の病院で、全身熱傷により、死亡が確認された。

 彼が詐欺師であったこと、そして、彼が本物の悪霊の怒りを買ったこと。その真実を、知る者は誰もいなかった。


 ただ、伊東と渡辺だけが理解していた。

 自分たちの最後の希望が、完全に断たれたことを。

 そして、鈴木一郎の呪いからは、決して逃れることはできないのだという、絶対的な絶望を。

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