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怨嗟の記録  作者: かわさきはっく


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第26話 無関心の咎

 斎藤正志は、夕暮れの校長室で、一人、満足げに窓の外を眺めていた。眼下には、部活動を終えた生徒たちが、楽しげに笑いながら下校していく姿が見える。四十年近くに及ぶ教師人生。大きな問題も起こさず、多くの生徒を卒業させ、そして今、自分はこの名門校の教頭という地位にある。来年には無事に定年退職を迎える。順風満帆、非の打ちどころのない完璧な教師人生だった。彼は、そう信じていた。


 三十数年前、彼がまだ若かった頃に担任を受け持った、〇〇中学校の、あのクラスのことなど、彼の記憶には、ほとんど残っていなかった。木村雄介という、少し乱暴だがリーダーシップのある生徒がいたこと。そして、そのクラスに、鈴木一郎という、影の薄い、何を考えているのか分からない生徒がいたこと。それくらいの曖昧な記憶しかない。いじめ?そんなものは、どのクラスにだって多少はあった。男の子同士の、ただのじゃれ合い。事を荒立てず、うまく収めるのが教師の腕の見せ所だ。彼は常にそう考えて、自分のキャリアを築き上げてきたのだ。


「さて、と。そろそろ帰るか」

 斎藤が上着を羽織ろうと、椅子から立ち上がった、その瞬間だった。

 部屋の空気が一変した。

 先ほどまで、窓から差し込んでいた夕日の暖かさが、嘘のように消え失せ、代わりに、肌を刺すような、絶対零度の冷気が部屋を満たした。コン、コン、と、校長室のドアをノックする音が静寂に響いた。


「……誰だね?」

 斎藤は訝しげにドアへと視線を向けた。もう学校には誰も残っていないはずだった。

 返事はない。ただ、再び、コン、コン、と、ノックの音が繰り返されるだけ。

「用があるなら、名前を言いなさい」

 斎藤が少し苛立った声で言うと、ドアノブが、ぎい、と、ゆっくり回り始めた。鍵は、かかっているはずなのに。


 ドアが音もなく開く。

 そして、そこに立っていたのは、ありえない人物だった。

 痩せた背の高い男。その姿は半透明で、輪郭が僅かに揺らめいている。その顔には何の感情もなく、その瞳は底なしの闇のように、ただ、斎藤一人だけを、じっと見つめていた。

 ニュースで見た、鈴木一郎の顔だった。


「……す、鈴木くん……?どうして君が、ここに……。君は死んだはずじゃ……」

 斎藤の喉から、ひきつったような声が漏れた。四十年の教師人生で、初めて経験する、理解を超えた恐怖。彼の足は床に根が生えたように動かなかった。


 悪霊と化した鈴木一郎は、その狼狽する姿に何の反応も示さない。

 彼は、すっと右手を持ち上げた。その手には、どこからともなく、一冊の黒いノートが現れる。


 一郎は、そのノートを、ゆっくりと開いた。そして、感情のこもらない、平坦な声で、その内容を読み上げ始めた。その声は斎藤の頭の中に直接響き渡った。


「昭和六十三年三月二日。金曜日。放課後。職員室。天気、小雨」

「俺は、お前に訴えた。木村たちからのいじめが、もう、耐えられない、と。教科書を破られ、持ち物を隠され、毎日、殴られている、と。震える声で、助けを、求めた」


 斎藤の脳裏に、忘却という名の分厚い壁の向こうから、一つの光景が無理やり引きずり出されていく。

 そうだ。そんなことが、あった。放課後の誰もいない職員室で、この暗い目をした生徒が、何かを自分に訴えていた。


「だが、お前は言ったな」

 一郎の声が続く。

「『男の子同士の、ただのじゃれ合いだろう。事を荒立てるな。木村くんの家は、PTAの役員もやっているんだ。それに、もうすぐ受験だろう。内申に響くぞ』と」


 思い出した。全て、思い出した。あの時の、自分の、保身しか考えていない、卑劣な言葉。そして、目の前で絶望に顔を歪ませるこの少年から、面倒なものを見るように、すっと目を逸らした自分の冷たい目を。


「お前は教師ではない。ただの臆病な保身家だ。お前のその無関心が、俺の最後の希望を踏み潰した」


「ち、違う!私は君のことを、思って……!」

 斎藤は見苦しい言い訳を口にした。だが、その言葉が、彼自身にも嘘だと分かっていた。


 悪霊はノートを、ぱたん、と閉じた。

「お前は俺の声を聞こうとしなかった。俺の苦しみを見ようとしなかった。だから、罰を与える」

「お前は、これから、永遠に聞くことになるのだ。お前が見殺しにした、生徒たちの、その、声なき声を」


 そう言い残すと、一郎の姿は闇に溶けるように、かき消えた。

 部屋には元の温度と静寂が戻ってきた。

 斎藤は、しばらくの間、夢だったのかと、自分に言い聞かせようとした。だが、額に浮かんだ、脂汗の冷たさが、それが、紛れもない現実だったことを彼に告げていた。


(……気のせいだ。疲れているんだ……)

 彼は、そう呟き、震える手で鞄を掴んだ。早く、この場所から立ち去りたかった。


 その時だった。

 彼の耳元で、はっきりと、声が聞こえた。

 それは、鈴木一郎の、あの平坦な声だった。


『昭和六十二年九月十五日。火曜日。天気、曇りのち雨。五時間目、体育。ドッジボール。木村が投げたボールが、故意に顔面を直撃。佐藤が笑いながら「ナイスボール」と叫ぶ。周囲の男子生徒数名が同調して笑う。頬に鈍い痛み。眼鏡が歪む。教師の斎藤は、見て見ぬふり……』


「……うわっ!」

 斎藤は思わず、自分の耳を塞いだ。

 しかし、声は消えない。それは、外から聞こえる音ではない。彼の頭の中に、直接、響き渡ってくるのだ。


『昭和六十二年十月七日。水曜日。天気、晴れ。佐藤が俺の給食のカレーライスに、校庭の砂を混ぜた。俺がそれを食べられないのを見て、木村と笑っていた。渡辺恵子が、一番前の席で、くすくすと笑っていた。教師の斎藤は、その日の日誌に、「今日もクラスは平和だった」と、記した……』


「やめろ……やめてくれ……!」

 斎藤は頭を抱え、その場にうずくまった。

 声は止まらない。それは、まるで、壊れたレコードのように、三十数年前の、あの日、あの教室で起きた、全ての出来事を、淡々と、克明に、繰り返し朗読し続けるのだ。


 彼の完璧だったはずの世界が、内側から音を立てて崩れ始めていた。

 これは罰だ。

 声を聞かなかったことへの罰。

 これから、彼は永遠に、この呪いの声を聞き続けることになる。眠っている時も、目を覚ましている時も、誰かと話している時でさえも。


 斎藤の絶叫ともつかぬ嗚咽が、夕闇に包まれた校長室に、虚しく響き渡った。

 その声は、もう誰の耳にも届かない。

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