表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
怨嗟の記録  作者: かわさきはっく


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/40

第25話 震源地の今

 佐藤家があった場所から駅へと戻る道は、二人にとって地獄への巡礼路じゅんれいろのように感じられた。伊東健太も、渡辺恵子も、一言も口を利かなかった。ただ、互いの浅く、速い呼吸だけが、冬の冷たい空気の中で白く震えていた。


 佐藤の娘の自殺。そして佐藤自身の肉体と精神の完全な崩壊。

 隣家の住人が語った、淡々とした事実の一つ一つが、彼らの脳内で、おぞましい映像となって繰り返し再生されていた。それは自分たちの、そう遠くない未来の姿を見せつけられているようだった。


 電車の揺れに身を任せながら、渡辺が、ぽつり、と呟いた。

「……次は、私たち、なんでしょうか」

 その声は、ほとんど音になっていなかった。

「ああ、間違いないだろうな」

 伊東は窓の外の流れていく景色から、目を逸らさずに答えた。

「あいつの復讐は、俺たちが完全に壊れるまで終わらない」


「そんな……。どうして私たちが、こんな目に……。ただ、あの時、あの場所に、いただけなのに……」

 渡辺の瞳から、涙が、とめどなく溢れ出した。ウィッグで隠された頭皮が、じくり、と痛むような気がした。


「理由なんて、あいつにとっては、どうでもいいんだ」

 伊東は固く拳を握りしめた。息子の腐り落ちていく両手が脳裏をよぎる。

「俺たちは、あいつの記録の中では、死刑を宣告された罪人だ。執行を待っているだけのな。だが……このまま黙って殺されるのを待つつもりはねえ」


 伊東の目に絶望とは違う、暗い光が宿った。それは、追い詰められた獣が放つ、最後の抵抗の光だった。

「何か手がかりがあるはずだ。あいつが、どうして、あんな化け物になっちまったのか。そして、どうすれば、この呪いを止められるのか。何か、方法があるはずなんだ」


 その言葉に、渡辺も、はっとしたように顔を上げた。そうだ、このまま泣いているだけでは何も変わらない。子供たちを守らなければ。

「でも、どうやって……?」


「あいつの実家だ」

 伊東は言った。

「同窓会の名簿に鈴木の実家の住所が載っていた。もう、誰も住んでいないかもしれない。だが、何か、ほんの些細なことでも分かるかもしれない。あいつの人となりが。あいつが何を考え、何に苦しんでいたのかが」


 それは、あまりに、か細い希望だった。しかし、今の二人にとっては暗闇の中に差し込んだ唯一の光に見えた。


 数日後、彼らは、再び、会っていた。伊東が名簿から探し出した、鈴木一郎の実家があったとされる、古い住宅街に、二人の姿はあった。

 彼らの目の前に現れたのは、昭和の面影を色濃く残す、古びた木造モルタルの二階建てアパートだった。「常盤荘」と書かれた錆びついた看板が傾きかけている。外壁は所々剥がれ落ち、鉄製の外階段は雨風に晒されて赤黒く変色していた。


「……ここ、なのか」

 伊東は名簿の住所とアパートの名前を見比べた。間違いない。

 二人は軋む階段を上り、二階の一番奥の部屋、201号室の前で立ち止まった。ドアには古いタイプの鍵穴と、郵便受けの差し込み口があるだけ。しかし、そのドアは異様な雰囲気を放っていた。郵便受けはガムテープで内側から固く塞がれ、ドアノブには、一枚の札がワイヤーでくくりつけられている。


『告知事項あり』


 不動産業界で「事故物件」を意味する、その不吉な言葉に、二人は息を呑んだ。

 伊東がドアノブに手をかけようとした、その時だった。

「……もし、そこのお部屋に御用でしたら、無駄ですよ」

 背後から、しわがれた声がした。振り返ると、隣の部屋のドアが、わずかに開いており、そこから老婆が、こちらを覗き見ていた。


「すみません、昔、こちらに住んでいた、鈴木さんという方を探しておりまして……」

 伊東が当たり障りなく答える。

 老婆は、その名前を聞くと、途端に顔を曇らせた。

「ああ、一郎くんのことかい……。あの子なら、もう、ここにはいないよ。ずいぶん前に警察が大勢やってきてねえ。何でも世間を騒がせた、大きな事件の犯人だったとかで……。それ以来、この部屋は事故物件扱いさ。気味が悪いって、誰も借り手がつかないんだよ」


 老婆は記憶をたどるように目を細めた。

「あの子、昔から、本当に影の薄い子でねえ。お父さんもお母さんも、相次いで亡くなられて……。その後、一人で住んでいたはずだけど、ほとんど誰とも口を利かないし、家からも、あまり出なかったんじゃないかしら。まさか、そんな大それたことをするなんてねえ……」


 結局、得られたのは、それだけだった。

 鈴木一郎は復讐を始めるずっと前から、社会との繋がりを自ら断ち切っていたのだ。彼の孤独の闇は、隣人ですら覗き込むことのできないほど、深いものだった。そして、彼が人間として最後に過ごしたこの場所もまた、彼の痕跡を何一つ残してはくれなかった。


 二人は近くの喫茶店に入り、力なく椅子に座った。

 テーブルの上には手つかずのコーヒーが湯気を立てている。

「……だめだ。何も、ない」

 伊東は頭を抱えた。

「あいつは亡霊になる前から、亡霊みたいに生きてきたんだ。俺たちが、あいつについて、知ることができることなんて、何一つ……」


「もう、無理なのかしら……」

 渡辺の震える声が静寂を破った。

「私たちも、佐藤くんのように……子供たちまで巻き込んで……。ただ待つしかないの……?」


 その時だった。

 渡辺が何かに、はっとしたように顔を上げた。

「……待って。普通の方法じゃ、無理だとしたら……」

 彼女は自分の言葉に、自分で驚いているようだった。

「普通じゃない方法なら……どうかしら」


「普通じゃない、方法……?」

 伊東が聞き返す。


「ええ……」

 渡辺は震える指で、スマートフォンを取り出した。その目は、もはや、正気と狂気の境界線をさまよっていた。

「だって、そうでしょう?私たちを苦しめているのは、死んだ人間なのよ。お化けなのよ。だったら……それを退治してくれる人が、いても、おかしくないんじゃないかしら……?」


 彼女は検索窓に、震える指で、いくつかのキーワードを打ち込んでいった。


『呪い 解決』

『悪霊 除霊 本物』

『超常現象 専門家』


 伊東は、その画面を、ただ、黙って見つめていた。

 馬鹿げている、と思った。非科学的だ、と。

 だが、息子の腐りゆく両手。渡辺の抜け落ちた髪。そして佐藤の悲惨な末路。

 それらは科学では決して説明できない、紛れもない現実だった。


 わらにも、すがるしかない。

 たとえ、その藁が、どんなに胡散臭く、頼りないものだったとしても。


 伊東もまた、自分のスマートフォンを取り出した。

 そして、渡辺と同じように、現実から逸脱した、未知の世界への扉を、自らの手で検索し始めた。


 二人の虚ろな巡礼は終わった。

 そして、今、彼らは、最後の、そして、最も危険な賭けに出ようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ