第23話 二人の円卓
伊東健太は工房の隅で、ただ、じっと座っていた。
木の香りは、もはや、彼の心を癒すことはない。それは、失われた未来の匂いであり、彼の罪の匂いだった。視線の先には、一枚の写真が置かれている。息子の雄太が、まだ健康だった頃、はにかみながら、初めて自分で作ったという小さな椅子を、誇らしげに掲げている写真だ。その希望に満ちた笑顔と、器用だったはずの両手。その全てを、自分が、三十数年前の、ほんの些細な悪意によって、奪い去ってしまった。
あの日以来、工房の時間は止まったままだ。鉋も鑿も、埃をかぶっている。彼は自分の手が恐ろしかった。この手が、あの少年の心を壊し、そして巡り巡って、自分の息子の未来を腐らせてしまったのだ。
夜ごと悪夢にうなされた。夢の中では常に、あの能面のような顔をした鈴木一郎が現れ、彼の罪を淡々と読み上げる。そして決まって、こう言うのだ。
『お前のその手は創造するためだけにあるのではない。破壊し、踏みにじるためにも、使われたのだ』
「……鈴木……」
伊東は震える声で、その名を呟いた。
その時、彼の脳裏に数ヶ月前の、ある記憶が不意に蘇った。
佐藤和也。
あのSNSのグループチャットでの、彼の狂ったような叫び。
『助けてくれ。鈴木の呪いだ』
あの時、伊東は他の者たちと同じように、それを酒に溺れた男の妄想だと、切り捨てた。気味が悪いとさえ思った。
だが、今なら分かる。あれは妄想などではなかった。あれは自分と全く同じ、地獄の底からの絶叫だったのだ。
伊東は震える手で、久しぶりにスマートフォンを手に取った。埃をかぶった画面を起動させ、SNSのアプリを開く。すでに、ほとんどのメンバーが退出して、廃墟のようになっている、あのグループチャットに、彼は短い文章を打ち込んだ。それは、佐藤のような、感情的な叫びではなかった。同じ地獄の住人を探すための、慎重で、切実な合図だった。
『元、〇〇中学校三年の者だ。最近、身の回りで、どうしても説明のつかない不幸があった者はいないか。特に、鈴木一郎という名前に心当たりがある者……連絡が欲しい』
メッセージを送った後、彼は、ただ、画面を見つめ続けた。
数時間が、永遠のように感じられた。
もう、誰も見ていないのかもしれない。見ていても、関わり合いになりたくないと、無視されるだけかもしれない。
諦めかけた、その時だった。
ピコン、と、スマートフォンの画面に、一件の通知が表示された。
プライベートメッセージだった。差出人の名前は渡辺恵子。言われなければ、思い出せないほどの、かつてのクラスメイト。
『……私も、です』
その短い文章から、伊東は、画面の向こう側の、深い絶望と恐怖を、痛いほど感じ取った。
一人では、なかったのだ。
二日後。
彼らは東京駅に隣接する、ホテルのコーヒーラウンジの、一番奥まった席で、向かい合っていた。互いの顔を見ても、すぐに、中学時代の面影と結びつかない。三十数年という歳月は彼らの容姿を、そして、その内面を大きく変えてしまっていた。
テーブルを囲む二人の間には、重く、気まずい沈黙が流れていた。
最初に、その沈黙を破ったのは伊東だった。
「……あんたも、見たのか。鈴木の亡霊を」
その言葉に渡辺恵子の肩が、びくりと震えた。彼女は深く帽子をかぶり、顔を隠すように、俯いている。その手元には、真新しい、医療用のウィッグのパンフレットが固く握りしめられていた。
「……見ました」
か細い、消え入りそうな声だった。
「毎晩、夢に出てきます。そして……あいつは、ノートを取り出して、私が昔したことを……」
「ノート……!」
伊東は身を乗り出した。
「俺の時も、そうだ!あいつは黒いノートを持っていて、俺が、あいつの鉛筆を折った時のことを、日付と天気まで正確に……!」
二人の視線が初めて、テーブルの中央で交錯した。
そして彼らは互いの顔に、同じ色を見出した。それは狂気の淵を覗き込んだ者だけが浮かべる、深い、深い、恐怖の色だった。
堰を切ったように、彼らは自らの身に起きた、地獄の体験を語り始めた。
伊東は息子の両手が腐り落ちていく様を。
渡辺は自分と、二人の子供たちの髪が、一夜にして全て抜け落ちたことを。
それぞれの物語は細部こそ違え、その根幹は恐ろしいほどに、一致していた。
一、鈴木一郎の亡霊が前触れもなく現れること。
二、黒いノートを取り出し、過去の忘れていたはずの罪を克明に読み上げること。
三、その罪に見合った、あまりに残酷な「罰」が、本人、あるいは、その最も大切な家族に下されること。
「これは……偶然じゃない」
伊東が絞り出すように言った。
「俺たちは呪われているんだ。死んだ鈴木一郎に」
「そんな……馬鹿な……!」
渡辺は両手で顔を覆った。
「だって、私なんて、ただ、見て、笑っただけで……!木村くんや、佐藤くんみたいに、直接、何かをしたわけじゃ……!」
「関係ないんだ」
伊東が力なく首を振った。
「あいつにとっては、俺も、あんたも、同じなんだ。あいつの記録の中では、俺たちは、皆、等しく、断罪されるべき罪人なんだよ」
二人は言葉を失った。
彼らを包むのは、ホテルのラウンジの、上品な喧騒とはかけ離れた、墓場のような冷たい静寂だった。
彼らは、今、はっきりと理解した。
自分たちが立ち向かっている相手は、人間の法律も、常識も、一切通用しない、超常的な存在なのだと。
「佐藤くんは……佐藤くんは、どうなったんでしょう」
渡辺が、思い出したように呟いた。
伊東はスマートフォンを取り出し、佐藤が最後に送ってきたメッセージを彼女に示した。そこには娘の変わり果てた足の写真と、『助けてくれ』という、悲痛な叫びだけが残されていた。
それ以来、佐藤からの連絡は、一切、途絶えている。
「……手遅れ、なのかもしれないな」
伊東の声は絶望に乾いていた。
「じゃあ……私たちは、どうなるの?次は私たちの番なの……?」
渡辺の震える声が静寂を破った。
伊東は答えることはできなかった。
ただ、目の前の、自分と同じように恐怖に歪んだ女性の顔を見るだけだった。
彼らは三十数年ぶりに再会した。しかし、それは、同窓会などという懐かしいものではない。
それは、死刑宣告を受けた罪人たちが、断頭台の上で、初めて顔を合わせたような、二人だけの戦慄の円卓だったのだ。




