第22話 罪の手
伊東健太は木の匂いが好きだった。
鉋をかけた檜の清々しい香り。磨き上げた桜の甘く滑らかな手触り。彼は小さな家具工房を営む、腕利きの職人だった。彼のその手から生み出される、温もりのある家具は多くの人々に愛されていた。
彼の最大の誇りは高校一年生になる一人息子、雄太だった。雄太は父親の背中を見て育ち、物心ついた頃から、自然と木工に興味を持つようになった。今では休みの日に、父親の工房で、見よう見まねで小さな木箱を作ったりしている。その不器用だが、真摯な眼差しを見るたびに、伊東は胸が熱くなるのを感じていた。この手で、この技術を息子に伝えていく。それが、彼の何よりの夢であり、生き甲斐だった。
三十数年前の中学時代の記憶など、彼にとっては鉋屑のようなものだった。クラスのリーダーだった木村や、その金魚のフンだった佐藤にくっついて、自分も誰かをからかったり、悪ふざけをしたりしたかもしれない。だが、それは、誰もが通る、若気の至りというやつだ。鈴木一郎という、暗い顔をした生徒のことも、言われれば、そんな奴もいたかな、と思い出す程度。彼に何をしたかなど、全く覚えてはいなかった。
その夜も、伊東は、一人、工房で作業に没頭していた。雄太の誕生日に贈るための本棚を作っているのだ。夜の静寂の中、木を削るリズミカルな音だけが響く。それは彼にとって、最も心安らぐ時間だった。
不意に、その音が止んだ。
伊東は鉋を動かす手を止め、訝しげに顔を上げた。
工房の空気が変わった。先ほどまで、木の香りで満たされていたはずの空間が、まるで古い墓場のような、黴臭く、湿った冷気に支配されている。壁に掛けてあった工具が、カタカタと微かな音を立てて震え始めた。
「……なんだ?」
伊東は立ち上がり、周囲を見回した。工房の入り口のドアは固く閉ざされている。窓にも鍵はかかっている。
気のせいか、と、彼が作業台に戻ろうとした、その瞬間だった。
彼の目の前、数メートル先の空間に、ゆらり、と、人の形をした影が現れた。
それは、半透明で、輪郭がぼやけている、痩せた男の姿だった。ニュースで見た、鈴木一郎の顔。その感情のない瞳が、じっと、伊東の手を見つめていた。
「ひっ……!」
伊東は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。金槌が床に落ち、甲高い音を立てる。
「お、お前は……鈴木……!なんで、ここに……」
悪霊は答えなかった。
ただ、その右手に、あの黒いノートを、音もなく現出させる。
そして、ページをめくる乾いた音が、伊東の頭の中に直接響き渡った。
一郎の平坦な声が、告解を強いるように、工房に木霊した。
「昭和六十三年二月三日。水曜日。天気、曇り。五時間目、美術の授業。俺は、お気に入りの六角形の鉛筆を使っていた。それを見つけた木村が、お前に言ったな。『おい、伊東。その汚え鉛筆、折ってやれよ』と」
伊東の脳裏に、忘却の彼方にあったはずの光景が、無理やり引きずり出されていく。
そうだ。そんなことがあった。自分は木村に逆らうのが怖くて、そして、彼の歓心を買いたくて、一郎から、その鉛筆をひったくったのだ。
「俺は抵抗した。『やめろ、これは大事なものなんだ』と。だが、お前は俺の手を振り払い、その鉛筆を両手で力を込めて、へし折った。パキリ、という乾いた音。俺の心が折れた音だ。お前は、その折れた鉛筆を俺の顔に投げつけ、そして、木村の方を向いて、得意げに笑っていた」
「あ……ああ……」
伊東は頭を抱えた。思い出した。全て思い出した。あの時の、一郎の絶望に満ちた顔。そして、自分の何と卑劣で、醜い笑顔だったことか。
「わ、悪かった!すまなかった!許してくれ!あの時は俺も、子供で……!」
彼は見苦しく、謝罪の言葉を並べた。
だが悪霊は、その言葉をせせら笑うかのように、ノートを閉じた。
「許しなど乞うな。お前のその手は創造するためだけにあるのではない。破壊し、踏みにじるためにも使われたのだ」
悪霊は伊東の隣、作りかけの息子のための本棚に、その冷たい視線を移した。
「お前が、その手で、俺のささやかな宝物を壊したように、俺も、お前の未来の宝物を壊してやろう。お前が最も誇りとしている、その手で、な」
そう言い残すと、一郎の姿は闇に溶けるように、かき消えた。
工房には元の木の匂いと静寂が戻ってきた。
しかし、伊東の心に刻み込まれた恐怖と、蘇った罪の記憶は、もはや消えることはなかった。彼は、その場で夜が明けるまで、ただ、ガタガタと震え続けることしかできなかった。
翌朝。
食卓に雄太の悲鳴が響き渡った。
「父さん!母さん!手が、俺の手が……!」
伊東がリビングに駆けつけると、そこには信じがたい光景が広がっていた。
雄太が自分の両手を見つめ、泣き叫んでいる。その父親譲りの、器用で、しなやかだったはずの手。その指先が、まるで凍傷にかかったかのように、どす黒く変色していたのだ。
「……そんな……」
伊東は絶句した。
病院に連れて行っても、原因は全くの不明だった。
「血流に異常は見られません。ですが末端の細胞が急速に壊死を始めています。現代医学では説明のつかない現象です」
医師は匙を投げるしかなかった。
壊死は止めようもなく、進行していった。
黒いシミは、指先から、手のひら、そして手首へと、まるで墨汁を吸い上げるように広がっていく。雄太の手は感覚を失い、やがて鉛筆一本、持つことすら、できなくなった。
家具職人になるという彼の夢は、彼の未来は、その両手と共に腐り落ちていった。
伊東は毎日、変わり果てていく息子の手を見て、地獄の苦しみを味わった。
これは罰だ。
三十数年前、自分が、あの少年にしたことへの、あまりに残酷で、正当な罰なのだ。
彼は誰にも、そのことを話せなかった。ただ一人、工房に閉じこもり、酒を煽り、自分の罪を呪い続けることしか、できなかった。
遠く離れた、忌澤村の祠。
その中で、桐の箱が、また一つ、新たな絶望を喰らい、その禍々しい脈動を、さらに、力強くした。
復讐の連鎖は、まだ終わらない。




