第17話 虚ろな告解
「ビー玉……?」
木村の口から漏れたのは、困惑と恐怖が入り混じった、かすれた声だった。冷たい水で無理やり覚醒させられた脳は、まだアルコールの霧に覆われている。手足の自由を奪われた状態で、目の前の男が発した、あまりに唐突な質問の意味を、彼は理解できずにいた。
「何の話だ……?てめえ、いったい誰なんだ!」
その反応に、鈴木一郎の心は絶対零度の静寂に沈んだ。
やはり覚えていない。
三十八年間、一日たりとも忘れることのなかった、地獄の始まりの日の記憶。この男にとっては、道端の石ころを蹴飛ばした程度の取るに足らない出来事だったのだ。
「そうか。覚えていないか」
一郎の声は感情の起伏を一切感じさせなかった。それは実験の結果を淡々と記録する、科学者の声だった。
「では思い出させてやろう。お前が、どれほどの罪を犯し、そして忘れてきたかを」
一郎は地面に這いつくばる木村の髪を無造作に掴み上げた。無理やり上を向かせ、その恐怖におののく瞳を真正面から覗き込む。
「あの日、お前は俺が祖母の形見だと言ったビー玉を奪い取った。そして俺の目の前で、笑いながら、それを溝に投げ捨てた。その時の、お前の顔。俺は今でもはっきりと覚えている」
「やめろ……!俺は知らん!そんなこと覚えちゃいねえ!」
木村は必死に首を振った。彼の脳裏には、そんな記憶の欠片も存在しなかった。ただ目の前の男の底なしの闇を湛えた瞳が、本能的な恐怖を呼び覚ますだけだった。
「そうか。では、これはどうだ」
一郎はポケットから、一本の、真ん中から無残に折れた鉛筆を取り出し、木村の目の前に突きつけた。
「お前は俺に、これを自分の指で折れと命じた。俺がためらっていると、お前は俺の指を掴み、無理やりへし折らせた。あの時の骨が軋むような感触と、お前の満足げな笑い声。それも忘れたか?」
「し、知るか!てめえの妄想だろうが!」
木村の絶叫が静かな公園に響き渡る。だが、その声は、助けを求めるには、あまりに弱々しかった。
一郎は構わずに続けた。その声は、まるで経文を読み上げるかのように淡々としていた。
「給食のカレーに砂を混ぜたこと。体育倉庫の裏で俺の顔に泥水をかけたこと。俺の教科書を全て破り捨て、焼却炉に投げ込んだこと。一つ、一つ、お前の罪を記録し続けたんだ。俺は、この三十八年間、片時も忘れた事はなかったぞ」
その言葉と共に、一郎は懐から錆びついた短刀を取り出した。月明かりを浴びて、その刃が鈍く、不気味な光を放つ。
「ひっ……!」
木村は息を呑んだ。殺される。この男は本気だ。
「ま、待ってくれ!金か?金が欲しいのか?俺にはもう、何もないが……家を売れば何とか……!だから、命だけは!」
彼は見苦しく命乞いを始めた。その姿は、かつてクラスの王として君臨していた男の見る影もなかった。
一郎は、その姿を冷たく見下ろした。
「金ではない。俺が欲しいのは、金などという汚らわしいものではない」
彼は短刀の切っ先を木村の喉元に、そっと当てた。ひやりとした金属の感触に、木村の体が大きく震える。
「俺が欲しいのは、お前の魂だ」
「何を……何を、言っている……?」
「お前は理解しなくていい。お前のような忘却の獣に、理解できるはずもない」
一郎は言った。
「お前は、ただ、俺の復讐を完成させるための、最後の部品になればいい。お前は生贄だ」
その時だった。
遠くから複数のサイレンの音が聞こえてきた。それは、夜の静寂を切り裂き、刻一刻と、この公園へと近づいてきていた。
「け、警察だ!助かった……!おい聞こえるか!もう、おしまいだ!」
木村の顔に、一瞬だけ希望の色が浮かんだ。
だが、一郎の表情は変わらなかった。
「ああ、そうだ。おしまいだ」
彼はサイレンの音を、まるで祝祭の始まりを告げるファンファーレのように聞きながら、短刀を握る手に力を込めた。
「この儀式には証人が必要でな。彼らには特等席で見届けてもらう」
やがて、公園の入り口に数人の人影が現れた。懐中電灯の光が乱暴に暗闇を切り裂き、二人の姿を照らし出す。
「動くな!警察だ!刃物を捨てろ!」
本田の怒声が響いた。
その声を合図に、一郎は動いた。
彼の動きは、もはや人間のそれではなく、目的のためだけに最適化された、機械のように素早く、そして正確だった。
彼は木村の命乞いの悲鳴を無視し、短刀を、その喉に、深々と突き立てた。
「ぐ……ぼ……」
木村の口から、赤い泡が溢れ、その瞳から、急速に光が失われていく。彼の体は、数回、痙攣した後、ぐったりと動かなくなった。
「てめええええ!」
本田たちが駆け寄ってくる。
だが、それよりも早く、一郎は、血に濡れた短刀を、自らの心臓へと向けた。
彼は刑事たちを一瞥し、そして、遠く、忌澤村のある西の空を見上げた。
その口元には、三十数年来の苦しみの終わりと、永遠に続く復讐の始まりを告げる、歪んだ、満足げな笑みが浮かんでいた。
彼は、ためらうことなく、その刃を自らの胸に突き立てた。
激しい痛みが全身を貫く。薄れゆく意識の中、彼は指先に残った木村の血で、地面に最後の言葉を書き記した。
『ゆるさない』
刑事たちが、彼の元にたどり着いた時、そこには二つの冷たくなっていく死体と、血で書かれた、消えることのない呪いの言葉だけが残されていた。
遠く離れた山奥で、祠に納められた桐の箱が、禍々しい光を放ち、静かに脈動を始めたことを、まだ誰も知らなかった。




