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怨嗟の記録  作者: かわさきはっく


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第16話 忘却の獣

 忌澤村いみさわむらの山を下りた時、鈴木一郎は、すでに半分、人ではなくなっていた。

 彼の魂の大部分は、あの苔むした祠の中に収めた桐の箱と共に、この世ならざるものへと変貌を遂げるための、静かな眠りについている。今、この街を歩いているのは、三十数年分の怨嗟を成就させるという、ただ一つの目的のためだけに動く、抜け殻に過ぎなかった。


 彼は再び都会の闇に紛れ、その存在を完璧に消した。彼の最後の標的、木村雄介が住む街へと、亡霊のように戻ってきた。


 木村雄介は廃墟の中に住んでいた。

 かつて、彼の成功の象徴だったはずのモダンな邸宅は今やその面影もなく、生命の光が消え失せたコンクリートの塊と化していた。庭の芝生は雑草に覆われ、窓ガラスには埃がこびりついている。妻は息子が退院してすぐに、慰謝料も要求せずに、ただ黙って彼の元を去っていった。一人残された息子は自室のベッドの上で、一日中、虚ろな目で天井を見つめているだけだ。


 会社は事実上倒産した。主要な取引先は全て離れ、優秀な社員は我先にと逃げ出していった。残ったのは膨大な負債と、差し押さえを待つだけの、がらんどうのオフィスだけ。木村は、その全てから目を背けるように酒に溺れた。朝から安物の焼酎を煽り、意識が朦朧とするまで飲み続ける。そして夜になれば、人気のない安酒場へと亡霊のようにふらつき出ていく。それが彼の、今の日常だった。


 一郎は、その廃墟の王を、闇の中から静かに観測していた。

 儀式は、すでに始まっている。遠く離れた祠に捧げられた、怨念の記録。あれは、呪いの発信源であり、増幅装置でもある。あとは二つの魂が、この世から同時に消え去ること。それだけで呪いは成就し、永遠に続く復讐が完成する。


 計画の実行は木村が毎夜通う、場末の酒場で行われた。

 一郎は薄汚れた作業着に身を包み、その酒場のカウンターの隅に、数日前から陣取っていた。彼は、ただ黙って、水割りを舐めるように飲んでいるだけ。その存在は、店の薄暗い照明の中に、完全に溶け込んでいた。


 その夜も、木村は亡霊のような足取りで店に現れた。カウンターの定位置に座り、食事はとらずに焼酎を注文する。彼の目は虚ろで焦点が合っていない。もはや、周囲の人間を認識する能力すら失われつつあるようだった。


 一郎は静かに席を立った。そして、ごく自然な動きで、木村の隣のスツールに腰を下ろした。

「……久しぶりだな、木村」

 一郎は、かすれた声で言った。


 木村は、ゆっくりと、億劫そうに顔を上げた。そして、隣の男の顔を値踏みするように無遠慮に眺めた。

「……あぁ?誰だ、あんた」

 その声には何の感情もこもっていない。ただ自分の時間を邪魔されたことへの、かすかな苛立ちだけが滲んでいた。


「俺だよ。鈴木だ。鈴木一郎。中学の時、同じクラスだったろう」

 一郎は平静を装って言った。彼の心の中では、三十数年分の憎悪が、マグマのように煮えたぎっていた。この男は覚えていない。俺の顔も、名前も、自分がしてきたことの何一つ。


「すずき……?」

 木村は、しばらくの間、記憶の引き出しを探るような素振りを見せたが、すぐに興味を失ったように、ふいと顔を背けた。

「……ああ、そうか。で、何の用だ。俺は昔の話なんぞに付き合っている暇はねえんだ」


 その反応は一郎の計算通りだった。そして彼の最後の人間性のかけらを、完全に消し去るには、十分すぎるほどの侮辱だった。

「まあ、そう言うなよ。せっかく会えたんだ。景気づけに、一杯おごらせてくれ」

 一郎は店主に声をかけ、この店で一番高い、プレミアものの焼酎のボトルを注文した。埃をかぶったボトルが、カウンターに置かれる。

「おいおい、大盤振る舞いじゃねえか。何か良いことでもあったのか?」

 木村が初めて興味を示したように、にやりと笑った。


「ああ、長年の夢が、もうすぐ叶うんでな」

 一郎は二つのグラスに、琥珀色の液体をなみなみと注いだ。

「さあ、飲め。今夜は俺のおごりだ。だが飲みきれなかったら、残りは俺がもらうぞ。お前も落ちぶれたとはいえ、元社長だ。俺みたいな日雇い労働者に、酒くらい負けないだろう?」

 その言葉は木村のかつてのプライドを、的確に、そして悪意をもって刺激した。


「……面白い。上等じゃねえか」

 木村はグラスを掴むと、一気にそれを煽った。喉が焼けるような感覚。しかし、それ以上に、見知らぬ同級生(と名乗る男)に見下されたことへの怒りが、彼の体を熱くさせた。自暴自棄な生活を送る彼にとって、もはや失うものは何もない。彼は一郎の挑発に乗り、普段よりも遥かに早いペースで酒を飲み進めていった。


 ボトルが半分ほど空になった頃には、木村の呂律は完全にあやふやになり、焦点の合わない目で、意味の分からない自慢話や、世間への悪態を吐き続けていた。そして、ついに最後のグラスを空にした瞬間、彼の意識は、ぷつりと糸が切れるように途絶えた。彼はカウンターに突っ伏したまま、深い眠りに落ちてしまった。


 店主も、数少ない他の客も、「またか」という顔で、その無様な姿を一瞥しただけだった。

 一郎は、その隙を見逃さなかった。

「おい、木村、しっかりしろ。俺が家まで送ってやる」

 彼は周囲に聞こえるように言うと、ぐったりとした木村の体を、小柄な自分の肩に担ぎ上げた。そして会計を済ませると、まるで親切な友人を介抱するように、ごく自然に、二人で店を出た。


 夜の冷たい空気が二人の体を包み込む。

 一郎は木村を引きずるようにして、裏路地の闇へと消えていった。彼の目的地は酒場から数分歩いた場所にある、忘れ去られたような小さな公園だった。錆びついたブランコと、草むした砂場があるだけの、夜には誰も寄り付かない場所だ。


 公園の最も暗い、街灯の光が届かないベンチの裏で、一郎は木村の体を地面に転がした。そして作業着のポケットから取り出した、丈夫なビニール製の結束バンドで、彼の両手両足を、素早く、確実に拘束していく。


 全ての準備を終えると、一郎は持っていたペットボトルの水を木村の顔に容赦なく浴びせかけた。

「ぐっ……!ごぼっ……!」

 冷たい水と、窒息しそうな感覚に、木村は獣のような呻き声を上げて、無理やり意識を取り戻した。

「……な、何だ……ここは……?てめえ何しやがった!」

 手足の自由が利かないことに気づき、木村はパニックに陥った。


 一郎は、その狼狽する男の前に、ゆっくりとしゃがみ込んだ。

 月明かりが、彼の能面のような顔を青白く照らし出す。

「目を覚ましたか、木村」

 その声は先ほどまでの人の良さそうな同級生のものではなかった。それは地獄の底から響いてくるような、冷たく重い声だった。


「お前に、一つ、聞きたいことがある」

 一郎は、拘束され、地面を這うことしかできない男の顔を覗き込んだ。

「三十八年前、お前が俺から奪ったビー玉のことを覚えているか?」


 忘却の獣の最後の夜が静かに始まった。

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