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怨嗟の記録  作者: かわさきはっく


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第15話 鬼の道行き

 鈴木一郎の体は夜の冷たい空気を切り裂いた。

 窓枠を蹴って隣のビルへと飛び移る。その動きには、五十代半ばの男とは思えぬ、長年鍛錬を積んだ獣のような正確さがあった。彼の計画において、この逃走経路は、何度も、何度も、脳内でシミュレーションを繰り返してきた、いわば体に染みついた定型動作だった。


 着地の衝撃を膝で殺し、彼は身を屈めたまま、非常階段を駆け下りる。階下からは刑事たちの怒声や、慌ただしい無線連絡の音が聞こえてくるが、それらはすでに、彼にとっては遠い世界の響きに過ぎなかった。彼は胸に抱いた桐の箱を決して離さない。これこそが彼の魂であり、彼の存在理由そのものだった。


 路地裏の闇に身を溶かすと、一郎は、まるで生まれた時からこの街の影として生きてきたかのように、淀みなく、音もなく移動を開始した。監視カメラの死角、人通りの途絶える裏道、フェンスの破れ目。その全てが彼の頭の中の地図には、光る線となって示されている。彼は現代社会が張り巡らせた監視の網を巧みにすり抜けていく。


 数ブロック離れたコインロッカー。そこで彼は、あらかじめ用意しておいた、登山用のバックパックを取り出した。中には数日分の食料と水、現金、そして、古びた地図が入っている。彼は着ていた服をその場で脱ぎ捨て、地味な作業着に着替えると、再び闇の中へと消えた。鈴木一郎という人間が、この街にいた痕跡は、今、この瞬間、完全に消え去った。


 その頃、本田宗一郎は、一郎のアパートの部屋で呆然と立ち尽くしていた。

「……もぬけの殻、か」

 部屋は異常なほどに清潔だった。まるで誰も住んでいなかったかのように、生活の痕跡が一切ない。指紋一つ、髪の毛一本すら残されていなかった。鑑識の報告によれば、部屋全体が特殊な薬品で丁寧に拭き上げられているという。


「奴は我々が来ることを完全に予測していた。これは衝動的な逃走じゃない。何年も前から準備された計画の一部だ」

 本田は苦々しく呟いた。壁には家具が置かれていた跡すらない。まるで、この部屋そのものが、鈴木一郎という男が演じた、巨大な舞台装置だったかのようだ。

「化け物め……」

 本田の脳裏に卒業アルバムの、あの硬い表情の少年が浮かんでくる。あの少年が、三十数年の時を経て、これほどまでに冷徹で、周到な復讐者へと変貌を遂げたというのか。その執念の深さに、本田は刑事としてではなく、一人の人間として、底知れぬ恐怖を感じていた。


 捜査は完全に行き詰まった。

 鈴木一郎という男は、日本のどこにも、その痕跡を残さずに消えた。交通機関の利用履歴も、金融機関の出金記録も、何一つ見つからない。彼は、まさにゴースト、亡霊そのものだった。


 その亡霊は夜を徹して西へ、西へと移動を続けていた。

 彼は電車も、バスも使わない。夜は歩き、昼は、あらかじめ調べておいた廃屋や、山の洞穴で獣のように息を潜めて眠った。彼の五感は極限まで研ぎ澄まされ、人の気配を敏感に察知し、それを避けて、鬼の獣道だけを選んで進んでいった。


 数日が過ぎ、彼は目的地の県境にそびえる、鬱蒼うっそうとした山脈の麓にたどり着いた。

 そこは近代化の波から取り残された、時間が止まったような場所だった。携帯電話の電波も、ここでは届かない。彼はバックパックから取り出した古地図と、方位磁石だけを頼りに、険しい山道へと足を踏み入れた。


 地図に記されている彼の目的地。その名は、「忌澤村いみさわむら」。

 かつては独自の信仰を持つ人々が暮らしていたが、今では地図からもその名を消された廃村だ。彼が古文書の中から見つけ出した、あの怨嗟の儀式が執り行われていた場所。


 山道は人が通らなくなってから久しいようだった。倒木が道を塞ぎ、熊笹が人の背丈ほども生い茂っている。一郎は鉈で草を払い、道なき道を進んでいく。彼の顔に疲労の色はない。むしろ目的地が近づくにつれて、その瞳は内側から発光するような、異様な輝きを増していった。


 丸一日、山中を歩き続けた頃、不意に視界が開けた。

 山の斜面に、へばりつくようにして、数軒の朽ち果てた家屋が点在している。屋根は崩れ落ち、柱は傾き、自然に還ろうとしている村の残骸。ここが忌澤村だった。


 空気が違う。

 麓とは明らかに、空気の密度と温度が違っていた。まとわりつくような湿った冷気。そして完全な静寂。鳥の声も虫の音すら聞こえない死の世界。


 一郎は村の中心へと、ゆっくり足を進めた。

 そして彼は、それを見つけた。

 村を見下ろす小高い丘の上。巨大な岩に半ば埋もれるようにして、それはあった。

 古びた、小さな祠。

 屋根は苔むし、扉は赤黒い錆に覆われた太い鎖で、固く閉ざされている。祠の周囲だけ、まるで時間が止まっているかのように、草一本生えていない。


 ここだ。

 ここが彼の最後の舞台。

 彼が人間であることをやめ、怨念そのものへと変貌を遂げるための、聖域。


 一郎は祠の前にひざまずくと、まずその扉にかけられた、古びた鎖に手をかけた。赤黒い錆がぼろぼろと剥がれ落ちる。彼は全身の力を込め、その鎖を捻じ切るように引いた。ぎりり、と金属が軋む音が静寂に響き、やがて何百年もの時を経て脆くなった鎖は鈍い音を立てて断ち切れた。

 ゆっくりと軋む扉を開く。祠の内部は完全な闇だった。ひやり、とした、氷のような冷気が、無数の怨念と共に中から溢れ出してくる。

 彼は胸に抱いていた桐の箱を、まるで祭壇に供物を捧げるかのように、その闇の中心へと、そっと収めた。


 一郎は立ち上がると、祠の周囲を歩き回り、儀式の準備を始めた。

 彼はバックパックから、いくつかの道具を取り出した。動物の骨、呪文が書かれた古い和紙、そして、一本の、錆びついた短刀。これらも全て、彼が長年の調査の末に、古物市やインターネットの闇の中から手に入れたものだ。


 日は、すでに西の山に傾きかけていた。

 森の闇がゆっくりと村を飲み込んでいく。

 一郎は最後の準備として、祠の前に円を描くように、すり潰した動物の骨を撒いた。


 これで舞台は整った。

 あとは最後の役者、主役であり、生贄でもある男を、この舞台へと引きずり出すだけだ。


 一郎は懐から一枚の写真を取り出した。

 木村雄介。

 その憎むべき顔を、彼は無感情に見つめた。

 そして、その写真を祠の扉の前に置くと、彼は山を下り始めた。


 狩りの時間が始まる。

 鬼の道行きは、まもなく、その終着点を迎えようとしていた。

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