第14話 追跡者
鈴木一郎が仕掛けた最後の復讐劇は世間を大きく揺るがした。「稀代の詐欺師、偽りの資産家に騙され破滅」という見出しが、週刊誌のけばけばしい表紙を飾った。高橋雄一に全財産を奪われた老人たちは、テレビカメラの前で泣き崩れ、裏切り者を罵り、あるいは、ただ呆然と空を見上げていた。二十億円という巨額の金は、その痕跡を完全に消し、事件は巨大な虚無感だけを残して、迷宮入りになるかと思われた。
しかし、その虚無の底を執拗に覗き込む男がいた。
警視庁捜査二課の刑事、本田宗一郎。五十歳を過ぎ、くたびれたスーツと、眉間に刻まれた深い皺がトレードマークの古いタイプの刑事だった。彼は、この一見すると派手な詐欺事件の裏に、もっと深く、暗い何かがあることを、長年の経験からくる嗅覚で感じ取っていた。
「相川正輝はゴーストだ」
捜査会議で本田は断言した。彼の部下たちが集めてきた情報を指でなぞりながら続ける。
「戸籍も住民票もパスポートの記録も存在しない。奴が使っていた銀行口座は全て海外のサーバーを経由した、使い捨てのものだ。まるで、この事件のためだけに、忽然と現れ、そして消えたように」
「これは単なる詐欺事件じゃない。高橋雄一という男個人に対する、極めて計画的で、執拗な復讐だ」
本田の直感が、そう告げていた。二十億円もの金が跡形もなく消え、しかもその一部が慈善団体に寄付されている。金儲けが目的なら、こんな手の込んだ真似はしない。これは高橋への社会的な死刑宣告だ。
「高橋の過去を洗え!奴が今までに関わった詐欺事件、被害者のリストを根こそぎ洗い直すんだ!この復讐劇を仕組んだ人間は、必ずその中にいる!」
本田の号令一下、部下たちは高橋が過去に「田中誠」と名乗っていた頃の事件ファイルまで掘り返し始めた。被害者のリストは数十人に及んだ。そのほとんどが、少額の金を騙し取られ、泣き寝入りした老人たちだった。
本田は、そのリストを、一人、また一人と、丹念に目で追っていった。そして、一つの名前に彼の指が止まった。
「鈴木一郎……」
被害額、三百万円。他の被害者と比べて、決して大きな額ではない。だが資料の片隅に記された、当時の担当刑事によるメモが、本田の目を引いた。
『被害者は両親の遺産を全て失う。事情聴取の際も、感情を見せず、ただ一点を見つめていた姿が、不気味なほど印象に残る』
全てを失った男。感情を見せない不気味な男。
本田の脳裏で、ゴーストである相川正輝の、掴みどころのない人物像と、鈴木一郎の姿がピタリと重なった。
「……いたぞ」
本田は低い声で呟いた。
「復讐者の正体は、こいつだ。相川正輝は、この鈴木一郎が作り出した亡霊に違いねえ」
本田の推理は、もはや確信に変わっていた。十五年の時を経て、詐欺師に復讐を遂げた被害者。物語としては、出来すぎている。だが現実とは、時として出来すぎた物語よりも奇妙なものだ。
「鈴木一郎の現在の身元を洗え!どんな些細な情報でもいい、今すぐだ!」
本田の号令一下、捜査は一気に加速した。
その頃、鈴木一郎は自室で静かに身辺整理を始めていた。
テレビのニュースも、新聞も、彼が起こした事件の顛末を面白おかしく報じている。警察が相川正輝という架空の人物の捜査に全力を挙げていることも。彼は、その全てを、まるで他人事のように眺めていた。
彼の計画に警察の存在は最初から織り込み済みだった。復讐に大きな仕掛けを用いれば、いずれ追跡の手が伸びてくることは分かっていたのだ。だが、それ自体は問題ではなかった。彼が恐れるのは罪に問われることではない。復讐が未完のまま終わることだ。
一郎は部屋にあるものを、一つ、また一つと、ゴミ袋に詰めていった。数少ない衣類、食器、そして窓際にあった観葉植物。この部屋に鈴木一郎という男が生きていた痕跡を全て消し去るための作業だった。
最後に残ったのは箪笥の上の両親の遺影と、あの桐の箱だけだった。
彼は遺影を手に取り、その穏やかな笑顔をじっと見つめた。
「父さん、母さん。長らくお待たせしました。もうすぐ全てが終わります」
彼は遺影を丁寧に布で包むと、桐の箱の隣に置いた。
そして、彼は箱の中から最後のノートを取り出した。
それは、今までの一冊とは明らかに趣が違っていた。表紙には何も書かれていない。中を開いても、そこはまだ、真っ白なままだった。
これは彼の最後の記録。
そして彼自身が、この世から消え去るための設計図となるべきものだった。
――忌澤村の鬼伝説
一郎が、なぜ、荒唐無稽な伝承を信じているのか。その根拠は十数年前に遡る。
高橋に全てを奪われ、両親の死という絶望を味わった後、彼は人間としての復讐の限界を悟った。そして、彼は古文書や地方の伝承の中に、その活路を見出そうとしたのだ。国会図書館の薄暗い書庫に通い詰め、忘れ去られた村の郷土史を読み漁り、彼は、ついに「忌澤村」の鬼伝説に行き着いた。
『人を呪わば穴二つ。されど我が身を贄と捧げ、怨嗟の全てを鬼火と成せば、その理を超越す』
普通の人間なら一笑に付すような迷信。しかし彼は、その記述の裏付けを取るため、一人、忌澤村へと向かったのだ。
そこで彼は体験した。
古びた祠の赤黒い錆に覆われた鎖に触れた瞬間、彼の脳内に無数の苦しむ人々の声が、濁流のように流れ込んできたのだ。それは何百年もの間、この場所に封じ込められてきた無数の怨念の残滓。そして、その、おびただしい数の絶叫の中に、彼は、はっきりと名前を聞いた。
『……キムラ……サトウ……許すべからざる……』
それは彼を最も苦しめた二人の男の名前だった。
その瞬間、一郎は確信した。この祠は本物だ。この場所は自分のような、強い怨念を持つ魂と共鳴するのだ、と。
その日以来、彼の計画に一切の迷いはなくなった。
一郎は机に向かうと、その白いページに震えのない文字を書き込み始めた。
彼が十数年前に確信を得た、あの怨嗟の儀式に関する詳細な手順書。
そして、生贄、木村雄介を死に場所へと誘う、最後の脚本を。
その時だった。
一郎の研ぎ澄まされた聴覚が、アパートの階下で、複数の車が停まる微かな音を捉えた。
そして複数の男たちが、足音を殺しながら階段を上がってくる気配。
(……来たか)
一郎の口元に笑みともつかぬ、僅かな歪みが浮かんだ。
思ったよりも早かった。だが、それもまた計算の内だ。
彼は書き終えたばかりのノートと、両親の遺影を素早く桐の箱に収めると、南京錠をかけた。そして、その箱を、まるで赤子を抱くように大切に胸に抱えた。
彼は窓の外を見た。隣のビルの屋上へと続く非常階段。それが唯一の逃走経路だった。
玄関のドアが乱暴にノックされる。
「警察だ!鈴木一郎さん、いるのは分かっている!大人しく出てきなさい!」
本田の野太い声が響き渡った。
その声を合図に、一郎は窓の鍵を開けた。
そして、ためらうことなく、身を翻し、夜の闇へとその身を躍らせた。
人間としての鈴木一郎の最後の夜。
そして、彼が、人ならざるものへと変貌を遂げる、長い夜の始まりだった。




