第13話 虚飾の収穫
高橋雄一は神になった気分だった。
鈴木一郎(相川正輝)から「プロジェクト・キマイラ」の全権を委任されてからの一ヶ月、彼はかつてないほどの高揚感と全能感に包まれていた。彼の言葉は今や信者たちにとって神の託宣そのものだった。
「これは、ただの投資ではない。我々が歴史の創造主となるための、聖なる戦いだ!」
ホテルのスイートルームで開かれる「勉強会」は、もはや宗教的な集会の様相を呈していた。高橋は、一郎から預かった「偽りの聖遺物」のコピーを信者たちに見せ、その壮大な物語を熱っぽく語った。AIが自己進化し、不治の病を克服する。その最初の支援者となる栄誉。そして、その対価として約束される億万の富。
老いた信者たちは、その甘い毒に喜んで身を委ねた。彼らは、なけなしの退職金を解約し、先祖代々の土地を売り払い、子供たちに内緒で保険を現金化した。高橋という名の救世主が、自分たちを輝かしい未来へと導いてくれると、固く信じていたからだ。
金は面白いように集まった。一人、また一人と、人生の全てを高橋の前に差し出してくる。その総額は高橋自身の全財産と、一郎が用意したとされる架空の資産を合わせ、二十億円という莫大な数字にまで膨れ上がっていた。
一郎は、その過程をただ静かに、臆病な資産家・相川正輝として見守っていた。彼は高橋の指示通りに、いくつかの書類にサインをし、実印を押した。スイスに設立されたという、ペーパーカンパニー「キマイラ・ジェネティクスAG」の、名目上の筆頭株主になるための手続きだった。もちろん、その会社も、関連する銀行口座も、全ては一郎が何年も前から、インターネットの深層に張り巡らせておいた、巨大な蜘蛛の巣の一部に過ぎなかった。
高橋は、そんな一郎の頼りなげな姿を見て、心の底で嘲笑していた。世間知らずの馬鹿な老人。亡き妻の遺産を持て余し、その価値すら理解できない哀れな男。この男の全てを自分が支配している。その優越感が彼の理性を麻痺させていた。彼は自分が巨大な罠の、まさに中心にいることに気づくはずもなかった。
そして全ての資金が指定されたスイスの銀行口座へと送金された、その日の夜。
高橋は、一郎を再び銀座の高級クラブの個室へと招いた。
「相川様、ついにやりましたよ」
高橋は最高級のシャンパンのボトルを抜きながら、恍惚とした表情で言った。
「我々の、いや、あなたの夢が、今、まさに現実になろうとしています。この二十億円が、一年後には二千億円になる。我々は歴史に名を刻むのです!」
彼はテーブルの上に置いたノートパソコンを開き、得意げに一つの画面を一郎に見せた。それは、スイスの銀行のものとされる、オンラインバンキングの画面だった。そこには確かに莫大な数字の残高が表示されている。
「ご覧ください。これが我々の勝利の証です」
一郎は、その画面を老眼鏡の奥から、瞬きもせずに見つめていた。
その瞳には何の感情も映っていない。
彼は、ゆっくりと顔を上げ、高橋を見た。そして今までとは全く違う、低く冷たい声で言った。
「……その画面を更新してみろ」
「え?」
高橋は、一郎の突然の変化に、一瞬戸惑った。声のトーンが違う。目の光が違う。目の前にいるのは、あの臆病で人の良い相川正輝ではない。まるで死神のような冷え切った何かだった。
「何を、おっしゃって……」
「更新しろ、と言っているんだ。F5キーを押せ」
一郎の声には有無を言わせぬ絶対的な圧があった。
高橋は訳が分からないまま、何かに憑かれたように、ノートパソコンのF5キーを押した。
画面が一瞬だけ白く点滅する。
そして、次に表示された光景に、高橋は自分の目を疑った。
残高を示す数字が変わっていた。
『CHF 0.00』
スイスフランの残高がゼロになっている。二十億円という莫大な数字が跡形もなく消え去っていた。
「な……なんだ、これは……?バグか?システムのエラーか……?」
高橋の顔から血の気が引いていく。彼は震える指で、何度も、何度もF5キーを叩き続けた。しかし表示されるのは無慈悲なゼロの羅列だけだった。
「エラーではない」
一郎の声が部屋に響き渡った。
「それは最初から、そこにはなかったからだ。お前が見ていたのは、俺が作った、ただの幻だ」
一郎は、ゆっくりと立ち上がった。彼は白髪交じりのウィッグを外し、老眼鏡をテーブルに置いた。その顔つき、その姿勢は、もはや相川正輝のものではなかった。それは、二十年来の憎悪をその身に宿した復讐者・鈴木一郎の姿だった。
「……誰だ、お前は……?」
高橋は椅子からずり落ちるようにして後ずさった。目の前の男が理解できない。恐怖が彼の脊髄を駆け上がってくる。
一郎は高橋を見下ろしながら静かに語り始めた。
「二十一年前の、三月五日を覚えているか」
その言葉に、高橋の記憶の扉が軋みながら開いていく。
「未来アセットコンサルティングの田中誠。お前は、そう名乗っていたな」
高橋の顔が絶望に歪んだ。思い出した。あの時の三百万円しか持っていなかった、哀れな男。まさか。ありえない。
「お前は俺から全てを奪った。金だけではない。人を信じようとした最後の心も、両親が遺してくれた最後の温もりも。あの夜、高熱に浮かされながら、俺が何を誓ったか、お前に分かるか?」
一郎は一歩、高橋に近づいた。
「俺は誓った。いつか必ず、お前が最も信じ、最も価値があると思っているものを、お前の目の前で根こそぎ奪い取ってやる、と。お前が俺にしたのと、全く同じ方法でな」
「やめろ……やめてくれ……」
高橋は子供のように首を振り、耳を塞いだ。信じたくなかった。自分の完璧な計画が、この男一人の、二十年越しの復讐のためだけに、仕組まれたものだったなどと。
「金はどこへやった!あの金は俺の……俺たちの金だぞ!」
「金はもうない」
一郎は冷たく言い放った。
「お前が他の老人たちから巻き上げた金は全て、匿名で世界中の慈善団体に寄付しておいた。お前が最も軽蔑していた、弱者を救うためにな。お前の金は、この復讐劇の舞台装置を整えるために、ありがたく使わせてもらった。残ったのは、お前自身の莫大な借金だけだ」
高橋は、ついに全てを理解した。
彼は嵌められたのだ。自分が獲物だと思っていた男に、逆に、完璧に捕食されたのだ。
「ああ……あああああああ!」
獣のような絶叫が豪華な個室に響き渡った。彼は自分の髪をかきむしり、床を転げ回った。信者たちの顔が次々と脳裏に浮かんでくる。彼らは今頃、自分たちの全財産が消えたことを知り、血眼になって、裏切り者である自分を探しているだろう。社会的な死。いや、それ以上の、生きたまま地獄を味わう未来が彼を待っていた。
一郎は、その無様な姿をただ冷たく見下ろしていた。
そして、彼が最後に見た高橋の顔を脳裏のノートに焼き付けると、静かに部屋を後にした。
自室に戻った一郎は、桐の箱から、『記録 No.31』を取り出した。
そして赤インクの万年筆で、その最後のページに震えのない文字を刻んだ。
『一月二十八日(月)。高橋雄一の全資産の剥奪、及び社会的信用の完全な失墜を確認。計画第四段階、完了』
これで、人として実行すべき復讐は全て終わった。俺が味わったどん底をお前らも噛みしめるといい。だが、それで終わりだと思うな。本当の絶望はその先にあったと、必ずわからせてやる。必ずだ。




