王女の駆け落ち1
その日は朝から、なんだか嫌な予感がしていたのだ。
私は王宮の端の小さな離宮に住んでいる。母と妹といつも通り朝の紅茶をいただいていると、テーブルの上の花瓶が急に真っ二つに割れた。
テーブルが水浸しになり、美しく活けられた薔薇が散らばる。母と妹は無事だったが、私のドレスはこぼれた水でぐっしょり濡れてしまった。
「まぁ!ラピス、怪我はない?」
「大丈夫ですわ、お母さま。ドレスが少し濡れてしまっただけ」
控えていたメイドがすぐにやってきて、私は部屋に戻る。メイドは本当に申し訳なさそうに、私に頭を下げた。
「申し訳ございません、ラピス様。花瓶など割れるものは不備がないかいつも点検しているのですが、見落としがあったようです」
「いいのよ。ドレスが濡れただけだわ」
「今後はこのようなことがないように、気を付けますので…」
そう言っていたのにドレスを着替えて戻ると、今度はカップの持ち手がぽろりと落ち、紅茶がかかってしまったのだ。
「あつ…っ、」
カップには当然、熱い紅茶が入っている。私は足に少しだけ火傷をしてしまった。
これにはさすがに気の優しい母も怒ってしまう。
「なんてこと…!ラピスに火傷の痕でも残ったら……!」
私は急いで部屋に戻って火傷の痕を冷やされたが、その間も動転した母がメイドに詰め寄る声が聞こえていた。
メイドは震える手で私の足を冷やし続けている。
「もう熱くないわ」
「いえ、ラピス様。痺れるほどに冷やさなければ痕が残ってしまいます。どうか辛抱してくださいませ」
痕が残ったら、メイドが叱られ、最悪何かの罰を受けてしまう。私は大人しく足を冷やされ続けた。
*
「本当に、今日は朝からさんざんだったわね、ラピス。もう痛みはない?」
「痛みませんし、侍医が軟膏をくださいましたわ。毎日塗れば、痕も残らないと言っていました」
「そう。それならいいけど」
午後になって、母は私を見舞いにやって来た。
「メイドをあまり叱らないでやってくださいましね、お母さま」
「本当に、あなたは優しい子ね。でも、本当にびっくりしたわ」
母付きのメイドが、うまく宥めたのだろう。私はほっと息をついた。
「午後はローズお姉さまのところに行く予定だったのですが…」
「今日はやめておいたほうがいいわ。もし万が一、足がまた痛んだら困るもの」
「まぁ。お母さまったら……」
母のあまりの心配ぶりに、私は苦笑した。大事にされているということだろうけど…。
「し、失礼します!」
談笑していた私の部屋に、不自然なほど大きな声が響いた。しかも、離宮のメイドの声ではなく男性の声だ。離宮には普段男性はおらず、いるとしたら誰かから遣わされたということになる。
母は眉根を寄せた。
「そうぞうしいこと。何事かしら?」
「陛下のお召しでございます!すぐに、王族の方は皆、本宮へ」
「すぐに…ですって?」
「はっ、速やかにとのことでございます!」
「まぁ…たいへん」
また足が痛んだら、なんて話ではない。
陛下が速やかに、などと言って私たちを呼んだことは今まで一度もない。
メイドたちが慌ただしく動き始めた。母はともかく、私は怪我をして今日は部屋から出ないつもりだったので、陛下にお会いできるような服ではない。髪も簡単に、ひとつに結っているだけだ。
最低限身だしなみを整えて、私たちは慌ただしく本宮へと向かうことになった。