従者、フェンリル
新たな身体に慣れないまま、私は深い森をさまよっていた。
吸血姫──そう名乗ることすらまだ馴染まないこの姿は、人型でありながら、どこか人とは違う冷たい気配を漂わせている。
けれど、それ以上に問題なのは──空腹、だった。
「……何か、食べたい」
声に出して呟くと、自分の言葉が妙に生々しく聞こえて笑ってしまった。
スライムだった頃は味覚も嗅覚もなかった。食事はただの行為に過ぎず、満たすべきものもなかった。
だが今は違う。この身体は飢える。喉が渇き、腹が減る。
──そして、それを満たす術を私は持っていた。
「肉食系モンスターでも狩るか」
呟いた瞬間、私の意識が広がっていく。まるで何年も使い慣れた道具のように、魔力が自然と集まり、探知魔法が発動された。
森の中に潜む気配が、微細な波紋のように脳裏に広がってくる。
「……あっちか」
私は木々の間をすり抜けるようにして進み、獲物に辿り着くと、素早くその喉元を貫いた。吸血鬼の膂力と爪は、スライムだった頃の自分では到底想像もできなかったほど鋭く、そして強い。
狩ったのは、筋肉質なイノシシのような魔獣だった。
その肉を炙って口に運ぶと、噛み締めるたびに溢れる旨味が身体中に染み渡っていく。
「……やはり肉は美味だ」
思わず頬が緩んだ。食事がこれほど幸せなものだったとは。
私は満足するだけでなく、保存用にいくつかの肉を加工し、魔力で保冷する簡易結界を張って貯蔵した。
狩りを続け、食料を確保していたときのことだった──
倒木の陰で、血を流して倒れている一匹の狼を見つけた。
その身体には深い裂傷があり、息も荒い。モンスターとはいえ、今にも命が尽きそうな様子だった。
「……初対面だけど、放ってはおけないな」
私はそっとその傍にしゃがみ込み、手をかざす。治癒魔法を発動すると、柔らかな光が傷口を包み込み、肉がゆっくりと再生していく。
「しばらくしたら歩けるようになるよ」
聞こえていないことは分かっていた。けれど、言わずにはいられなかった。
立ち上がり、その場から背を向けて立ち去ろうとしたとき──
「──助けてもらって悪かったな」
静かな森に、不意に声が響いた。私はハッとして振り返る。
辺りには誰もいない。あるのは倒れた狼だけ。
まさか、と思いながら目を凝らすと──
「やっと気付いたか。鈍いな、吸血姫よ」
「……狼さん、喋れるの?」
「我は狼などという小物ではない」
負傷していたその存在が、すっくと立ち上がる。
銀白の毛並みは光を反射してきらめき、黄金の瞳は知性と誇りに満ちていた。
「名乗ろう。我は《フェンリル》──古より森に君臨する者」
「……フェンリル?」
その名に、私は自然と背筋を正していた。伝説級の魔獣。その中でも、フェンリルといえば神話に語られる災厄の象徴。
「恩を返そう。我と契約しないか?」
「契約?」
「その血、只者ではない。お前は……吸血鬼、それも高位の存在だろう。互いに力を高め合う存在として、我は主を認めよう」
──フェンリルに、従者としての契約を申し込まれた。
その問いに、私は迷うことなく答えた。
「……分かった。契約する」
私は手首を噛み、自らの血を垂らす。それがフェンリルの口元に落ちると、空気が震えた。
彼の身体が光に包まれ、傷は完全に癒え、毛並みはさらに輝きを増した。
「──これは、素晴らしい……力がみなぎってくる……!」
フェンリルの声には、喜びと敬意が滲んでいた。
そしてその横顔を見つめながら、私は静かに微笑んだ。
「良かった」
こうして私は、最初の従者を得た。
──この日から、ミルティアとフェンリルの旅が始まる。
まだ知らない、この世界のすべてを知るために。