【続き】姉のやらかしの尻拭いをさせられる第三王女は、強制的に姉の元婚約者と婚約させられる
一年もあいていしまいました。
リンデルは現在雨期に入っている。
その日も朝から雨が降っていたため、それまでは外で行うことの多かった中庭でのお茶会は、最近はもっぱら室内で済ませることが多い。
今日ももらったお菓子を美味しく平らげた後、私はフィリップ様にあることを願い出た。
「はぁ、ふわふわで気持ちいい。幸せです……」
横向きになったフィリップ様の頭を膝の上に乗せ、私は彼の髪を存分に堪能していた。
特にこんな雨の日は、湿気のせいかいつも以上にくるんとなっていて、それが更にふわふわ感を増している。
「……確かにいつでも触っていいとは言ったが」
ご機嫌な私とは反対に、ソファに横たわるフィリップ様の声はどこか不満げだ。私は慌てて手を止める。
「もしかして私の触り方が嫌でした? 一応、髪に指に絡んであなたが痛い思いをしないように、注意はしてたんですけど」
「嫌じゃない。むしろ気持ちいい」
「じゃあなんでそんなに不満そうなんですか」
「いい加減壁を見続けるのに飽きたんだよ」
そう言って、横向きだった態勢をごろりと変え、仰向けになる。
「せめて顔が見たい」
「……分かりました」
さっきの方がたくさんもふもふできたけど、仕方がない。
手の動きを再開させまたしばらく触感を楽しんでいたら、じっとこちらを見上げていたフィリップ様が、ふっと笑う。
「なんですか? 急に笑って」
「いや、お前がえらく嬉しそうな顔で触ってるから。そんな顔を見られるなら、雨の日は面倒だがこの髪も悪くないなと」
「だって本当に気持ちいいんですよ」
その後も私は飽きもせず彼の髪に触れていると、フィリップ様がおもむろに口を開く。
「もうすぐ雨期も終わる。そうしたら、一緒に出掛けないか」
「ええと、それってつまり」
「お前が言ってただろう? もっと俺を知るため、デートの一つでもしたいって。考えてみりゃ、これまで二人でどこかに出かけたことは一度もないしな。行きたいところがあればどこでも連れて行ってやる」
フィリップ様は本当に私との約束を守ってくれるらしい。私の意志を尊重し汲み取ってくれるところは、彼の好きなところの一つだ。
だけど行きたいところ、と言われても、すぐには思い付かない。
強いて言うなら、王都だろうか。昔と比べ、この国は王都を中心として、いい意味でかなり雰囲気が変わっているらしい。
そう伝えたら、彼は了承したとばかりに軽く頷く。
「ちょうどよかった。俺も一度お前に今の王都の姿を見せたかったんだよ。最後に行ったのは、もう何年も前だろう?」
「はい。リリアンヌ姉様と二人で王女だってばれないように変装して、遊びに行ったっきりですね」
「ならどこを回るか考えとく。お前も行きたい店でもやりたいことでも思い付いたらいつでも言ってくれ」
「分かりました」
ということで二週間後、私とフィリップ様は初めてのデートに臨むことになった。
そして迎えた当日。
その日は快晴で、気温もちょうどよく、お出かけ日和である。
あくまでもお忍びでのお出かけだ。王女だとばれないよう、普段着用しているようなドレス姿ではなく、一般の人たちに混じっても違和感のない服装に身を包む。派手な顔立ちではないので、それ以外特に変装しなくても私が王女だとばれはしないのは、以前の姉様とのお出かけで実証済みだ。
それはフィリップ様も同様で、普段の誠実そのものな仮面を取っ払い素面になった彼は、正直人相も雰囲気もがらりと変わり過ぎて、フィリップ・ローズデンだと誰も気付けない。
そんな、軽く服装を変えただけの私達がまずやってきたのは、たくさんの行商のお店がひしめき合う場所だった。
ここは中心地から少しだけ離れた、王都内で最も広い敷地面積を持つ公園である。昔から様々な催し物が行われており、毎月末に開催される行商の市もその一つだ。
そこでは私の好きな甘いお菓子は勿論のこと、ごはん系などの屋台や、食べ物以外にもアクセサリーから日用品、雑貨に書籍に絵画や怪しげな薬まで、とにかくあらゆるものが売られており、私と姉様が以前二人で遊びにきたのも、そこに行きたいからというのが理由だった。
多くの人でごった返す市はものすごい熱気に溢れていた。ぼんやりしていると人波に流されてはぐれてしまいそうなほどだ。
でもそうなる前に既にフィリップ様が、私の手をしっかりと指まで絡めて握っているので大丈夫だろう。
「アリー、気になるものはあるか」
「なら……あ、フィル、あれが食べたいです!」
念のため、外での名前の呼び方は変えようという話はしていた。当然、様付けは禁止である。
アリー、なんてリリアンヌ姉様にしか呼ばれたことがない。愛称で呼ばれるのもフィル呼びするのも慣れなくて少しむずむずするけど、フィル、と呼んだ時の彼がちょっぴり頬を緩ませているので、まあいいかと思えてしまう。
気になるお店を見つけては、そこの前で立ち止まり、串に数種類の肉が刺さったものを受け取ってその場で食べたり、顔より大きなふわふわの綿あめにかぶりついたり。
特に私が一番気に入ったのは、この国の砂糖よりももっと甘い、他国の植物を甘味料として使った色付きの炭酸水だった。留学先で訪れた国でよく飲んでいたもので、まさか自国で楽しめるとは思わなかった。
私が好きな物といえば甘いものだけど、そういえばフィリップ様の好物がなんなのか、あまりよく知らない。
……と思っていたら、今回のデートの最中に早速知ることができた。
意外にもお酒が好きなようで、特にワインがいいんだと。リンデルはワインの生産に適しておらず、昔はあまり流通していない上にとんでもなく高価な代物だったけど、今は交易の間口が広がったことで色んな国からたくさん入ってきているため、比較的安価なものが多く並ぶようになったとか。
「思考力が低下するからな。仕事上の付き合い以外ではあまり飲まないようにしているが」
選んだ二本のボトルを悩ましげな顔でじっくりと見比べ、そのうちの一本を買うことにしたのか真っ白のラベルのワインを手に取ったフィリップ様の言葉に、じゃあ他にどんな時に飲むのかと尋ねれば、何かいいことがあった時だという。
────彼の言う『いいこと』というのは、客観的に見て果たして本当にいいことなんだろうか。具体的にそこの部分を掘り下げてもよかったのだが、なんだか怖いのでやめておいた。
その後も二人でぶらぶらと、気の赴くままにいくつかのお店に立ち寄り、ぐるりと一周しかけたところで声をかけられる。
「そこのお二人さん、ちょっと寄っていかないかい?」
にこにこと人の良い顔で手招きする初老の女性は、髪の色や顔立ちからしてリンデル出身の行商人ではなさそうだった。
「何を売ってるんですか?」
聞くと、ダマル帝国で採掘された石を加工し、腕輪やネックレスなどの宝飾品にして売っているという。
「今、ダマルの恋人たちや夫婦の間で流行ってるものがありましてね」
そう言って女性が取りだしたのは、小指の爪ほどの大きさの宝石がついたピアスだった。赤や青や黄色、茶色や黒などがあり、その上、例えば同じ青でも色んな種類の青が取り揃えられている。
流石は良質な石が取れるダマルのものだけあって、この大きさでも、太陽のわずかな光を集めてキラキラと輝いている。それなのにお値段はかなり良心的だ。
「そういやそんな話、前に聞いたな。国民全員が穴を開ける風習のあるあの国らしい」
フィリップ様の言うように、ダマルには厄払いのため、生まれてすぐに子供にピアスをつける風習があるのだ。
「自分の瞳と同じ色を相手に贈り合うんですがね。女性は右耳に、男性は左耳につけるんですよ。かくいう私も旦那からもらったものをここにつけていましてね」
ぽっと頬を染めた女性の右耳には、確かに彼女の瞳とは違う、淡い赤色のピアスが輝いていた。
そういえばリリアンヌ姉様からの手紙にも、夫となった帝国皇子ことアドラー様に、彼の瞳と同じ青のピアスをもらったとあった。お返しには勿論姉様の目の色の物を贈ったと。
お揃いの物をつけるのは、なんだか恋人っぽくていいなと思う。
しかしここで一つ問題がある。
が、私がそのことを伝える前に、既にフィリップ様はさっきのワインのお店よりも真剣味を帯びた表情で商品を選んでいた。
「あの、フィル?」
戸惑いの声を上げた私に気付き、一旦こちらへと顔を向けたフィリップ様は、不思議そうに首を傾げる。
「なんだ、欲しいんじゃないのか?」
「いいなとは思いましたけど。でも……」
手を伸ばし、髪の隙間からわずかに覗く彼の左の耳朶に触れる。
ダマルのような風習はないが、この国にもおしゃれを楽しむために開けている人は多くいる。だけど少なくともフィリップ様はそれに該当しない。
するとこちらの意図を汲み取った彼も同じように私の右耳に触れる。
「それならアリーだって同じだろう」
「私が開けるのはまあ、いいんですけど。フィルに強制するのはなんだか申し訳ないなと思いまして。ピアスにこだわらなくても、別のお揃いのものでもいいのかなと」
「お前が嫌じゃないなら、俺はこれがいい」
ものすごく真剣な顔ではっきりと断言されてしまった。どうも彼もお揃いのものが欲しかったみたいだ。同じ気持ちなのは嬉しい。
それならと私も一緒に選ぶことにした。互いの瞳の色と照らし合わせながら、ほとんど同じ色の物を見つけ出して購入する。
帰ったら早速つけてみよう。いや、その前に穴を開けるのが先か。自分で針を突き刺すのは怖いから、エリーにでも手伝ってもらおう。
「なあ、ここ、俺が開けて直接つけてもいいか」
お店の人の包装が終わるのを待っていると、再度フィリップ様が私の耳に指を這わせる。くすぐったさにちょっとだけ身を捩っている間にも、彼は更にお願いを追加する。
「代わりに俺の方はアリーがしてくれよ」
「フィルがやってくれるのは全然構わないです。でも、あなたの方は私でいいんですか? 失敗しちゃうかもしれないですよ」
「それでもいい」
「…………」
「頼む」
責任重大なので嫌なんだけど、こんなに熱っぽい瞳を向けられお願いされたら、断れない。
「分かりました。だけど上手にできなくても恨まないでくださいね」
そう答えたら、目を細めて嬉しそうに笑った。
その後は特に買うものもなく、そこからあまり遠くないところにある王立劇場に行き、フィリップ様が私好みの演目だろうと、予め取ってくれていた席で歌劇を鑑賞した。
二時間たっぷりと楽しんだら、劇場に併設されているカフェテリアに移動する。そちらも予約していたみたいで、奥の個室に通され、お茶とお菓子を存分に堪能する。
「フィル、これ食べてみませんか?」
甘いものが得意ではない彼でも食べられそうなコーヒー味のシフォンケーキを勧めるが、信用してくれないのか訝しげな表情で見つめるだけなので、切り分けたものをフォークでさし、フィリップ様の口の近くまで持っていく。
「はい、どうぞ」
ここまでされたらさすがに断れないようで、私の腕を掴んで少し引き寄せ、そのままぱくりと口に入れると、驚いたように声を上げる。
「……美味いな」
どうも気に入ったらしい。もっと寄越せとばかりに口を開けるが、首を横に振って拒否の意志を示す。
「これは私のです。もうあげませんからね」
「あと一口くらいいいだろう」
「嫌です。フィルも頼めばいいじゃないですか」
「そんなには入んねぇ」
「仕方がないですね。なら、あなたのそのお茶請けを一口くれるならいいですよ」
「お前これ食えるのか? 言っとくが全然甘くないし、アリーの好みとはかけ離れてるぞ」
彼が食べているのは板状の小さなチョコレートだ。甘党派ではない彼には美味しく食べられる代物らしい。早くくださいと手を差し出したら、彼は持ったチョコレートをそのまま私の口元まで持っていく。
「ほら、口開けろ」
「……なんだか少し恥ずかしいですね」
「何を今更。自分だってさっき似たようなことを俺にしただろうが」
それもそうかとぱくりと口を開けて濃茶の塊を中へ入れると、何とも言えない渋みのようなものがじわりと広がる。
「なんですかこれ、苦いぃ……」
「この苦さがいいんだよ。にしてもなんて顔してんだ。折角の可愛い顔が台無しだぞ」
口直しがしたいとカップに入った紅茶で残ったチョコを押し流している私に、フィリップ様は苦笑交じりに柔らかい視線を向けてきた。
それを見ながら、昔に似たようなことがあったことを思い出す。
これとは逆の状況で、津波のように甘みが押し寄せるお菓子を少し切り分けて渡したら、あまりの甘さにフィリップ様は思いっきり顔をしかめていたっけ。
その頃の彼から向けられていた瞳には、どこか苦しそうで体がひりつくような、それでいてもっと胸を真っ黒に焦がすほどに強烈な劣情の炎が宿っていた。
けれど今目の前にいる彼からは、それとは真逆の────演じている時のフィリップ様とも違う、もっと優しくて甘さの籠った熱を感じる。
そこそこ長い付き合いなのに、改めて婚約者という立場で彼と接していると、これまで知らなかったフィリップ様が少しずつ見えてくる。
彼の視線を正面から受け、見つめ返した私は、手にしたフォークを置く。
「今日のあなたは、随分と優しい目をするんですね。知らなかったです。欲しい物にはどこまでも貪欲で、欲望に忠実に従う黒い獣を心に飼っているようなあなたが、そんな穏やかな顔をするなんて」
「人を節操のない獣みたいな言い方するんじゃねえ」
「だって本当のことじゃないですか」
そう本心を溢せば、フィリップ様は少しだけ笑って言った。
「あのなぁ、俺だってそんな顔ができるなんて知らなかった。それを引き出したのはアリー、お前だぞ。────正直、いつもなら別の方法でとっとと堕としてる。だけどこうしてちゃんとお前と向き合って、普通の恋人みたいに出掛けたりして過ごすのも、案外悪いもんじゃないと分かったんでな」
分かってはいた。それでも、改めて思う。
私はフィリップ様にとても大切にしてもらっているんだということを。
まだまだ彼の持つ深さまでは届かないけど、少しずつ、ゆっくりと彼への想いが積もっていくのを感じる。
「あなたのこと、好きですよ」
早く同じだけの愛情を返せるようになりたい。そう思いながらも、これが今の私に伝えられる精いっぱいの気持ちだ。
それでもフィリップ様は、今はそれでいいと満足気に微笑んでいた。
外に出ると、もう夕方になっていた。初めてのデートは、確かに彼のことをよく知れたし、何よりとても楽しかった。
けれどこれで終わりかと思いきや、最後に見せたいものがあるとフィリップ様が連れてきたのは、王都の中ではなく、王城の隣にそびえたつ細長い塔だった。周囲の監視の為にと昔建てられたもので、今は使われていない。
差し込む赤い夕陽の光の中、延々と続いているんじゃないかと思えるほどに長い長い螺旋階段を上がり、息も絶え絶えになりながら進むが、なかなかゴールは見えてこない。
「この階段って、こんなに、長いもの、でしたっけ……」
絶望の表情で首を上に向けていると、同じだけの運動量のはずなのに息切れ一つしていないフィリップ様が、呆れ眼で私を見やる。
「お前もう少し体力付けろよ」
「なんで、あなたは、そんなに、元気なんですか」
「俺はちゃんと鍛えてんだよ。アリシアも少しは鍛えろ。……とりあえず、今日は背負ってやろうか?」
「……いえ、自分の力で、頑張ります」
リンデルに帰ってきてからというもの、デスクワークが多い上、毎日好みの差し入れが届くせいで、体が少し重くなり、昔よりも体力も格段に落ちている気がする。
だって子供の頃、リリアンヌ姉様と二人でここに遊びに来て頂上を目指した時は、ほぼ駆け足状態のままあっという間に上り切った記憶がある。
女王という職業はある意味体が資本だし、明日からは私も少しずつ体力作りの運動を始めようと心に決めながら、気持ちを奮い立たせて階段を上がる。
そうしてようやくゴールを示す扉が見えた。確かここを開けると外に出られて、王都を一望できるはずだ。
はやる心を押さえ、軋む扉をゆっくりと押すと、隙間から入った夜風が体を撫でる。運動した後なので冷たさを感じるはずの風に心地よさを感じつつ、最後まで開ききったら、すぐ目の前には夜の帳の下りたリンデルの王都の街並みが広がっていた。
だけど、ここで私は、昔に見た景色と明らかに違っていることに気付き、思わず声を上げる。
「これって────本当にうちの王都なの?」
姉様と一緒に見た記憶の中の夜の王都は、石造りの建物が淡く輝く月光と瞬く星の光に照らされた、美しくも静かなものだった。
けれど今、目の前に広がっているのは、街並みの美しさはそのままに、夜空を彩る光と同じくらい王都自体に光が灯っていて、街の持つ華やかさと熱気が、少し離れたここまで届いている。
リンデルは自然も多く、平和で過ごしやすい国だけど、良くも悪くも突出した特徴がなく、何かあれば一瞬で他国に呑み込まれてもおかしくない程の小国だ。
人も物も外へ流出しない代わりに外からの流入もなく、ずっとあまり大きな変化のない国だった。おそらく何もしなければ、時間と共にゆっくりと、静かに朽ちていってもおかしくないほどで。
けれど今目の前に見える王都は、とてもじゃないけど終わりに向かっているようには見えなかった。
「……フィリップ様が私に見せたかったものって、これですか?」
この問いかけに彼は、ちらちとこちらを一瞥して短く「そうだ」と答えると、眼下の景色に目線をやり、静かな声で口を開いた。
「今日、色んなところを見て回ったが、気付いていたか? リンデルに入ってくる行商人も観光で訪れる人の数も、この二年余りで圧倒的に増えた。それに合わせてこの国にも色んな物や文化も入ってきて、昔よりも全体的に潤い活気づいている」
フィリップ様の言葉に、私は今日一日を振り返る。
最初に行った市は、姉様と訪れた時よりも賑やかで、人もお店の数も以前に比べてかなり多かった。それに全体の三分の一程はリンデル以外からやってきた行商人たちの開いたお店だった。
鑑賞した歌劇は別の国での童話を元にした話だったし、演者も色んな国の人たちが混じっていた。
昔から外から入ってきたお菓子はあったけどどれも高級品でほとんど市場に出回らず、けれど露店でもカフェでも、リンデル産ではないものも数多く並んでいて、それが当たり前のように定着している。
行きかう国民の顔も昔に比べ、皆一様に明るかった。
「確かに俺はお前が欲しいと思ったから、二人の姉を排除してまで次期女王という立場までお前を押し上げた。だが同時に、お前ならこのリンデルの女王にふさわしいと思ったんだ。アリシア、この国がこうして息を吹き返したのは、お前が留学中、王女としていくつもの国との縁を作ってきたアリシア自身が残した結果だ。そのことをみんな知ってるし、お前のことを、優秀だったリリアンヌの代わりだなんて国民は誰も思っちゃいない」
なんでこの人は、私が心の奥底に持っていた不安を目ざとく察知できるのか。
この国の為、私は自分にできることをしてきたつもりだ。
だけどチェルシー姉様……はともかく、リリアンヌ姉様の能力と人気には遠く及ばない。それでも姉様がダマル帝国に嫁いでしまった事実は変えられず、私がこの国を継ぐことになった。
正直プレッシャーは感じたし、不安もあった。きっとこの国の民は、嫌がりはしなくても、リリアンヌ姉様の方が良かったなと思っているんじゃないかって。
けれど王配がフィリップ様なので、私が姉様よりも劣っていてもまあ問題はないだろうし、皆もそう考えているのだろうと。
だから私は、おとなしくフィリップ様の駒の一つとなって、リンデルの為に力を尽くそうと思っていた。
けれどフィリップ様は、私以上に私の力を信じていたみたいだ。
「お前の手が回らないところは俺が補う。だから、自信を持て。なんせお前は────この俺が死ぬほど惚れてるこの国の未来の女王だからな」
まだ自分にどれだけのことができるかは分からない。私は王国一の天才児でもないし、目を見張るほどの美貌があるわけでもなく、元々国民の人気の高かった王女でもない。
それでもこうして彼が信じてくれるのなら、私は彼の期待に応えたい。もうすぐこの国を統べる者として。
私は夜の光を纏う王都から視線を外し、フィリップ様に体ごと向き直る。
「私は姉のリリアンヌとは違うわ。それでも私なりのやり方でこの国を守る。だからフィリップ、最後まで隣で、私とこの国を支えてほしいの」
すると彼は私への忠誠心を示すように頭を下げ、その場で跪きそれに応えた。
「勿論です。アリシア王女殿下とリンデルに、この命尽きるまで、私の全てを捧げます」
こうして私とフィリップ様との初めてのデートは今度こそ終わりを告げた────と思っていたけど、最後に一つやることが残っているらしい。
「約束しただろう」
「え、今からですか?」
もうなかなかに遅い時間である。しかし今日そこまでしてしまわないとどうしても気が済まないという。
満面の笑みで丁寧に包まれたピアスの入った小袋を目の前で掲げられれば、断るのも気が引ける。
なので、すぐに部屋へと移動して、必要なものをエリーに用意してもらった。
先に自分のを開けてくれとのことだったので、穴を開ける場所に印をつけ、ちゃんと消毒したそれ専用の針に滑りがいいように軟膏を塗ったものを手に持ち、椅子に座るフィリップ様の前に少し屈んで立つ。
「緊張するんですけど」
針を持つ手が自然と震える。大体他人の体に、絶対に痛みを伴わせると分かっていて緊張もせずにいられる人なんて、どのくらいいるんだろうか。
これが注射を打つことが日常茶飯事な医師ならともかく、私はただの王女である。
「いいから早くしろ。遠慮せず思いっきりぶっさせ」
「……分かりました」
このまま突っ立ってたって埒が明かない。一つ深呼吸すると、意を決してえいっと思いっきり印のところに針を突き刺した。
「────っ!」
やはり痛かったのか、フィリップ様が一瞬目を瞑り、声にならない声を上げる。
が、これで終わりではない。急いでそれを抜くと、今度はすぐ近くに用意していた薄紫色のピアスを、貫通したばかりの穴に入れ、外れないように後ろを留めた。
「できました」
無事にやり遂げられ、なんとなく感無量な気持ちでまじまじとピアスに目をやる。
まるでフィリップ様が私のだと主張するように、彼の左耳を私の瞳と同じ色が彩っている。恋人や夫婦がこれを贈り合うことの意味が、少し分かった気がした。
それは彼も同じのようで。
「いいな、これ。俺がお前のものだって周りに証明しているみたいだ」
鏡で確認したフィリップ様は、うっとりした面持ちで自身の耳に触れる。
カフェテリアで感じた柔らかな空気感はどこへやら、瞬く間に私の良く知る真っ黒なフィリップ様に戻り、その表情がちょっぴり扇情的で、背筋がゾクリと粟立つ。
逃げ出したい気分に駆られるが、当然それが許されるはずはなく。
「次はお前の番な」
ご機嫌な様子で彼が元いた椅子の上に座らされ、手際よく準備を終えたフィリップ様が、針を持ってぐっと距離を詰める。
「い、痛いですか?」
「痛くないことはない。が、我慢はできる」
いくぞ、と軽く声をかけられ、その瞬間耳に激痛が走った。
「いっ────!!」
何が我慢できるだ。
フィリップ様とは違い、喉の奥から捻り出したような甲高い悲鳴が上がり、自然と目から涙が零れる。
それでもフィリップ様は泣く私に構わず、彼が今日食べていたあのチョコレートと同じ濃い茶色の石のついたピアスをはめる。
「おーい、終わったぞ」
聞こえているがそれどころじゃなかった。
痛い、普通に痛い。痛すぎる。どうしてフィリップ様はあんなに平然とできていたんだと思えるほどで、涙も止まらない。それでもなんとか痛みを鎮めようと、ゆっくりと息を整える。
すると彼は私の目線に合わせるように屈み、頬に手を置いて流れる涙を宥めるように優しく親指で払いながらも、別の指でまだ痛みの残る右の耳朶をそっと撫でる。
「悪いな。泣かせたかったわけじゃないんだが」
「っ、別にあなたのせいじゃないですよ。私が勝手に泣いただけなので。それで……どうしてそんなに嬉しそうなんですか」
そう言ったら彼の笑みが深くなった。
「本当は泣いているお前を慰めてやりたい。なのに、痛みからくる泣き顔であれ、お前の初めての表情を引き出せたってのがたまらなく嬉しいんだ。それに俺の目と同じ色のピアスもいい。────さっきも言ったが、俺の全てはお前のものだ。だが俺は、お前の全ても俺のものにしたい」
前言撤回しよう。
今日見せてくれた黒さを伴わないフィリップ様も、確かに彼の持つ側面だろう。けれど彼の本質はやっぱりこっちなのだ。全てを食らい尽くすほどに強く、狂気を孕んだ深くて重い愛情。
どこまで堕ちて行けば彼の元へ辿り着けるのか。分からないけれど、確かなのは私も確実にそちら側へ足を踏み入れているということだ。
だってそんな愛情を向けられていると分かっていても尚、彼のことを嫌いになれないどころか、むしろ喜んでいる自分がいるから。
約束の期限までは半年以上あって、これから先どうなるかは分からないけど、今言えるとしたら。
「フィル、またデートしましょうね」
名前を呼ばれたフィルは、少し驚いたように目を丸くした後、今度はくしゃっとした笑顔を浮かべて見せた。
「ああ、アリー。また行こう」
だから私も同じように屈託のない笑顔を彼に返した。
フィリップの言う『いいこと』は、また後日。