フレンチキス
俺はなんとかエルミィを慰める方法はないかと、必死に考えていた。 けれど、エルミィは魂が抜けたように無表情のままだ。
──やりたくない。正直、今ここでそれをやるのは、いろいろな意味で終わってる。
でも……これはもう、やらざるを得ないだろう。
「……エルミィ。フレンチキスをしよう」
その言葉が出た瞬間、場の空気が――氷付いた。
誰も動かず、誰も喋らない。 マルカは無言で目を覆い、マークワンは《録画開始》とだけ静かに告げた。
たかが軽いキスのひとつやふたつ、どうってことない。 そう自分に言い聞かせながら、俺はエルミィに向き直る。
そのとき、トーマスがこっそり俺を手招きして、草むらの端へ呼び出した。
……またか? 何かやらかしたか? 腹パンか?
構えつつ近づくと、トーマスはひそひそとささやいた。
「なあ、フレンチキスって……意味、わかって言ってるのか?」
「ん?」 俺は首をかしげた。
「なんかこう……小鳥がついばむみたいな感じだろ?」
トーマスは呆れ顔で、容赦なく突きつけてきた。
「フレンチキスってな、ディープキスのことだ。 さっきからエルミィが求めてきた“大人のキス”って、つまりそういう意味だぞ」
「またまた、トーマス。冗談がうまいんだから」
そう言って笑い飛ばそうとしたが、トーマスの顔は一切笑っていなかった。
「これ、マジで。100%ストレートだから」
ふと視線を戻すと―― エルミィはすでに、口臭止めを口に吹きかけてリップクリームを塗り直していた。
……準備万端、やる気満々だ。
今さら、引くに引けない。 俺の背中には、もう退路なんて残ってなかった。
そのときだった。 さっきまで完全に空気だったイフリートが、突然怒りを爆発させた。
「ちょっと待って!? 何で契約した男の前で、別の女がキスしようとしてんの!? これなんてプレイ!? 私だって怒るよ!? この街道全部、燃やしちゃっても文句言えないんだけど!?」
さらに、彼女は低く呟いた。
「いっそ、この国……滅ぼしちゃおうか。 ……そう、“私たちの姉”がやったみたいに」
一瞬、場の温度が変わった。
「世界の半分を灰にした、あの悪夢を――もう一度、起こしてやろうか」
その空気を切り裂くように、エルミィが静かに手をかざす。
彼女は神器を呼び出した。
けれどそのときのエルミィは、完全に喧嘩腰だった。
「……兄と“大人のキス”を邪魔する奴は―― たとえ神でも、許さないから」
その目に宿る光は、怒りというよりも“覚悟”そのものだった。
その姿を見たマルカが、即座にハンドサインを送る。
マークワンは静かに動いた。 音もなくイフリートの背後へと回り込み、 そのまま首筋に手刀を当てる。
《処理完了》
イフリートは、自分が何かされたことに気づくよりも早く、 ふっとその場に崩れ落ちた。
「……気絶を確認。無害化完了」
静寂が戻った。
マルカが、今度は俺にサインを送ってくる。
《妨害物排除。男を見せなさい》
……わかりましたよ。キスすればいいんでしょ。 減るもんじゃないし――
視線を戻すと、エルミィは口をタコのように尖らせて、唇を精一杯突き出していた。 けれど、閉じた瞼が、ほんのわずかに揺れている。
……馬鹿だな、俺。
俺はそっと手刀を作り、そのまま優しく、彼女の頭に振り下ろした。
(エルミィ……対抗するためにキスするなんて、馬鹿げてるだろ)
彼女は気絶こそしなかったものの、目をうっすらと開けて、 上目遣いで俺を見つめてくる。
その視線は――どこか恨めしそうで、でも、安心しているようにも見えた。
マルカさんとリゼリナさんは、俺のことを「ヘタレ」となじってきたが、 トーマスだけは――そっと、俺に70点をくれた。




