大人のキッス
「動くな」と命じた火の精霊王の腕の中――
エルミィは一瞬目を伏せると、突如その腕に思い切り噛みついた。
「っ……!? 貴様……!」
王の腕を振り払うように飛び出した彼女は、
そのまま脱兎のごとくこちらへと駆けてくる。
ミリウスの背後に飛び込むと、口元を押さえながら何かを吐き出した。
「ぺっ、ぺっ、ぺっ……! げぇ、最悪……!」
彼女の足元に転がったのは、赤黒い肉片――火の精霊王の腕からもぎ取ったものの一部だ。
「エルミィ、大丈夫か!?」
「げほっ……うん……たぶん。あんなもん口に入れて、綺麗なわけないじゃん……」
彼女はぐいっと振り返って舌を出したあと、
ふいに瞳を閉じ、唇を突き出す。
「ねぇ……口直し、大人のキッス」
「……エルミィ、今ちょっと忙しいから。後で……考慮する」
ミリウスは顔を逸らしつつも、内心では本気でホッとしていた。
あの状況から、エルミィが自力で逃げ出せたこと――
そして命を賭けるような大胆な行動に出たこと。
「……ありがとうな、エルミィ。ほんと、感謝してるよ」
彼女は軽く笑って、
「あとで絶対だからね」と囁くように返した。
一方、火の精霊王は怒りの色も見せず、傷口を抑えながらただ静かに笑っていた。
その視線が意味するものが、まだ誰にもわからなかった。
「マークワン、反精霊術ジャマー起動。半径五百メートル内、制圧モードに移行」
わずかに空気が震えた。マークワンの体から拡散する不可視の波動が、空間を満たしていく。
「転移も封じたわ。もう逃げられない。……で、火の精霊王」
マルカは一歩踏み出しながら問いかけた。
マルカは愉快そうにその状況を見つめていた。
「火の精霊王、精霊術を封じ込められて、治癒もできないでしょう? 諦めて降参すれば?」
火の精霊王は高らかに笑い声を上げた。
「敵に塩を送るとは、大した自信だ。さすがは半神――イリーネの直系。力がみなぎってくる」
その言葉通り、火の精霊王の傷がみるみる塞がっていく。
マルカは驚愕し、すぐさま声を上げた。
「マークワン、対精霊術ジャマー、発動確認!」
《OK、ボス。対精霊術ジャマー、正常稼働中》
「では、なぜ治癒が?」
マークワンが淡々と告げる。
《解析完了。確率:99.999999999999%。誤差、許容範囲内》
《要因特定。エルミィ様の唾液が火の精霊王の傷口より吸収された可能性》
《神性反応誘発、非術式再生と推定》




