玉の腰
見知らぬ男性――ウィンディーネのお父さんは、胸ポケットから一枚の名刺を取り出して差し出してきた。
「水の精霊王、ローです。……ほんとにすいません。うちのバカ娘が」
……名刺、渡すんだ。
それも精霊王が。
ていうか、さっきの登場シーンの威圧感、どこ行った?
俺は内心で思わず突っ込んでいた。
《あれ……なんか、さっきとキャラ違わない?》
ローはちょっとバツの悪そうな顔で言い訳を始めた。
「いや、あの、初対面でちょっとナメられたらいけないと思って……。イキっただけなんです」
イキったって言った。精霊王が言った。
俺は思う。**間違いなくこの人、ウィンディーネの父親だ。**さすが親子。
でも――
「……っていうか、水の精霊王って方なのに、なんでそんなに腰が低いんですか?」
疑問は自然と口から出ていた。
すると、ローはまっすぐ俺の目を見て、はっきり答えた。
「――豊穣と小麦の女神のご子息に、失礼があったら、我ら精霊族は“食っていけない”んです」
……食っていけない?
ローは真面目な顔で続けた。
「豊穣と小麦の女神様は、我々からすれば、手の届かない雲の上の存在です。
水の精霊が、その“眷属”になるということは、一族にとって名誉なことなのです。だから――」
彼は、ぐっと身を乗り出して言った。
「――うちの娘、どうか使い潰してください」
えっ?
俺は一瞬、耳を疑った。
「……今、なんて?」
ローは、微笑みながら繰り返した。
「うちの娘を使い潰してください。
大事なことなので、二回言いました」
水の精霊王ローは柄杓を取り出すと、俺の手のひらにそっと乗せてきた。
「あとこれ、結納返し。聖霊王の証です」
俺は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
隣でマルカも無言だった。
が、その顔には明らかに「話の展開早すぎない!?」というツッコミが滲んでいる。
マルカは、ぽつりと小声でつぶやいた。
「……誰も何も言わなかったけど、これもう“水系”の試練の証もらったってことでいいんだよね?」
トーマスも首をかしげたまま、腕を組みながら小声で口を挟む。
「俺も何も突っ込まなかったけど……さっき“結納返し”って言わなかった?
それって結構やばい単語じゃない?」
俺も気づいていた。
その“やばい単語”には。
だが、あえて何も触れなかった。
それが最善だと、なぜか本能で悟ったからだ。
そんな沈黙の中で、水の精霊王ローは満面の笑顔で言った。
「いやぁ~……末娘が一番先に嫁に行くなんて、感無量ですよ。来年には私はおじいちゃんかぁ!」
……うすうすは気づいていた。
いや、誰でも気づくだろう。
ただ、なぜこの話が急に“婚姻”に飛躍したのか、そこだけが分からなかった。
俺が戸惑いながらローに問いかけようとしたそのとき、
彼は厳かに、まるで契約の条文を読み上げるかのように言った。
「――心から、私の娘の名を呼んだ時点で、婚儀は有効とされます」




