239/254
トーマス修行時代
静かに二人の精霊娘とシグルのやりとりを聞いていたトーマスが、ようやく口を開いた。
「パンを焼く才能なんて、最初から“あってないようなもの”だぞ。」
シルフとノームが目を丸くする。
トーマスは続けた。
「美味しいパンを食べさせたい――その気持ちが、味に表れるんだ。
シグルは“人に食べさせられない出来”と言ったが、俺はそうは思わない。
あれは十分、人を喜ばせるパンだった。」
トーマスは穏やかにミリウスを見つめる。
「お前はエルミィを喜ばせたいと願って、生地をこねたんだろう。
シグルにはそれが邪念に見えたかもしれん。だが俺には、その“邪念”ごと美味いと思えた。」
小さく息をついて、彼は笑った。
「性の違いかもしれないがな。
好きな女の笑顔を思い浮かべながらこねたパンが、人様に出せないはずがない。」
トーマスは少し遠い目をして続けた。
「俺は大奥様にはお会いできなかったが、大旦那様から彼女の話は、修行時代に耳にたこができるほど聞かされた。
そんな彼女が――ミリウスの焼いたパンを“不味い”なんて言うはずがない。




