シグルの神話
リーウィーは、やっとVIP階まで上がってきたシグルに告げる。
「この銘菓《地獄巡り》と、持っているすべてのチップを賭けて、一回勝負しませんか?」
シグルは、リーウィーが手にしている銘菓《地獄巡り》を見て、すでに口の端からよだれを垂らしそうになっている。
憧れの視線を注ぎながら。
リーウィーは続けた。
「勝負はルーレットです。あなたが先に赤か黒かを選んで、選ばなかった方に玉が入ったら、私たちの勝ち──というルールでどうでしょう?」
シグルは、リーウィーの説明をほとんど上の空で聞きながら、目は銘菓《地獄巡り》に釘付けになっている。
そして、首をコクリと一回、大きく頷いた。
リーウィーはルーレットに玉を放り込む。
「さあ、シグルさん。決めてください!」
シグルは「黒の6!」と宣言する。
必然的に、リーウィーは「赤」が担当になる。
ルーレットの玉が、赤の6番のポケットに入りそうになった──その瞬間、奇跡が起きた。
バニーガールが、シグルの落とした少額チップをヒールに乗せてしまい、バランスを崩して、ルーレット台に体ごとぶつかってしまったのだ!
そして、玉はくるりと跳ね返り、黒のポケットに吸い込まれた──。
シグルは勝負よりも、ルーレット台にぶつかったバニーガールのお姉さんを気遣った。
「お姉さん、大丈夫ですか?」
シグルは心配そうに尋ねる。
バニーガールのお姉さんは、顔を真っ青にしてうつむいている。
その様子を見て、下の階にいたマーサがVIP階へ駆け上がってきた。
マーサはすぐに救護班を呼び、お姉さんの手当てにあたる。
シグルは、リーウィーに向かって言った。
「勝負はそちらの勝ちでいいです。だから、お姉さんを責めないであげてください。」
リーウィーは棒立ちになり、判定をどうするか決められない。
仕方なく、が裁定を下すことになった。
最終的な判定はこうだ。
銘菓《地獄巡り》はシグルのものとする。
ただし、シグルが勝っていたはずのチップはカジノ側のものとする。
つまり、勝負は引き分け──となった。
VIP席にいたほかの客たちが騒ぎ始めた。
「今の勝負は、明らかにシグルの勝ちだろう!」
「カジノ側、横暴すぎるんじゃないか?」
そんな声があちこちから上がる。
しかし、シグルはお姉さんの体を気遣い、自ら負けを宣言している。
だからこそ、別の客がつぶやく。
「まあ……シグル本人が納得してるんなら、引き分けでいいんじゃねーか。」
場の空気がざわめく中、
マーサが壁に掛けられていたサブマシンガンを手に取る。
安全装置を外し、銃口を水平に構えて──
パンッ! パンパンッ!!
マーサは空砲を天井に向かって撃った。
「ご安心ください、空包です。」
他の客たちは驚いて床に腹ばいになったが、
マーサの説明を聞くと、ほっとした顔で体を起こし始めた。
マーサはきちんと一礼しながら続けた。
「お客様の安全のため、場を一時的に冷静にするために銃を使用しました。
この行為について、心よりお詫び申し上げます。」
場は一旦、静まり返った。
マーサは片膝をつき、シグルに礼を尽くす。
そして、そっと上着を脱ぐと──
その背中をシグルに向けて見せた。
見事な彫り物が、彼女の背中一面に描かれている。
それは、この世界の子供なら誰でも知っている──
「邪神から生まれた魑魅魍魎をすべて平らげた」という、おとぎ話のワンシーンだった。
彫られたその光景を見て、
シグルは思わず、口の端からよだれを垂らす。
──また、魑魅魍魎を食べたいな。
そんな甘い記憶をかみしめながら、シグルがふと思ったとき、
マーサが問いかけた。
「シグル様のお姉様も、あの時、活躍されたのではないですか?」
シグルは、ぺろりと舌を出して答える。
「お姉ちゃんは──逃げちゃったよ。
だから、私が全部食べたの。」
博徒たちの間では、シグルを彫る者が多い。
もともとの習わしでは、
シグルを彫る際、飾り羽は左に傾けて描くのが決まりだった。
──それは、「まだ半人前」という意味だった。
そして、
一人前と認められた者は、
彫り物の飾り羽を右に修正してもらうのが伝統だった。
左向きの羽は「未熟」、
右向きの羽は「成熟」、
それが長く続いてきた習わしだった。
しかし、いま、目の前にいるシグル自身の飾り羽が、
堂々と左に傾いている。
これからは──
「左に傾いた飾り羽こそが、一人前の証になる」
そんな、新しい時代が来るのだと、
誰もが静かに悟った。
シグルは、ちょっと得意そうに続けた。
「──お姉ちゃんの名誉のために言っておくけど、
邪神を食べたのは、お姉ちゃんだよ。
ただ、魑魅魍魎はあんまり美味しそうじゃなかったから……逃げちゃったんだ。」
シグルは無邪気に笑いながら続ける。
「それで、私に全部やるって言ったの。
──お姉ちゃん、優しいでしょ?」
それを聞いていたVIP席の客たちは、顔を見合わせ、
ぽつりとつぶやいた。
「いや……多分、逃げただけだろうな。」
笑いを堪えきれない顔で。




