恩師 キッシー
トーマスはカレンを見ると、どうにも複雑な気持ちになる。
あれは確か、四月の最初――自己紹介のときだった。
「初めまして。夏までには居なくなると思いますが、それまでよろしくお願いします」
あけすけすぎる物言いに、トーマスは驚いた。
この底辺校の一年の教室に座っている全員に対して、まるで「お前らのことなんか眼中にない」と言っているようなものだった。
そして実際、四月の半ばを迎える頃には、クラスの半数が姿を消していた。
トーマスは、カレンもその中に含まれているだろうと予想していた――だが、彼女は残っていた。
しかも、自己紹介などなくとも彼女の名前と顔は知られていた。
この国で有名なパン屋の娘。兄弟が多く、にぎやかで、店も繁盛している。
テレビ局が食いつかないはずがない。
ドキュメンタリーで取り上げられた時も、まさに“隣に座っているカレン”にスポットが当たっていた。
そしてそのドキュメンタリーの中で、彼女はこう語っていた。
――「高校には行きません。私はこのまま、家のパン屋を継ぎます」
あれは確か、去年の放送だったか。
(……なのに、なんでまだ学校にいるんだよ)
トーマスは、内心でそうつぶやく。
当時はそこまで深く気にしていなかった。
夏以降、彼女が変わっていく姿を見て。
同じ“兄弟が多い”でも、こうも天と地の差があるものか。
俺は、自分の境遇を思い返して、虚しく笑った。
勉強は嫌いじゃない――ただ、する暇がない。
バイトを掛け持ちしなければ、食っていけないからだ。
貧乏人の子沢山。まさにその典型。
乳繰り合って、ガキ八人。
兄弟は可愛い。だが、親には言いたいことが山ほどある。
「……自制しろよ」
もちろん、言ったところで何も変わらない。
だから、言わない。だが心の中では、いつも何かが燻っていた。
一方、恵まれた環境で育ちながら、自覚もせず、ただ享受するだけの人間がいる。
その筆頭が――カレンだった。
トーマスは、そんな彼女に心のどこかで八つ当たりしていた。
理由なんて、後からいくらでも見つけられる。
けれど、実際はただ羨ましかったのかもしれない。
救いだったのは、学年トップの成績さえ取れば授業料が免除になること。
良いことか、悪いことかは置いといて、底辺校ゆえに勉強しなくても首席は取れていた。
それが、今までは。
――だが、夏休みが終わったその日から。
状況は、変わり始めていた。
あのカレンが、俺の背後に、迫ってきていたのだ
夏休み明け、最初の集中テスト。
その答案返却の日――俺は信じられないものを目にした。
最成績優秀者の答案は、最後に返されるのがこのクラスのルール。
いつも通り、最後に俺の名前が呼ばれる――はずだった。
……だが、その日は違った。
俺の答案が返されたあと、担任のキッシーは少し間を置いてから、
「……高原、カレン」と呼んだのだ。
一瞬、教室の空気が止まった気がした。
俺は思わず、カレンのほうを見た。
普段の集中テストでさえ、カレンは自分の名前さえ書かず、
毎回のようにキッシーから「せめて名前だけは書け!」と怒られていたはずだ。
そんなカレンが――俺の後に、答案を返されている。
つまり、俺よりも点数が高かったということか。
――何が起きた?
脳裏にざわりと、焦りが走る。
この瞬間、トーマスの中で何かが静かに崩れ始めていた。
了解しました。以下、あなたの文章を原文の雰囲気を保ちつつ、整えた清書です:
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だが――カレンも、いつもとは違っていた。
答案を返された彼女は、顔を上気させて喜んでいた。
その笑顔は、あまりにも素直で、あまりにも無邪気だった。
(……普段のカレンは、どこ行った?)
いつもの醒めたような目も、開け透けな態度も、そこにはなかった。
まるで、はじめて褒められた子どものような――そんな顔だった。
その日の放課後。
俺は、生徒支援室に足を運んだ。
事情があった。
次回の成績次第で、俺の奨学金は打ち切られる。
支援室の担当者は言った。
「最上位者との成績が離れすぎている。来月の査定会議でも議題に上がる予定だ」
――つまり、カレンの台頭が、俺の進学を危うくしている。
支援室でも話題になっているということは、もう既成事実になりかけているということだ。
この瞬間、俺の中で何かが――変わった気がした。
生活支援室から出てきた俺を、カレンが待っていた。
「よお」
気さくに声をかけてくる。――こんなキャラクターだったか?
カレンは手を振りながら続ける。
「キッシーに頼まれて、トーマスを待ってたんだよ」
俺は驚いた。カレンが俺を待っていた? 何のために?
「トーマス、私のこと嫌いなんでしょ?」
唐突な問い。カレンは少しだけ眉を下げた。
「いつも睨んでくるし、怖くってさ……。キッシーに相談したら、すごい難しい顔してさ。解決してくれなかった」
それで今日、先生が何か仕掛けたのか。
「今ならトーマスが素直に心をぶちまけてくるかもって」
そう言って、彼女はポケットから防犯ブザーを取り出して見せた。
「一応、持たされてる。あと、“できるだけ一人になるな”って」
思わず噴き出しそうになった。
「……俺、そこまでヤバいやつ認定されてるのか」
「だってさ」
カレンは俺をじっと見て――それから、にっと笑った。
「トーマスって肉食系だと思ってなかったからさ。私はずっと草食系だと思ってたのに」
……何なんだ、こいつは。
でも、何か――少しだけ心の中で何かが溶けた気がした。




