表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
114/252

修行時代

マルカは言った。


「服を着るなら、ご飯をあげる」


シグルは数秒迷ったあと、空腹に負けた。


「……じゃあ、着る」


その日のうちに、マルカ芸能から支給された服を身につけ、

温かいご飯を頬張りながら、シグルは思った。


(この人についていこう。たぶん、一生……人生、何度目かの決意)


その時すでに、イフリートに鍋にされかけたことなど、

完全に頭から抜け落ちていた。


マルカはシグルを見ながら、心の中で溜息をつく。


(この子……放っておいたら、本当に誰かに喰われるわ)


(……ていうか、私がこの契約書にサインしてるのおかしいでしょ)


契約上は芸能事務所所属の“女優”になっているシグル。

マルカは尋ねた。


「ねえ、シグル。どうして芸能活動なんてする気になったの? いや、言い出したの誰?」


シグルはもぐもぐしながら言う。


「え、あの話……ちょっと長いけど、いい?」


「構わないわよ。聞かせてちょうだい」


シグルはパンを置き、少しだけ背筋を伸ばして話し始めた。


「……人間界に降りて、人間に化けたら、なんだか目が回って……」


そんなとき、不意に声をかけられた。


「そこに居るのは……シグルかえ?」


振り返ると、ひとりの老人が立っていた。


「どうして、あなたが私のことを知ってるの?」


老人は笑いながら答える。


「イフリート――火の精霊王の娘の、ウエディングケーキを作ったからな。

 その時、やたらと美味しそうな匂いを放つ鳥がいたのよ」


シグルは首をかしげて言う。


「……でも、私、あの時は違う形をしてたのに」


ふと気づく。


(……このお爺さん、目が見えてない)


「わからないでしょ?」


「いやいや、わしにも嗅覚というものがあってな。

 ワシも、シグルを一度は食べてみたかった」


老人は大いに笑った。


シグルは立ち上がる力もなく、ぽつりと答える。


「……もう、動けないから。いいよ。食べても」


その言葉に、老人は少し悩んだ顔をした。


「……そんなに痩せて、美味しそうじゃないな。

 よし、少し太らせてから食べるとしよう」


そして、ぽんと手を叩いた。


「お腹が空いているなら、パンなら売るほどある。

 遠慮せず、どんどん食べなされ


お産で里帰り中のカレンに、シグルの面倒を見させる。

取りあえずマッパはまずいので、服を着よう。


「男共がその裸体を見たら、貞操の危機だよ」


シグルは聞く。


「貞操の危機って、何?」


カレンは答える。


「私の状態になること」


シグルは妙に納とくした。

カレンはイフリートの姉と同じく、優しいけど厳しかった。


「パンの生地をこねる前に、手を洗え」

「小麦を置く場所に気をつけて」


三ヶ月後には、立派なパン職人が完成した。


シグルは、サラダを周りに散りばめて、中心に寝転ぶ。


シグルはお爺さんを呼ぶ。


「お爺さん、約束で太ったよ。今、美味しくいただけるよう」


カレンはお爺さんを睨んだ。


「妹を食べるって何?」


お爺さんも言い返す。


「でもカレンも、シグルは滋養が良さそうだって言っていたじゃないか」


カレンは腕で自分の口を拭う。


「……シグルは、十分に人間界に馴染んだ。だから、好きなところに行っていいよ。

お爺さん、別に構わないよね?」


お爺さんは、自分の言ったことをすでに忘れていた。


「悪かった。いたずらが過ぎた」


シグルは聞く。


「お爺さんのパンは、なんで美味しいの?」


お爺さんは首を横に振る。


「ワシとて、道半ばよ。

ワシの連れ合いによく怒られた」


「なんで生地を雑にこねるの。下手くそ。

貴方に胸を触られたって、何も感じない。

だから、貴方のパンは不味いって」多分、お爺さんは、生きている人では一番パンが美味い。

でも――死んだ家内が一番。


「叔父も叔母も、5人いるよ。……パン作りは下手なくせにね」


カレンは、少しだけ微笑みながら、懐かしそうに言った。


「それでもね、お爺さん、私のこと“家内に一番似てる”って、嬉しそうに言ってたの。……ふふ、パンの腕前は似なかったけど」


言葉のあと、静かに空気が落ち着く。

カレンは指先に残った小麦粉を拭いながら、

ふと遠くを見た。

シグルは包み紙を見せる。p

「その菓子、知ってるぞ。『銘菓 地獄めぐり』……冥土の土産じゃないか」


お爺さんは懐かしそうに目を細めた。


「家内の妹の作だそうだ。若くして亡くなってな……現物はもう残っとらんはずじゃがな」


少し間を置いて、ぽつりと付け加える。


「家内は言っておった。『パンは私のほうが上だけど、お菓子はあの子のほうが上』ってな」


シグルは、静かにその言葉を聞いていた。

お爺さんの手が、遠い記憶に触れるように震えているのが見えた。


「……うん。冥界に行ったら、お爺さんの奥さんに会って、パンを焼いてもらう」


そう呟いたシグルの声は、ふんわりと焼きたての匂いのように、あたたかかった。









評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ