キリンと僕とキミ
「なぁまっぴ…いや違う、すまんなお前はヒロ君だよな。ところでさ写真はあるのかよ?もしあるなら俺に見せてくれないか」
「え?え?カ、カオス。どの写真かな」
僕はカオスの写真という単語がなかなか物体として脳内に浮かび上がらせることができないままでいた。
「あぁそうだよ、もしヒロ君が見せてもいいというなら俺は見てみたいんだよ」
カオスの完成形ともいえる二つの瞳が僕をはたと見つめている、だから僕はもう一度同じ言葉を繰り返すしかなかった。
「あ、あの…、誰の写真ですか」
え、ほんとに一体誰の写真をカオスは見たいのだろう?
わからなくなる、なんだか前も後ろも横も上もなにもかもがぎゅっっと圧縮さていく感じがする。カオスがいう写真とはいったい誰のだろう、えと、僕の…僕の…?
「僕の…お、お父さんの写真ですか」
僕の言葉によってこの部屋の時はまた刻むのを忘れてしまったように止まった。
「は?ヒロ君のお父さん?そんな話題をお前はした記憶があるか?」
カオスは眉を寄せながら僕が発した言葉をすぐに数回繰り返した。「ヒロ君の親父さん…親父さんだと?おまえまさか」カオスの卓越した反射神経が垣間見えた気がした。
でもどうして僕は。今、父親のことを思い浮かべてしまったのだろうか。
お父さん…
「ヒロ君。お前まさか逝こうとしてるのか。いや…いまはまだ早い。よく思い出そうぜ、お父さんの話など全くしてないだろ」
「そ、そ、そうだよね。おかしいよね」
おかしい。僕の頭の中に何かが急激なスピードで混入してきているのがわかる。夢と現実が絡まり乱れはじめ、生と死が複雑に縺れ入り乱れていく。さて、一体どれが真実でどれがまやかしなのか。記憶が次々と改竄されていくようで本当の自分すら見失いそうになる。
「ご、ごめんなさい。お父さんじゃなくて」
絞り出すかのようにか細い声を出し時だった。
突如、窓際にいるシンゲンちゃんが手に持つ軍配を高々と頭上に掲げ叫ぶように言った。
「ヒロ君!風林火山なんじゃゃゃっ!」
それは今までに聞いたことがないような人として限界なる大声だった。天井や壁がブルブルと振動しているのがわかった。まゆまゆのフィギュアのお尻がふわりと浮いて、続けて隣りにいるみゆみゆのお尻も浮いた。そして僕の耳の奥の奥の奥までキーンと言う音がずっどーんっと響き渡っていった。それはもうとんでもない大声だったのだ。
「は、はい!はい!はい!ふ、ふ、風林火山です!ほ、ほんとにそうですよね。お父さんだなんて…僕は一体何を言っているんですか、一体なにを」
僕はシンゲンちゃんの喝を境目にして、一瞬にして真実だけを迎えいれていた。いまシンゲンちゃんは竹田さんから完全なる武田さんに変わった気がした。
「カ、カオスごめんなさい。お父さんでは無いですよね。僕の写真ですか?それとも彼女のですか」
果たして僕の写真をカオスが見ていったい何になるって言うのだろう。僕の外見はテレビで活躍するお笑い芸人の中で、一番ブサイク芸人として蔑まれ罵られるのを笑いにする人にとてもよく似ているのだ。いやそっくりとまで言って良い。テレビでは「お前はほんとブサイクだな」とよく周りから言われている彼。
彼がお返しでニタニタと笑えば「気色悪る!こわ!」と返されるのがお決まりの流れだ。
まるでテレビに現れた新種の妖怪のように扱われる。でも彼はいいよ、それを売りに芸人としての社会的地位を築きてあげている。それに比べて僕は一体どうなる?街を歩けばかなりの確率でブサイク芸人に外見が似ていると指を刺され笑われるのだ。無邪気な子供にも指を刺される。
「ママ見て、あのおじさんね、お笑いのあの人に似てるよね、うふふ」
しかも、しかもだ。お笑い芸人の彼は長身なのだ。だからちょっとだけたまに画面に映る彼が様になったりもする。対して僕は彼より背が20センチは低くて猫背で存在感はなにもなあぁい。そうですよ、そうなんです。僕に取り柄なんて何一つないんです。僕はこの先も世間の嘲笑になり続けていくのを、突如襲われた死によって止めたことになったのでしょうか。僕の趣味はと言えばアイドルのフィギュア集めかそれぐらいだ。そんな僕の写真を一体誰が見たがると言うのだろう?。じゃ、じゃあカオスが言うのは僕の彼女の写真が見たいってことなのか、彼女は…彼女はとてもきれいな女性です。それはとてもをつけても間違えてはいないだろう。彼女が僕のことを好きだと言ってくれた言葉はしばらくは嘘だと思った。人に笑われ続けた人生だ、僕の28年間によって彼女の言葉を信じられないでいた。
でも
「私はヒロ君のことが好きすごく好き。ごめんね。ヒロ君は怒るかもしれないけど、とてもあなたは可愛いの。ヒロ君はこの世界で1番可愛い。ごめん怒ったかな男の人に可愛いだなんて言ったらダメだよね。でも私はそんなあなたが好き。信じてほしい」
「ぼ、ぼ、僕は怒らないよ。なんだかとても嬉しくて、すごく嬉しくて」
今僕の頭の中で彼女をそっと抱きしめたときの彼女の肩の細さや腕の柔らかさが思い浮かんでいた。追憶なんて言いたくはない。彼女は僕の愛する人。これからもずっと永遠に。
だけど、どうしてお父さんのことが思い浮かんだのだろうか?日々薄らいでいく20年前のお父さんの映像が浮かびあがったのだ。タカとシンゲンちゃんカオスとチーコ、ここにいる誰にも父親のことを話した事は無いし、父とは20年前から1度も会ってもいないのだ。ずっと疎遠のままのお父さんだ。
お父さんはお母さんを裏切った。しくしくと聞こえるお母さんの泣き声にお父さんの怒鳴り声。幼い僕は部屋の隅で震えていた。そりゃお父さんのこと恨んだよ、でも今は憎かったになるのかな。もう過去のことだ。僕のなかでもう一度会いたいと思う人を憎み続けるという負の心を過去へいざなり、そして祈りや彩りによって変化させていくのは前に進むために必要なことかもしれない。だって僕は今こう思うんだ。
またお父さんと必ず会ってみたいなって。
もし会えたら、その時はお互いに笑顔で「やぁ」といいあえるのだろうか。
あの時はすまなかったなってお父さんは言ってくれるのかな。
僕の心の中に潜む闇と、それを一生懸命に包み込もうとする希望や哀れみがいま夜空を奏でる月の音によって行くべき場所へ達するべき場所へ導いていくようだ。そんな気がするのだ。
僕が進むべき道の先は…僕は今そこへ導かれていくように感じた。きっとお父さんはあの世から呼んでくれている。
ずっと会っていないお父さんに僕は会いたい。
そして僕のポケットの中身は…。一体何を差し示すのだろう。
秋の夜に奏でる旅立ちの月音はきっとここにいる四人の友達も感じているのではないだろうか。そうだよね。きっときっとみんな感じているんだ。だからこうして今日五人で会っているんだよね。
皆で今日あの世に行くために。
「何言ってんだよ。そうだよ。お前の彼女の写真に決まってる」
カオスは小指を立てながらそういった。僕のあらゆる想像を瞬時に打ち消すカオスの小指。それはまっすぐに天を刺していた。
「か、か、彼女のですか」
僕はまたカオスに見惚れてしまっていた。とてもきれいな顔だと思った。彼のシャープな瞳の動きは僕を素早く追っていくのだ。そんなの見とれてしまうじゃないか、彼のすべてに。
男が男に抱く憧れは透明なるせせらぎの音に似ていると誰かが言っていたような気がする。僕は水泡となり彼を追うのだろう。
「か、か、彼女の写真ですか?わ、わかりました」
僕はゆっくりと立ち上がるとタンスに向かっていった。そのとき隣の部屋にある僕の死体が見えた。別にそれは見たいものじゃない。見ていい思いがするものじゃない。とても寂しい気持ちが湧き上がるものだ。当たり前だよねだって僕がそこで死んでいるのだから。ただ現実を直視すると言われてしまえばそれだけのことなんだけど、今僕の死体はタカとチーコの隙間から見えた。死体が僕に訴えかけてくるもの。それはただの無駄というべきか深いなにかがあると考えてはいけない。僕はカオスに聞きたい。彼女がなにか関係あるのかと。
「これなんだけど、これが彼女だよ」
引き出しから取り出した一枚の写真をカオスに渡した。それは二人で出掛けた動物園デートで撮った写真だった。キリンの前で僕と彼女が肩を寄せ合って写っていた、そして僕と彼女の笑顔の後ろには、キリンのすました顔が遥か頭上にあった。そのまた上には晴れ渡る初夏の青い空がわずかに見えた。白い雲は夏らしく厚みがあった。この写真を見てまず目が向かう先は僕らではない。一頭のすました顔をするキリンではないだろうか。ほら、やっぱりカオスもまずはそこを見てる。淡い黄色の体に褐色の肌模様。僕らの背景を彩るまさに神獣と言われる哺乳類だ。
僕は写真をカオスの手に渡した。だから僕は逆さまに見ていた。そこは、天地がひっくり返った世界が広がっている。もしキリンのすました顔が太陽だとすれば、その上で逆さまに映る僕と彼女はアダムとイブというのか。
現在、そしてあやふやに弱くもろい未来までも凌駕する逆さまの世界にいる二人は永遠の愛を誓う世界にいる。
二人の笑顔に偽りはない。一点の曇りすらないんだ。嘘のない世界は写真の中だけのそれは小さな現実だけど確かにここには嘘はない。
すました顔のまま咀嚼を繰り返す太陽なるキリンがそれを保証するのだ。
キリンは話す。
君たちはアダムとイブだよ。そして僕は太陽だ。君たちはお似合いの男女だ。ほら、僕を見て。このすました顔は1点の曇りもないだろう。
誰も君たちから愛を奪うことはできないんだよ。僕は見守るよすました顔のまま上から見守るのさ。
さぁ君たち。他の太陽たちにも会ってきなよ。みんなが偽りなく君たちを出迎えるはずだ。偽りがあると言うのならば、サバンナの広大な土地にいる私たちの仲間の方さ。
まずは隣にいるライオン君に会いに行くがいい。きっと君たちを瞬時に捉えて二人が奏でるシルエットを横目にアスファルトの上で無防備なままにゴロンと寝転ぶだろう。
聞いて欲しいんだ。
僕たちがこの平和で堕落した狭き世界の中で、一体何が楽しみかと言えば偽りのないアダムとイブを見守ることなのさ。
逆さまの太陽はそう言っているような気がした。彼女は僕を愛していた。そしてもちろん僕も彼女を愛していた。