最終段階
「ただいまー」という言葉が当たり前の日常に追随してくるように、なにも変わらない棘一つすらないだろう漠然とした時間の流れに沿ったままのように玄関を開けて入り込んだもう一人の自分。
沢田ヒロシ。
突如目の前に現れた透明になってはいないもう一人の僕。
「ど、どうして僕がもう一人いるの?」
僕の声はまったく届いてないようだ。
靴を脱いで部屋の片隅の床に片足を乗せたもう一人の僕はここにいる全ての霊存在を無視してまた首を少しだけ傾げた。
「あれ。ほんとに鍵かけ忘れちゃったのかな。それってめっちゃやばくない?」
死んだ僕の隣りにいるカオスとタカと、シンゲンちゃんとチーコの四人は僕の手を引っ張り合うように持って部屋の隅まで連れていき、そこで直立不動のまま無言を貫いた。もう1人の僕を観察するように見つめ続けたのだ。
「あいついまのは独り言だよな?やはり俺たちのことはまったく見えていないみたいだ。しかし…なんでヒロ君が二人になっちまったんだよ、わけわからねえ」
カオスが小さくつぶやいた。
「私たちの声も聞こえてないようですね、あ!ちょ、ちょっと待ってください。皆さん時計を見てもらってもいいですか?」
タカが指差す壁時計は19時の場所を指していた。
「へ?19時じゃと?ありえない。わっち達が集まったのが…だって19時のはずだぞい」
シンゲンちゃんの声は上擦っていた。
「おかしすぎるじゃん。あれからもう数時間は経過してるはずじゃろ、おかしな時間の流れかただ」
シンゲンちゃんは手にする軍配をふりふりした。
「そうですよね。間違いなく私たちは夜の入口といえる時間にヒロ君のお家で集まろうねって事前打ち合わせしたはずです。私の記憶に改竄がなければシンゲンちゃんの言う通り19時待ち合わせでした、ですから今はすでに私たちがビュンビュン活動しやすい深夜タイムでもおかしくないはずです」
「うーん。って言う事はなんだ?まさか」
カオスがベランダに向かって走り出した。そしてカーテンを勢いよく開け放って見えたのは。
「やはりな、みんな見てくれ。満月じゃない。いささか頼りない月に変化している」
チーコが指をパチンと鳴らした。
「半月?じゃあまさかこれは時間が巻き戻しされたってことかしら?」
その言葉に僕を含めて、あ、透明になりつつある僕を含めて皆がコクリとうなずいた。
もう一人の僕はまだ部屋の入口で首を傾げたまま独り言を呟いている。
チーコは手にする消防車のミニカーをキュッと握りしめた。
「この場所はいま過去に戻ってる。いえ、月も変わってるなら世界が過去に戻ってるってことよね」
カオスはカーテンを閉めると生きているほうのヒロシを瞳で追いかけた。
現実にはカーテンは開かれたのか閉じたままなのか。
首を傾げたままでいる生きるヒロシを見るときっとカーテンは閉じられたままなのだろう。生きるヒロシが部屋の照明を付けるスイッチを押そうとしてるのも、きっとこの部屋は長い間、暗闇になっていたのだろう。
「時は戻り、ヒロ君の死体とヒロ君の彼女の死体が消えてなくなっているということは」
カオスの言葉に上乗せするように生きるヒロシが急に動きだした。
「良かった、我が家に侵入者は無しだね」
もう1人のヒロシはスタスタと部屋の内部へと歩いて行きそして行き着いた先はフィギュアが置かれた棚の前だった。
「まずは…いつものをしますか。さあ、みゆみゆ、そしてまゆまゆ、ただいまでちゅ。いま我が王子ヒロシ帰還です!」
フィギュアを抱擁しながら甘く語りかけるヒロシはまさに自分の世界に入り込む
たった一人の男子。
「おいヒロくん。この光景をしばらく俺たちは見ないといけないのか。なかなか辛いものがあるぞ」
カオスが冷たい視線を僕に送ってきた。
シンゲンちゃんはポワンと見つめたままで、タカは口元をハンカチで拭き始め
チーコはただ満面の笑顔だった。
「ひーぃ!ご、ごめんなさい!と、とても恥ずかしいです!」
僕にははよくわかる。だっていつもそうしていたから。間違いない、こいつは僕だ。
「まゆまゆ!みゆみゆ!今日も愛してる!」
ここにヒロシが二人いる。1人は亡霊となったヒロシ、もう1人はきっと過去に生きていたときのヒロシなのだろう。