望まぬシンデレラ~親友と入れ代わり、孤児院に残った貴族令嬢は、年下の伯爵令息に執着される~
「ミスジョンソンにペンダントを届けてほしい」
父の言葉に、年若い青年――エドワード――は目を見開いた。父の手に握られていたものは、年代物の銀細工のペンダント。見覚えのあるそれは、彼の母が生前大切にしていたものだったからだ。細部まで丹念に装飾が施されたペンダントは、院長とはいえ、一介の平民女性には分不相応にも見える質の良い品物だった。
「失礼ですが、母の親しい友人とはいえなぜ彼女に渡す必要が?」
「私が話しても、お前は納得しないだろう。お前の疑問は、彼女に直接聞いてみるといい。何かあった場合にはわたしが責任を持つ」
一息に言い放つと、深々と椅子に腰掛けて青年の父は長い息を吐いた。年の離れた妻をことさら可愛がっていた父は突然の病で妻に先立たれ、一気に老け込んだようだ。
口を閉ざした父は、話は終わったと言わんばかりに目をつぶっている。このような状態で口を割らせることなど不可能であると理解していたエドワードは、しぶしぶながら言いつけ通り孤児院を訪ねることにした。
***
ミスジョンソンは、孤児院の院長を勤める未婚の女性である。凛とした容姿、物腰の柔らかさ、そして誰に対しても分け隔てなく接するその姿に熱をあげる男性が後をたたないらしい。それはかつて彼女の足元にまとわりついていた幼いエドワードもまた同じことであった。
彼女に会いたい。会いたくない。相反する想いを抱えたまま、エドワードは彼女の元に向かう。同じ領内なのだ。目的地にはどれだけ遠回りしてもすぐに到着してしまった。久方ぶりに会う彼女は、やはり美しい。女盛りを迎え、どこか内面に憂いを秘めたようなその横顔に胸がざわめく。
「このたびはお悔やみ申し上げます」
「前口上は不要だ。用件に入りたい」
部屋に案内されたエドワードは、挨拶もそこそこに彼女の言葉を遮り、上着の内側からペンダントを取り出した。古いながらも丁寧に磨きあげられた窓からは、木漏れ日が射している。ペンダントを飾る宝玉が光を反射させてきらりと光った。
「あなたに渡すようにと、父から頼まれてきた」
「これは、奥さまが大切にされていたペンダントではありませんか。奥さまが亡くなった今、持つべきは旦那さまです。私が受け取るわけにはまいりません」
エドワードはどこかしらけた様子で鼻をならした。
「殊勝な心がけだ。僕自身、あなたにこれを受け取る資格はないと考えている。どうして長年に渡って母を苦しめたんだ」
ミスジョンソンに困惑の表情が浮かぶ。それを演技だと判じ、青年は苛立たしげに自身の髪をかきあげた。若い母のさらに年の離れた親友であり、ほのかに憧れと恋心を募らせていた相手が父の不倫相手だったと知ったとき、どれほど自身が衝撃を受けたか。
相手に報いを受けさせたい。ねじれた愛情は、ひどくがんじがらめに彼を苦しめていた。
「どういう意味でしょうか」
「どうもこうもない。母は常々こう溢していた。本来僕の母として暮らすべきだったのは、あなただったのにと」
血の繋がった家族への恋愛感情など、許されるものではない。焦がれた女性が、自分の母なのかもしれないという疑惑を突きつけられたときのあの絶望。それは、好きな女性が父の不倫相手なのだと知ったときよりもさらに彼を苦しめた。
言外に、父親の愛人だったのだろうと匂わせれば、ゆっくりとミスジョンソンはまばたきをする。紡がれた彼女の声音は、聞き分けのない子どもに言い聞かせるかのごとく、あくまで穏やかなものだった。
「お言葉ですが。旦那さまと私の間に、恥ずべきことなど何ひとつありませんでしたよ」
「どの口がそれを言う」
「宣誓魔法をかけましょう。神に誓って、私はあなたのお父上とそのような関係にはありませんでした」
宣誓魔法は、国の裁判でも使われる神聖なものだ。この国に生きる以上、神の前で嘘をつくことなどできはしない。
きらきらとまばゆい光が、ミスジョンソンに降り注いだ。そのまま彼女は淡く微笑む。その透き通った笑みは、エドワードの胸は鈍く疼かせた。
天使が落ちてきたのだ。不意にエドワードは得心した。そうでなければ、10も年上の女性相手にこうまで心をかき乱されるはずがないではないか。
「ならば、これはどういうことなのだ!」
エドワードは痛みとわずかな恐れを振り払うかのごとく、無意識に声を張り上げた。彼女の目の前に突きつけられたのは、先ほどのペンダント。それが今は形を変えている。少し厚みのある作りに見えたそれは、ロケットペンダントであったらしい。そしてロケットの中には、薔薇の花束を持ち佇む女性の姿があった。
「あなたの名前は、ロージー。この女性は、若かりし頃のあなたなのだろう?」
***
ミスジョンソンが肩をすくめた。
「まったく、何をいきなりおっしゃるかと思えば。エドワード坊っちゃまは小さい頃から探偵ごっこがずいぶんとお好きでしたものね」
かつての、幼い頃の呼び名でエドワードを呼べば彼が静かに顔を赤らめた。
「僕の勘違いだというのか」
信じられないと言わんばかりの顔でうろたえる青年に、彼女はうなずく。
「もちろんですよ。このロケットの女性は、かつて駆け落ちされた伯爵家のご令嬢本人です。奥さまが数年間この孤児院で暮らしていたこと、その時に慰問に訪れた少年時代の旦那さまと運命的な恋に落ちたこと。そしてロケットが決めてとなって、出奔した一人娘の忘れ形見を探していた伯爵さま――前当主さま――に引き取られたこと。いずれも有名な話だったと思うのですが」
「確かにそれは僕も知っている。しかし、ならば父はなぜ母を伴わずにこちらへと足を運んでいたのだ。母だって、あなたのことを親友と呼びながら、晩年はあなたに謝罪の言葉を口にするばかりだった。何より僕は、この目で見たのだ。母があなたに申し訳ないと、今からでも自分の居場所をあなたに譲るべきだと泣き崩れる姿を……」
あれが幻だったとは思えない。それに目の前の彼女が自分の母なのだとしたら、父が繰り返しこの孤児院に足を運び、本来ならば考えられないくらいの援助を行う理由にもなる。あるいはそれは、父なりの慰謝料もしくは口止め料だったのではないか。
「奥さまにとっては、この孤児院は懐かしい場所であると同時に、自ら語ることは望ましくない場所でもありました。たとえ、周知の事実であってもです。この孤児院にお越しにならなかったのもそれが理由ではないかと」
高貴な女性が孤児院にいたなど、社交界で格好の話題にされるだけ。自分を守るために、「親友」と呼んだはずの相手をも切り捨てた。そう見える母の行動は、母自身を苛んだのかもしれない。それは、エドワードにも理解できる話だった。
「本当にこの女性はあなたではないのか。こんなに似ているのに?」
「こんな高貴な女性に似ていると言われると嬉しいものですね。ええ、安心してください。この女性は、私ではありませんよ」
ミスジョンソンの言葉は、いつも通りに優しいまま。ならば自分はどうすればよかったというのか。エドワードは、拳を握りしめる。
「父とは何もなかったのか……」
「エドワードさまのお父上は、妾もとらずお母上を最後まで大事にされた。それがすべてでございます。さあ、お茶でも召し上がってくださいませ。伯爵家の高級な茶葉には敵いませんが、リラックス効果のあるハーブティーです。気持ちが落ち着きますよ」
動揺する青年に、彼女はお茶を勧めた。
***
部屋の中は静まり返り、外からにぎやかな子どもたちの声が聞こえるばかり。またしても口火を切ったのは、やはり青年のほうだった。
「では、父はあなたのもとをたびたび訪れ、一体何をしていたというのだ」
「大声を出さずとも聞こえておりますよ。隠し立てするようなことは何もありません。旦那さまとは、奥さまのことについて相談を受けていたのです」
「母のことについて?」
首をかしげれば、当然といった様子で彼女は重々しくうなずいた。
「ええそうです。結婚を反対され、駆け落ちして行方知れずになっていた伯爵家の一人娘の忘れ形見。その彼女が旦那さま、あなたのお父上と出会ったのは、まさにこの孤児院だったのです。彼女について聞きたいことがあれば、私を訪ねてくるのは当然というもの」
「母の話をするためにここへやってくるなんて、何の意味があるのだ。母は自邸にいたのだから、好きなだけお互いに話をすればよいだろう」
青年の言い分に、ミスジョンソンはゆっくりと首を振る。だからお前は何もわかっていないとでも言われているかのようで、エドワードを酷く苛立たせた。
「いくら美しく、気立てのよい少女でも、全く異なる環境に飛び込めば気鬱にもなるでしょう。それに貴族の家族というのは、平民の家族とは異なるものです。迎えに来てくれた前ご当主さま方が温厚な方だったとはいえ、気苦労も絶えなかったことは想像にかたくありません」
「……父と結婚したことは、母にとって不幸なことだったのだろうか」
「幸福か不幸かなんて、きっと死ぬ間際でもないと、自分自身にだってわからないのでしょうね」
エドワードがゆっくりと茶器を傾ける。穏やかな香りが鼻腔をくすぐった。
「……それでも母は、父のそばにいたかったんだろうな」
ミスジョンソンは最後の言葉を青年の一人言とみなしたのか、何も言わぬままお茶を口に含んだ。
***
「そういうことであれば、これはあなたにお渡ししよう」
「まあ、よろしいのですか」
「母も父もあなたに渡したがっていたのだから、僕が口を出して良いことでは本来なかったのだ」
青年は、寂しいようなわずかにほっとしたような、なんとも言えぬ苦い笑みをみせる。そこでようやく自身の思い込みゆえに彼女を傷つけていたことに気がつくと、深々と頭を下げた。
「誤解ゆえに、あなたに対して長年失礼な態度をとってしまった。どうか許していただきたい」
「いいえこちらこそ、繊細な少年だった頃のエドワード坊っちゃまを傷つけてしまったことを申し訳なく思っています」
「……エドワード坊っちゃまか」
ミスジョンソンは、エドワードの不満を感じ取ったらしい。慌てて、しかし満面の笑顔は隠さぬまま、懐かしむように目を細める。
「まあ、申し訳ありません。いくつになられても、私の中のエドワードさまは可愛らしい少年のまま。今のハンサムで素敵な紳士を目の前にすると、何だかとても不思議な気持ちになります」
それはあくまで大人である彼女が、子どもである彼に見せた配慮。その優しさを嬉しく思うと同時に、結局はいまだ子どもとして見られている事実に彼は密かに唇を噛んだ。
ミスジョンソンに、エドワードの想いは欠片も伝わっていない。この数年間、彼がどんな想いで彼女のことを考えていたかなんて、ミスジョンソンにはこれっぽっちも関係ないのだ。
「そのままお持ち帰りになってもよいのですよ。お母さまの形見になるのですから、誰もお咎めにはならないでしょう」
「いいや、あるべきものをあるべき場所に、だ。それでは、本日はこれで失礼する」
「まあまあ、そんなに急がれなくても。お茶はまだお代わりがございますよ」
「結構だ。興味深い話を聞かせていただいた。礼を言う。近いうちにまた」
自分の彼女に対する態度は、酷いものだった。これからやり直せるだろうか。本当はあなたが好きだったのだと、どう言えば彼女に信じてもらえるだろうか。
ああ、自分が彼女の親友の息子という事実以外で、何か使えるものがありさえすれば。それがたとえ、彼女にとっての足枷であったとしても、そばにいるためには利用してみせるのに。
エドワードは、自身が大きな切り札を手の内に持っていることを知らないまま、ミスジョンソンへの恋情を募らせる。
「ミスジョンソン。いつかあなたのことをロージー嬢、いいやロージーと呼ばせていただく。それまでは僕のことをエドワード坊っちゃまだろうが、なんだろうが、好きに呼ぶといい」
手に入るはずがないと諦めていた愛しいひと。それが何の因果か、指を伸ばせば捕まえられる距離にいる。落ちてきた天使を、誰が馬鹿正直に天へとかえしてやるものか。エドワードの呟きは、彼女に届くことはないまま風にさらわれていった。
***
青年を見送った後、ロージーはひとりロケットをもてあそんだ。手に馴染む心地よい重さ。子どものころから親しんできた懐かしい重み。
――本当にこの女性はあなたではないのか。こんなに似ているのに?――
まさかそんな言葉を聞く日が来るだなんて。あの日枕を濡らした小さな子どもが慰められたような気がして、ロージーはわずかに口元をほころばせた。
「私、あなたのこと、ちっとも怒ってなんかいなかったのよ。だってどうせ私では、貴族として暮らすことなんてできなかったわ。駆け落ちして、平民として慎ましく生きた母さんはとても満足そうだった。私もそれでいいと思っているの」
ペンダントにひとつ口づけを落とし、その細い首にかける。ロージーは宣言した通り、嘘をつくことはなかった。ただ真実をすべて告げることもなかった。それだけのことだ。
出奔した伯爵令嬢を母に持っていたのは、ロージーの方だった。ロージーの母は、駆け落ちした相手と貧しいながらも仲睦まじく暮らしていた。流行り病にかかることさえなければ、平凡な人生を全うしたにちがいない。
『可愛いロージー。先に逝くわたしたちを許してね。貴族の世界は、きっとあなたを苦しめる。好きなひとがその世界にいるのなら構わないけれど、そうでないならうかつに名乗り出てはダメよ。わたしのペンダントも、誰にも見せてはダメ。どうしようもなくなったらその時は……あなたの判断に任せるわ』
両親を失くしたロージーは、自分の判断で孤児院の門を叩いた。周囲の人々も裕福とは言いがたい。孤児院に入ると「売られる」のではないかと心配する近所の人々をなだめながら、ロージーはここへとやって来たのだ。母のペンダントを手放したくなかったということ以上に、質屋を通して追っ手をかけられることを恐れたのだ。
そこで出会ったのが、エドワードの母だった。
***
エドワードの母は、ロージーよりもいくつばかりか年上の少女だった。際立つ美貌に、貴族の血を引いているのではないかと噂されるような美少女。伯爵令嬢の母を持つロージーよりも、よっぽど美しさと気品を兼ね備えていた。性格は全然異なっていたけれど、ふたりは驚くほどうまがあった。
『親友同士、秘密はなしよ』
『ええ、もちろんよ』
そうしてロージーは、彼女にだけこっそりと自分が持っていたペンダントの秘密を告げたのだ。仲良しの親友の証として。まさかそれがあんな未来を招くなんて、予想もできずに。
それから数年後。ロージーの親友だった少女は、孤児院の慰問に訪れた貴族の少年に恋をした。
もちろん平民の孤児が、貴族の子息と結ばれることなどありえない。そう、普通ならば。
ただ、そこに運命の悪戯があった。ちょうど同じ孤児院には、伯爵家を出奔した貴族令嬢の娘がいたのだ。
『わたしの母は、伯爵令嬢だと話していました。自分のわがままのせいで両親に心配をかけてしまったことを詫びたいとも。何か困ったことがあれば、これを見せるようにと言われていました』
ロージーの親友がそう言いながらペンダントを貴族の少年の父親に差し出したとき、ロージーは裏切られたとは思わなかった。むしろ、そこまでして少年と結ばれたいと思っていた親友の気持ちに気がつかなかった自分の鈍さを恥じた。
「バカね。そうまでして手に入れた生活なのに、不安がるなんて。堂々と暮らしていれば良かったのに」
それにロージーにしてみれば、祖父母が自分に気がつかなかったことこそが悲しかった。今でこそ母に似ているロージーだが、かつては色黒でやせっぽちの見映えのしない少女だった。だからこそ、祖父母が自分ではなく、彼女の親友が娘の忘れ形見だと申し出た際にほっとしたように笑いあったことに、仕方がないと思ってしまったのだ。それなのに。
『ごめんなさい、ロージー。本当は全部あなたのものだったのに』
結局、ロージーの親友は少しずつ精神を病み始めた。好意を寄せていた貴族令息が伯爵家に婿入りしたことが結局は彼女を追い詰めた。
彼女自身が伯爵家の血を継いでいない以上、お家のっとりになるのではないか。そんなことを遅まきながら気がついてしまったらしい。
慌てた彼女は夫にすべてを話し、自分と別れてロージーを正妻とするように願い出た。もちろん婿入りしたかつての少年はそれを突っぱねた。そしてその裏で、自分の息子と結婚してくれないかと頭を下げに来たのだ。
『どうかすべてをあるべき姿に』
『何をおっしゃっているのですか』
『我が家に嫁いではもらえないだろうか』
『そんな、私のような平民に頭を下げてはなりません!』
『わたしが見る限り、息子も憎からずあなたのことを想っている』
そんな嘘をついてまで、ロージーに流れる血が必要なのだろうか。彼女は無性に泣きたくなった。
妾になってくれと言わなかったのは、妻への義理立てかそれとも彼女への誠意の証か。それでも、あの年若いエドワードに、自分のような年増を押しつけていいとは思えないのだ。親友の忘れ形見であればこそ、彼自身の幸福のために好きな相手と婚姻を結んでほしい。それはロージーの心からの願い。
「……家なんて、誰が継いだっていいじゃないの」
貴族の常識からかけ離れたその言葉は、あるいはロージーの傲慢さなのかもしれないけれど。
親友のあなたが幸せなら、私も幸せだったのに……。声に出さないまま、目を閉じる。あなたの代わりに祈りましょう、エドワードの幸せを。
それでも、久しぶりに胸元で輝くペンダントは、記憶のままとても美しかった。
「天国のあなたは、昔みたいに笑っていてくれるかしら?」
ロージーの呟きは、頬を濡らす涙とともに床に吸い込まれていく。
そう遠からぬ未来。伯爵家の跡取り息子に、愛していると求婚されるようになることを知らないままで。
***
エドワードは薔薇を贈る。その色に、本数に、ミスジョンソンへの想いを込めて。薔薇の数が増えるたびに、恋心は募ってゆく。ゆっくりと、茨がからみつくように。
ロージーは思案する。届けられる薔薇の色に、その香りに。甥っ子ほどには可愛らしい青年をどうすれば正しい道に導けるのかを。
あなたの抱える想いは、この時期特有のただの勘違い。それを告げたときにこそ、これまでのふたりの関係が決定的に変わってしまうことから目をそらして。
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