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お嬢様と結婚したいので偉くなって家を乗っ取る話

作者: 七原七原

 まあ碌でもない家系に生まれついたもので、分家の分家の三男坊という、本家からしてみりゃ殆ど親戚とも呼べぬ立場が、俺に約束された宿命という奴だった。


 京都近く、富城という山奥の土地には支配者がいる。一見して寂れた田舎町でありながら、その中央には城のように広い御殿が建っている。俺の本家筋である宮藤の家である。その源流は皇孫やら源氏やら平氏やら色々と入り交じってはいるが、とかくその時々の権力者に取り入って、今の地位を得たと言うことは確かだ。


 それが誇りなのか誹りなのか俺には疑問だが、多くの人は誇りと受け止めたようで、明治維新と財閥解体を受け、今や大した力の無くなったこの家系にも、繋がりを求められることは未だに多い。


 宮藤本家は一人娘、宮藤遙もまた、俺と同じように生まれから宿命を約束された少女だった。もっとも俺とは違い、貴人として有力者に嫁ぐという、目的からして実に高貴で時代錯誤な育て方をされたのだが。


 俺が宮藤遙と初めて出会ったのは、十五の時だった。年明けの正月に親戚一同で集まる宴会の席。尊い血筋は意外にも広く門戸を開いているようで、血の繋がりだけを求めて母を娶った親父にも招待が届いた。


 人々は皆上座へと目を向けていた。広い客間の最奥に、地位が違うとばかりに一つ高く儲けられた座敷に、本家の家族が座っていた。当主と夫人は俺も見覚えがあったが、娘の方は初めて分家の前に顔を現したのである。


 少女は齢十か、或いはより少ない程度であった。だと言うのに彼女は、乱痴気寸前の老人共にも恐れること無く真っ直ぐに瞳を向けていた。確かに意思のある瞳だった。降って湧いた新たな貴人、新しく宮藤を束ねるであろう少女の登場に、宴席は途端に名売りの契機と成り果てて、親父も兄二人も我先に上座へと向かった。


 俺はと言えば、居残りを命じられていた。周囲には同じように打ち捨てられた三男坊、或いは次女辺りが不満げな顔で転がっていて、ちらちらと恨めしげに上座を眺めていた。馬鹿しかいない風景だった。それが嫌で、俺は同じく分家筋である工藤人見と話していた。


「やあやあ、政孝。捨てられてしまったな」

「人見、お前こそ……と言いたかったが、お前は違うか」

「ああ。父さんはそういうのには興味が無いからね」


 彼の父は殆ど出奔にも近い形で家を捨て、新しく機械だの電話だのを作る会社を建てたと聞いていた。その息子である人見もまた、そう言った分野に明るかった。


 だが、俺にはどうにもよく分からない。昨今では肩に掛ける電話というのが発売されたと聞いているが、家には昔ながらの黒電話しか無く、電波を携帯する意味というのもよく分からない。


 しかし、そう呟くと、人見は笑って言った。


「何を。君は俺と一緒に会社を建てるんじゃ無いか。これからの次代にはコンピューターが重要だ。時代遅れの老人共の中に溺れてしまっては困る」

「冗談じゃ無かったのか? 俺はコンピューターも電話も詳しくないぞ」

「だから詳しくなって貰わないと困る。これからの時代、嫌でも詳しくならざるを得ないだろうけどね。一緒にやろうぜ」


 そういうのも良いだろう、と俺は思った。人見の後を付いて回るようで格好が悪いが、それでこの家から逃れられるというのなら悪くない。学んでみようと俺は思った。彼のように生来の目標が確固として築かれているというのは、俺には眩しく思えたのだ。


 だがその時、上座に群がっていたはずの親父が、慌ててこちらへと帰ってきて俺の手をむんずと掴んだ。「何を」という声も無視されて、俺は無理矢理上座へと連れ出された。


「この、こいつが家の三男坊で、政孝って言います。ほら、頭を下げろ。本家様の前だぞ……。どうです。健康でしょう。成績優秀で、スポーツも万能です。芸術や文化にも明るく、自慢の息子です」


 心にも無いことを親父は言った。それだけ積み重ねても生まれながらの立場だけで否定されるのが宮藤という家だった。三男坊という嘲笑は何時の場面でも万能で、それで二人の兄は溜飲を下げていたのだ。


 だが、不思議だ。何故親父はこんな事を言うのだろう。売り込むのなら一番上の兄に決まっている。わざわざ引っ張ってきたと言うことは、必要だと思ったからなのだろうが。


「何なりと、小間使いにして下さい。私ら分家には本家様の役に立つことが本意なのですから」

「はあ?」

「政孝、お前は遙様の小間使いになるんだ。帰ったらすぐ引っ越せ」

「何を言ってやがるんだ。ふざけるんじゃない」

「政孝、随分な口聞きじゃ無いか、ええ? お前がどうして学校に通えているか分かるか? 家のおかげだ。その家を継ぐ、俺のおかげなんだ」


 埒が明かなかった。何時もこうだった。話は通じず、勝手に物事が進行する。そこに俺の意思は組み入れられない。学生という立場を何時も悔やむ。


 どうにも俺を呼んだのは、八つになる本家の娘さんを世話するための人材が必要だったかららしい。小間使いと昔風に言いつくろっては居るが、その実態は体の良い奴隷である。


「ふむ。良いだろう。血の繋がりを重視したいが、場合によれば腹を切らせる。ならばお前程度の立場が良い」

「へえ、へえ。そりゃあもう」


 本家の当主は時代錯誤なことを言って、虫でも見るかのような視線をこちらに向けた。彼は俺の顔をじろじろと見、ふんと嘆息して首肯した。それで俺の命運は決まった。




 山中に居を構える時代遅れの木造建築は、春も盛りだというのに鬱屈として寒く暗い。その長い廊下を音も鳴らさず静かに歩くのは、俺が仕えろと命じられた宮藤の姫、宮藤遙様である。


 化粧もしないのに白磁のように透き通った表情は、屋敷とは異なり、今日も朗らかに明るい。濡鴉の髪色は胸元まで長く伸び、浅葱色の私服によく映えていた。そんな彼女は早朝の時間に似つかわしくない、弾んだ口調で呟いていた。


「政孝さん、おはようございます……。ううん。普通。もっと驚かせなきゃ。政孝、と呼び捨てにして……呼び捨ては早いかしら」

「お嬢様、おはようございます」


 俺が挨拶をすると、お嬢様は一瞬驚いたように肩を震わせ、それから何事も無かったかのように振り返って笑みを見せた。


「おっ……おはようございます。でも……何故起きているの? 今日は大学はないのでしょう」

「いや、使用人ですから。それに、それを言うのならお嬢様も休日では無いですか」


 そう言うと、お嬢様は僅かに眉を顰めた。ほんの僅かに、それこそ俺ぐらいしか分からないような不機嫌の表情だ。


 しかし相も変わらず美しい表情である。この世にこれ以上美しい方はおられまい。当初は家のこともあって憎んでいたが、五年の奉公生活を経て俺はすっかりお嬢様が好きになっていた。


 だが、お嬢様は時たまよく分からないことを言う。それもまた可愛らしいというのは孫可愛がりにも似た贔屓目だろうか。しかし内弁慶にも似たその我儘は、子供らしく慈しむべきものだと俺は思うのだ。


「別に、貴方がすべき事など無いでしょう? 着付けをするわけじゃあるまいし、かといって台所を任されているわけでも無いのに。政孝さんは寝ていれば良いでは無いですか。学業の方も大変なのでしょう? 今日は私の学校も休みでありますのに」

「そう言われましても、仕事ですからねえ。朝の見送りも、荷物持ちも、雑用なら任せておけって話です」

「私はもう子供ではありませんよ。荷物程度、一人で持てます!」

「それは失礼しました」


 じゃあ何で俺の名前を呼んだんだろう、と言いたくなるが、そこは言葉を飲み込んだ。機嫌を悪くしても何も良いことはなし、表情が崩れるのは俺の本意では無い。しかしお嬢様はそんな些細な機微も読み取ったようで、柔らかく笑いながらも、瞳を細めて言った。


「悪いですか?」

「はい?」

「何の用も無いのに呼んで悪いですか?」

「いえ、別に悪いって事は無いですけれど」

「なら良いでしょう。悪いのはそちらです。勝手に起きていて、もう!」


 そう言って、お嬢様は朝食の場へと向かっていった。まさか早朝ドッキリを仕掛けたかったわけじゃあるまい。まさかお嬢様がねえ。


「政孝さん!」

「はい」


 その声に応じて俺もお嬢様と共に朝食を取った。本来ならば使用人が仕える先と同食するなどあってはならないことなのだが、どうしてか、彼女がそれを望むので従っている。と言うのに彼女は何時もの顰め面でこちらを見、何をするでもなく食事を済ませた。


 その席で、「桜が見たい」とお嬢様は言った。

「庭に咲いているでしょう」

「山際の、天狗の桜が見たいのですよ」

「だったら行けば良いでしょう」

「政孝さん、貴方も行くのです!」

「はあ、分かりました」


 と言うわけで、出立が決まった。


 富城の桜は観光の名所となる程では無いが、それでも見事は見事である。しかしお嬢様が今回望んだのは、山際に一つ雄大に咲く、天狗が植えたと伝承の残る桜であった。


 別段有名なものでも無いので、辺鄙な土地柄もあって周囲に人影は殆ど無い。時折周辺住民が通りかかるばかりである。その人影も有名な宮藤のお姫様が静かに桜を眺めているのを邪魔せぬよう、姿を認めた途端、逃げるように去って行く。


「綺麗ですねえ」と俺は言った。

「見慣れているくせに」とお嬢様は笑って言った。

「別に興味など無いくせに、御為ごかしですね。ふふ。つまらないのに付き合って下さって、ありがとうございます」

「……まあ、桜なんて見飽きてますからね。こんな土地に何年も居ますから。でも別にお嬢様と来てつまらないって訳じゃないですよ。良いじゃないですか。お嬢様との花見。風情があって」

「そうですか?」


 そう言うと、お嬢様は笑みを浮かべて周辺を闊歩した。桜などどうでも良いようだった。実際、俺達はもう何度もこの場所に訪れていて、天狗の桜など見飽きていた。


「……京都の桜は、どうですか?」

「はい?」

「貴方が大学のために通う、京都の桜は、ここの桜とは違うのでしょうか」


 お嬢様に言われ、俺は日々通う京の桜景色を思い浮かべた。そう意識してみるものでも無いが、やはり古都と言うこともあって、印象に残った名所は幾つもある。それらを話してみれば、お嬢様は喜ぶこと無く、所か悲しい顔をした。


「政孝さんは、もう既に、他の桜を知っているのですね。私とは違って。……私はこの富城を、離れたことがありませんから」

「お嬢様も大学に通うようになれば、他の桜も見られますよ」

「……通えれば、良いのですがね」


 その言葉は春風に消え入りそうなほど儚く、俺は改めて宮藤の家系を憎んだ。


「ああ、全く、時代錯誤な! これだから、宮藤って家は! ……ああ、すみません。しかし、大丈夫ですよお嬢様。お嬢様は成績優秀、ご当主様がその機で無くとも、教師陣が放って置くはずがありません。何なら俺の方から大学の教授陣に推薦しても構いませんよ。流石に京都大学の名は断りづらいでしょう。そこだから俺の進学も許されたようなものですし」

「その名は、却って重すぎるような気がしますね? 私の学力で追いつけるかどうか……」

「何を言いますか! お嬢様は俺よりも優秀ですよ。太鼓判を押します」

「そう、ですか?」

「そうですとも!」


 実際、俺には確信があった。お嬢様の機知は人並み外れて冴えており、この土地で箱入りのまま閉じて行くには勿体ない代物であった。


「本当に、遅れている家ですよ宮藤は! 何が伝統だ、血縁だ、馬鹿馬鹿しい!」

「ふふ……政孝さん。それ、私の前で言っても良いものなのですか?」

「あ……こ、これは、聞かなかったことに……」

「良いでしょう。ただし……」


 そう言うと、お嬢様は俺の手に自身の指を結んだ。


「都会の、恋人の真似をしましょう? かりそめでも、楽しんでみたいのです」

「お嬢様、しかし……」

「真似ですよ。真似ですから。ね?」

「ううむ……」


 俺は不承不承に頷いた。五歳も年下の少女とは言え、お嬢様の気風には凡百のそれとはかけ離れたものがあり、自然と胸の鼓動をおかしくさせるのだ。


「……遠回りをして、帰りましょう?」

「ううむ……」

「ふふ」


 そう笑うお嬢様の顔は、自分から言いだしたこととは言え気恥ずかしいのか、桜と同じく桃色に染まっていた。




 その夜、宮藤遙は自身の机で手紙の束を眺めていた。彼女は今し方、自身が書き連ねた文章を眺め、溜息を吐いた。


『拝啓

 初春の暖気がこの富城にもようやく訪れた今日この頃、突然この様な手紙を出すことをお許し下さい。

 常日頃、至らぬ私に献身を向けて下さる間城政孝様には、感謝の言葉を万に寄せても限りがありません。しかしこの手紙は感謝を伝えようというのではないのです。不躾な書き出しとなりましたが、どうか、私の本心をお聞き下さい。

 本日は私の我儘のまま、天狗の桜を共に観賞し、春の到来を分け合ったものと信じております。天狗の桜は雄大かつ豪壮で、その歳月を偲ぶ――』


「……違う。桜なんて、どうでも良いのだから」


 宮藤遙は文章に線を引き、その続きを書き始めた。


『私の本心とは、つまり、感謝では無く、いえ、感謝ではあるのですが、その本意は即ち政孝様に対し、桜のような甘く桃色の――』

「な、何を書いているのか全然分からない……。ダメ、ダメですよこれは」

『私の本心とは、即ち政孝様に慕情を、愛情を、恋――』

「うわわわ!? 直接的すぎますねこれは! もっと、こう、お淑やかに、それとなく、しかし確実に伝わるような……」

『私の本心とは、政孝様が好き――』

「ああ、もう!」


 遙は自分で書いた文章に耐え難くなったように便箋を折りたたみ、鋏で綺麗に裁断してから屑籠に捨てた。そうしてまた溜息を吐いた。その瞳は深く暗い色をしていた。


「……しかし、気持ちを伝えたところで、か。……ああ、私が宮藤でなかったのなら。憎む家を継ぐ娘を、どうして好きになってくれるのでしょうか……」


 しかし、ふと彼女は頬を軽く叩くと、意を決したように呟いた。


「いや、いや。今日のあの反応は、きっと良いものの筈。きっと、私は嫌われてはいない。うん。勇気を出して、良かった。恥ずかしかったけれど……。よし!」


 そうして彼女は、再び差し出すことの無い手紙を書き続けた。




 夏の盛り、山間に広がる富城の町には蝉の声がけたたましく鳴り響くが、その音色も、京のそれに比べれば幾らかは落ち着いた気持ちで聞くことが出来る。盆地特有の蒸し暑さに満ちる京に比べ、山間に清水が下るこの地では夏も涼しく、通り抜ける風も爽やかであるからだ。


 大学も夏休みに入り、俺は特に何処かに行く用事も無いので、誰に命じられることも無く富城の土地に居着いていた。ここは京に比べて涼しく静かで、暮らしやすいのは確かであった。

 お嬢様もようやく到来した夏休みに嬉しそうで、日々楽しそうに俺を連れ出しては、山間の川や池などに繰り出していた。


 しかし本日は、珍しく俺に客が来ていた。


「政孝さん! 政孝さんはどこに居ますか」


 部屋の外からお嬢様の声が聞こえ、俺は慌てて「お待ち下さい」と言った。しかし用意を調える前にお嬢様が部屋の中へと入ってきた。


「政孝さん! 私と……」

「あん? 何だ」


 お嬢様は俺の部屋に入って笑みを消し、目を見開いた。その先には俺の友人である工藤人見が座っていた。


「……政孝さん、このお方は?」

「あ、こちらは俺の友人の工藤人見です」

「ああ、どうも。……それよりも起業の話を突き詰めておきたい。今年中に資金は集まる計画だ。後は今後のために出資者を募るだけだが、そこはお前の手腕に……」

「……人見様とおっしゃられましたか。私は、この家に来客があるとは聞いていないのですが、事前に連絡を届けましたか?」

「どうでも良いだろうそんな事。俺は政孝に会いに来たんだよ。それも散策なんかより重要な用事のためだ。なあ政孝、どっちが重要か分かるよな? このお嬢さんは、あれだ、本家のお嬢さんだろう? 上手く行けば、もうこんな奴の言うことを聞かずに済むんだぜ」

「……何を言っているのですか?」


 お嬢様は、虚を突かれたようにそう呟いた。


「ちょっと、人見」

「ん? 言ってなかったのか? 俺達は在学中に会社を立ち上げて、宮藤の血縁とは関係の無いところで一旗揚げてやるって。ああ、言い辛いか。と言うか、言う必要も無いな。だって本家のお嬢さんは、実質的に俺達の敵だからな。あはは」

「……何を、何を、貴方は」


 お嬢様は震えた声でそう呟いた。そして、信じられないものを見るような目で俺を見た。その瞳は震えていた。何故かは分からないが、泣いてしまうような目をしていた。


「今すぐ行きますお嬢様。……すまないな、人見」


 俺は慌てて荷造りしお嬢様に付き従った。謝罪の念を込めて人見の方へと視線を送ったが、彼は彼で、ぱたぱたと手を振って自身の書いた計画書に熱中しているようだった。


 お嬢様は部屋から出てきた俺をじっと睨み付けた後、何も言わずに先を進んだ。


 屋敷から出れば、蝉の音と熱気とがむんむんと広がり汗を滲ませる。吹き抜ける風はそれらを僅かに拭い取りはするものの、膨大な夏は果てしなく身体に降り注ぎ、田舎道の先を行くお嬢様の夏服に、きらきらと白く輝いていた。


「いやあすみませんお嬢様。あいつが急に押しかけてきたもので。来るなら連絡しろと言ったんですけどねえ」

「……随分仲がよろしいのですね」


 お嬢様は振り返ることも無く言った。頭上に差した白色の日傘が、不愉快さを表わすように揺れていた。


「人見、人見……工藤家の長男でしたか。確か貴方と同じ大学に通っていた筈です。その縁で?」

「いや、それよりずっと前です」

「私よりも?」

「はい」

「私と貴方が初めて顔を合わせたあの時に、貴方と工藤家の長男は既に知り合っていたのですか?」

「知り合いって言うか、もう友人でしたね。年が近いし、気が合うしで。気難しい奴ですが、その実、中々良い奴なんですよあいつは」


 俺が擁護するようにそう言うと、お嬢様は急に振り向いて俺を睨み付けた。


「何です?」

「な……何です、ですって!? あ、貴方は……!」


 そこまで言って、お嬢様は悔しそうに唇を噛むと、振り返って先を急いだ。俺は慌ててその背を追った。


 何処まで行くのか、今日の目的地は何処なのか、分からないまま俺は歩き続けた。照りつける夏の日差しを露骨に受け、帽子を持ってこなかったことを後悔した。


 お嬢様は田舎道の、それでも舗装された道からずんずん山奥へと進み続け、獣道染みた土さえ意に返さず踏みしめていった。いつしか近くに川のせせらぎが聞こえ、そろそろ帰りましょうか、と言おうとした途端、目の前に川が現れた。


 お嬢様は何も言わず、荒々しく転がる、苔むした岩の一つに腰を下ろした。はあ、と溜息を吐き、そしてそのまま動かなくなった。


「お嬢様、大丈夫ですか? 日差しを浴びすぎたのでは……」

「大丈夫です」

「いや、本人が否定しても身体の不調は」

「大丈夫と、言っているでしょう!」

「いや駄目ですよ。水を飲みましょう。不調なら日陰の方へと行かなければ」


 そう言うとお嬢様は、慮って伸ばした俺の手を荒々しく撥ね除けた。その指先は震えていた。熱を持っていた。彼女は熱を吐くように言った。


「……どうせ、どうせ、どうでも良いと思っているくせに」

「はい?」

「離れるのでしょう!」


 お嬢様は振り返って俺を睨んだ。俺は狼狽えた。水気のある砂利の地面が擦れて周囲に響いた。


「そうでしょうね。貴方には、それが一番でしょう。この様な家、逃れられるのならば逃れた方が良い。ましてや貴方のような立場ならより強く思うはずですね。私のようなどうしようも無い女に今まで付き合って下さりありがとうございました」

「いきなり何を……」

「いきなり? いきなりですって? ずっと続けていたのは貴方でしょう!」


 お嬢様は急に立ち上がって高くからこちらを睨み付けた。


「ずっと、ずっと、私から離れる算段を付けていたのでしょう!? ええそうですね貴方は家の立場から仕方なく側に居ただけですものね! 何が、何がいきなりですか。急に知ったのは私の方です!」

「お、落ち着いて……。あ、あれですか? 起業の話……。あれは、あれですよ。そうすぐにってわけじゃありません。少なくとも大学を卒業してから……」

「何が落ち着いていられるものですか! 私から離れるのは変わりが無いでしょう! あ、貴方は、ずっと、私を憎んでいたのでしょうね! ええそうでしょう無理矢理使用人にさせられて我儘を聞かされて、恨むに決まっていますよね。こんな、こんな女。こんな家、宮藤の象徴、は、あ……!」


 そう言って、お嬢様は耐え難いように俺を打った。まるで痛くなかった。細身の腕は胸肉に破れひしゃげた。そのまま指先は苦しげに胸元で戦慄いてシャツを掴んだ。


「何なんですか。何でそんなに怒って……」

「う、う、うるさいですよ。だ、黙りなさい。私はねえ、ずっとずっと言いたかったんです。ずっと言えなくて、今日まで胸に秘めていたのです。そ、それを、こんな風に裏切られるとは思っていませんでしたっ! もう無意味でしょうけれど、こんな言葉、貴方にはきっと笑われるでしょうけれど、それでも言います言ってやりますよ! わ、私はねえ、政孝さん、貴方がずっと好きだったんですよ」

「え」


 俺は予想だにしなかった言葉を告げられ、頭の中が真っ白になった。何も言えず、ただ口を困惑に開閉させていると、お嬢様は顔を真っ赤にしながら自嘲するような歪んだ笑みを見せた。


「そ、それで、どうですか。笑いなさい。笑いなさい政孝! 何で黙っているのですか。憎んでいるのなら、恨み言をこの機に言えば良いではないですか。ずっと嫌だったと! 年下の娘にこき使われて、不満を溜め込んでいたと、吐き出しなさい!」

「……好きですよ」

「は、あ……?」


 お嬢様は真っ赤な顔のままぽかんと口を開けて硬直した。


「だから、好きですって。ああ、恥ずかしいな。でもこれが本心ですよ。何勝手に自分を卑下しているんですか。宮藤の家と貴方は関係ないでしょうに。そういったもの関係無しに、俺はお嬢様が好きですよ」

「は、あ、な、なあああ……!?」


 ぱくぱくと鯉のように口を開くのが面白くて、俺は思わず吹き出した。


「な、な、何を笑っているのですかっ!? や、やっぱり嘘だったんでしょう! 嘘吐きっ。下郎っ。最低の……うう」


 俺がいつかのようにお嬢様の手を取ったのを受けて、彼女は口を閉ざした。俺は指先を繋ぎ合わせながら言った。


「何を不安に思っているのかは分かりますよ。俺が宮藤を憎んでいるから、宮藤である自分も憎まれていると思ったのでしょう? それは違いますよ。確かに俺は宮藤が嫌いです。ですが、お嬢様は好きです。だから、起業しようと思ったのです。何時か宮藤をも越えて、その家系を意に返さぬ事が出来るように」

「……何時かとは、何時ですか」

「それは……」


 俺は言葉に詰まった。断言は出来なかった。俺と人見が立ち上げようとしている会社は博打みたいなもので、時流に乗れれば数年の内に莫大な成果を出せるだろうが、乗れなければ破産だろう。

 しかしお嬢様は二の句が継げないでいる俺にふっと笑みを見せた。


「いいでしょう。信じます。何時か、きっと、貴方が宮藤を滅ぼしてくれることを、私は信じましょう。だから、その時は、私を迎えに来て下さい」

「迎えに来るって、それは……」

「い、言わずとも分かるでしょう! この……もう!」


 お嬢様は俺の手を強く握った。俺はそれを握り返した。


 蝉の鳴き声と風の音、遠くには川のせせらぎが木霊する中、俺達の間には不思議な静寂が広がっていた。炎天下に飲み込むに辛い暑さが、俺達の周囲には蟠っている。しかしその苦しさを撥ね除けて、俺達の間には確かな安らぎが存在していた。




『拝啓

 あの夏の日から、時間は矢のように過ぎ去った気分です。日毎春の気配は強まるものの、山間の地には冬の名残が未だ強く、寝床の寒さに寂しさを覚える日も少なくはありません。

 それはきっと、政孝様がこの家を旅立ち、新たな生活へと向かったことにも拠るのでしょう。出奔そのものの出立とは言え、家中の者共にも思うところはあるようです。父上の怒りの手前、表立って口には出さぬものの、その寂しさを時折口に出すことを目にします。

 願うのならば、私もまた、この身を投げ出し、貴方の胸元へと――』


『 ……願うのならば、私もまた窮屈なこの家から逃げ出したいと思います。その思いは日々強く、大きくなるばかりです。政孝様は、良く居らしていらっしゃるのでしょうか。その生業は上手く行っているのでしょうか。心配で、胸が張り裂けそうな所存です。

 しかし、私は信じたのです。何時かの日を約束したのです。だからその何時かの日を、私は強く待ちましょう。いえ、この頃は、待つばかりでは無く、自分から迎えに行こうとさえ思うようになりました。

 勉学は、順調です。政孝様の大学にも通えるようになるでしょう。手引きして下さったのですね。お父様は、苦渋に満ちた顔で京都大学の入学説明書を渡しに来ました。ああ、あの時の顔と言ったら、思わず吹き出してしまいそうに――』


『 ……あの時の顔は、私に独立の意思を抱かせるに十分なものでした。私は勉強しようと思います。勉強して、この宮藤の家を、そう、乗っ取ってみせようと思うのです。お父様も、親戚筋の者共も廃し、この手中に全てを収めてみようと思うのです。貴方と同じように、貴方に習って、血縁も、命運も、気に食わぬもの全てを乗り越えて見せようと思うのです。

政孝様。油断なされてはなりませんよ。もっと急いで下さいませ。放っておいたら、私が貴方を、代わって滅ぼしてあげますからね。

敬具

××七年三月十八日                              』


「……出来た」

 遙は完成した手紙を嬉しそうに眺め、胸にひしと抱いた。そしてそのまま溢れる気持ちを表わすように、夕闇の暗がりの中、赤いポストへと静かに思いを委ねた。ことんと音が鳴って、手紙は何時かへと送られた。




「では、その様に」

「ええ」


 俺は握手を交わし、宴席と呼ぶには余りに似つかわしくない、整然と整えられた会談の場を後にした。これで今後の地位は盤石のものとなった。


 長かった、と俺は独りごちた。あの夏の日から五年が経った。一般的には異常な速さなのだろうが、俺と彼女にとっては長すぎる日々だった。だが、それももう終わる。階段の場であるホテルのロビーで、幾人かの秘書を付き従えながら、不敵に微笑む彼女に、俺はにやりと笑みを見せた。


「これはこれは宮藤様。自らお出迎えなど」

「貴方を招くのに部下では身が足らぬでしょう? 新進気鋭、IT業界の風雲児である間城様には」

「そう呼ばれているのは社長である工藤の方では? 彼なくしては立ちゆかぬもの。私などそのお零れに預かっているに過ぎませんよ」

「ご謙遜を。恐れ多くも人付き合いの不得手なかの人の代わりに、方々に契約をこぎ着け、瞬く間に規模を拡大させて見せたのは、他ならぬ間城副社長のご手腕では無いですか」

「まあ……育ちのためか、人との付き合い方には一家言ありましてね」


 俺は彼女に導かれ車に乗り、目的の地に向かわせるに従った。京都の夜景を窓の外に流しながら、車は郊外へと、更に奥深い山中へと向かっていく。

 俺は懐かしい景色が闇の内に現れていくのをぼんやりと見つめていた。じりじりと急かすような沈黙が車内に降りていた。


「歳月の流れは矢のように過ぎるも、胸の内は何時までも焦がれておりました」


 ふと、彼女が呟いた。


「思ったよりは早かったような、それでも遅かったような、不思議な気分です。きっとそれは、立場に依るのでしょうね。経済人としては、五年という月日は瞬間的なものでしょうが、恋人にとっては、五年は長すぎるでしょう」

「責めていますか? お嬢様」

「よして下さい。貴方はもう、そうではないでしょう?」


 くすくすと彼女は笑った。


「まさか、宮藤を捨てた愚か者が、五年で経済界の一端に食い入るようになるとは。その出現を、家中は当初、笑っていました。憤り、総力を挙げて潰しに掛かるべきだという声もありました。しかし、出来なかった……。貴方達の成長は、最早家名と箔ではどうすることも出来ない領域にまで高まったのです。分野が分野だからでしょうか? 何時の時代も、最新の流行に権威は嫌われる」

「貴方だって、随分手を尽くしたようでは無いですか。宮藤遙……その名は各所に聞こえていますよ。旧態依然の宮藤を改革し、政治経済に根を張る怪物。最早現当主さえも廃す勢いだとか。その実績を鑑みれば、当然だとは思いますが」

「お父様がここに居ないことが、その証明だと言っておきましょう」

「あの男がねえ……」


 俺はかつて、虫でも見るかのような目で俺を見た男の顔を思い出した。あれが今日、どんな顔を見せるのか、想像して俺は笑った。


「さ、着きました。宮藤は本拠、富城に。……お帰りなさい、政孝様」

「ただいま」


 車から降り、俺は周囲の景色を眺めた。懐かしむべき風景は闇の中に没し何も見えない。そもそも人工の光が少ないのだ。家の明かりはポツポツと寂しく見えるばかりであり、街灯は規則的にも並んでいない。深い闇、闇、闇。何も無いこの土地。その中で、目の前にある建物だけが、煌々と夜闇に光を飛ばしていた。


 宮藤本家には多数の車が駐められていた。既に主要な分家格は集まっているようで、中からは宴席に騒ぐ声が聞こえていた。何も知らぬ陽気な声が聞こえていた。


「さて、行きますか」

「ええ」


 俺達は共にその場へと入った。途端、目が向けられ、声が止んだ。こちらを見てぱくぱくと口を開閉する赤らんだ顔が幾つも見える。その中には俺の親父も居た。


「間城の……! て、てめえ、何しに来やがった! 一族の裏切りもんが!」

「わ、私は無関係ですよ! ええ。あいつとはもう縁を切りましたからね! 情けない事ですよ。だから、私は関係ない!」

「ちょっと成功したからっていい気になりやがって。ええ? この宮藤の家を跨ぐには家格ってもんが足りねえよう。歴史の無い、若輩が」


 彼らはまだ宮藤が自分のものであると錯覚しているようだった。そんな彼らに向け、彼女は言った。


「実は今日皆様方を集めたのは、他でもありません。政孝様がこの宮藤と取引を結びたいというのです」


 そう言うと、老人共の顔は皮肉に輝いた。「ほうれ見ろ、やっぱり宮藤の名は……」「最初っから家から出ていればよう。今更頭下げに来たところでよう」「金貯め込んでそうだよなあ」


 にやにやと皮算用をしているところへ、彼女は言った。その瞳は冷たく皮肉に輝いていた。


「では、政孝様。その取引とは?」

「それは……」


 俺は宴席をぐるりと見渡し、にやりと笑って言った。


「この宮藤全てを戴きたい。家名も、事業も、繋がりも……その全てを、タダでね」

「は?」

「はあ?」


 困惑と、怒号が一挙に溢れた。しかしそれを意に返さず、彼女はにっこりと微笑んで言った。


「ならば、私が政孝様の妻となるのが一番上手く行くと思いますが、よろしいでしょうか?」

「勿論です」

「ならば、その話、謹んでお受けいたしましょう」


 彼女は畳に三つ指を突いて頭を下げた。宴席には更なる困惑が広がった。


「ご、ご当主様! こんな、こんな事が許されて良いのですか!? いくらお嬢様とは言え、何をなさっているのか!?」

「そう、そうですとも! 我らの承諾なしに、何を……。いや、そもそも承諾などあり得ない! 何がタダで、だ! そんな事が許されると思うのか!」


 向けられる声に当主もその妻も何も言わなかった。ただむっつりと黙り込んで表情を硬くさせている。彼女はその側に近寄って言った。


「私が許しました」

「わ、私はご当主様に話しているのであって……!」

「当主はもう、私ですよ? ねえ、お父様」

「う……ああ。その通りだ」

「な、は、あ……? そんな、そんな事、聞いてない……!」

「今話しましたもの」

「そんな、そんな……」


 がくりと首を落とす老人を意に返さず、彼女は群衆へ向け宣言した。


「これから宮藤は政孝様のものとなるのです。皆様もそれを良く心得、勝手な言動を慎むように」

「お、恐れ多くも申し上げますが、その様な事、家中が許すはずがありますまい! 幾らご当主様とは言え、配下を蔑ろにし、家を明け渡すなど……!」

「そ、そうだ! この、小娘め! たぶらかされたか! その様な決定に誰が従うものか!」


 俺と彼女は互いに見つめ合い、首を振った。救えぬとばかりに彼女は冷たい目をして言った。


「従いますよ。貴方達以外の全員がね。何故貴方達だけがここに集められたのかおわかりですか? それは、貴方達がこの家の膿であるからです。気が付かなかったのですか? 私が家中に働きかけ、支持を盤石のものとしていることに。……まあ、気が付かぬからの膿ですか。目敏い者は一早く私の下に降りましたよ。ここに居るという事そのものが、世間も家中も見通せぬ、時代遅れの老人である事の証左なのです」

「なあ……っ!? そ、そう言えば、あの家が居ない……! あ、あの家も、あの家も……! 工藤の奴まで……!」

「そんな、馬鹿なっ!? 私は、私は……!」


 ざわざわとうるさい席の中で、親父が縋るような目をしているのを俺は見た。俺は嘲笑を返した。親父の目は絶望に深く染まった。


「さ、それで話は終わりです。今後の身の振り方を考えておくように」


 彼女がそう言ったのを受け、俺もまたその席を後にした。彼女はそれまでの硬く繕った表情を一気に破顔させ、笑った。


「ああ、あの表情! 胸がすっといたしました。これで宮藤は終わりです。これで宮藤は、間城になるのです」

「家名は宮藤のままにしておきますよ。その方が繋がりも箔も使える。使えるものは使っておかないと」

「なら、貴方は宮藤政孝様になるのですね? ふふ……。ああ、使用人だった貴方が、遂に宮藤の当主に……と言う感慨は、最早無意味ですね。貴方に寄り掛かるのが宮藤なのです。もう、そこまで行ってしまったのですね」


 彼女は感慨深そうに俺を見つめ、抱き付いた。


「全てを無くしてくれたのですね。私を迎えに来てくれたのですね。ああ、何時かの日を、ずっと待ちわびておりました……」

「俺も、ずっと待っていましたよ。お嬢様」


 遂に約束は遂げられた。あの夏の日を懐かしく、そして美しく思いながら、俺は彼女を抱き締めた。


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[一言] 長すぎず短すぎず読みやすかったです あと面白い
[一言] 硬すぎず崩れすぎず気品を感じる文章力とヒーローとヒロイン、欲を言えばもっと読んでいたかった。 短編なのが口惜しい。
[一言] 時代を感じさせる重厚な台詞のやりとりが読み応えありました。 そんな中、年頃の娘らしく、一方で高貴さも感じられる遥の言葉が好きです。ドラマチックなラブストーリーですね。 七原七原さん、素敵な作…
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