▄︻┻┳═一 三発目 ≫ 【浮かぶ花】
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【浮かぶ花】
空に浮かぶ北極星だけがかろうじて目に見える。新宿の賑わいは少しうるさすぎて、星たちが隠れてしまう。
そんな星を真似て、私も姿をくらます。ジーンズにパーカー、そして帽子を深くかぶる。今日は“暗号”がきてないから変にめかしこまなくていい。
しかし前回、“K”の暗号がきたのにもかかわらず学校にいけというだけ。この組織は本当になに考えているかわからない。
「いらしゃいませリリィ様」
いつものように私はここにくる。数少ない私の拠り所であり“生きる意味”でもある。
私がなにを注文してもレモネードしか出てこない。ここはレモネード屋さんですか。
「レモネード屋を始めるのもありかもですな」
心を読むように信用のならない道化師の笑顔をする。差し出されたレモネードは相変わらずの味だ。決して悪い意味ではない。
軽快にリズムを刻むレコードにあわせて古時計がボーンと音を鳴らす。日付が変わったことを知らせると、またチクタクと機械的に動きす。
このノスタルジックに浸れる空間がここを拠り所にする理由のひとつ。周りがうるさかろうが静かがろうが、私は興味ない。ただなぜか懐かしく思えるんだ。すべてを失ったはずの私なのに。
「おや、浮かない顔をしてますな」
「別に、いつもと同じ」
今日も客は私しかいなく、だれかがくる気配もしない。マスターと私は少し話しては沈黙し、喉を潤してからまた話すを繰り返す。私がおしゃべりでない性格を汲み取って、気を遣ってくれてるのか、単に仕事の合間に声をかけているのかは定かじゃない。
ゆったりとした時間を過ごせるのに変わりはないし、気まずいと思ったこともない。
「そういえば、今日は始業式でしたよね。ご学友の皆様はいかがでしたか」
「う……今日はいってない」
気まずい。登校初日で学校にもいかず街を歩いていたなんていえるわけがない。学校にも友人とやらにも、青春にも興味はない。私は私の目的のために生きている。それが片付いたら私はもう……。
「知ってますよ。私が学校にあらかじめ連絡しておきました。ついでに配布物ももらってきました」
そういうと紙の束を私の前に出してきた。レモネードの横に置かれたそれはすべてに目を通すのがおっくうになりそうで、反射的に私は野草を噛んだような表情をした。
マスターは私がこの表情をするのですら知っていたように鬼灯の笑みをこぼした。
「重要な書類もございますのでしっかりとご確認ください。特に明日は教科書販売がございます。お忘れなきに」
「七面倒くさい……」
私はストローを口でもてあそびながらペラペラとめくり、隅々まで確認する。時間割や学級通信、それに親御さんに向けたプリントなど。
これから始まる学校生活が無性に現実味を帯びていて少し気後れしそう。正しくいえばもう始まってるんだった。
私はプリントを読み終わり、やるせない感情を冷やすためにレモネードを一気に飲んだ。喉越しのよさが伝わってきて、いくぶんかは気持ちはマシになった。
そしてあのとき感じた違和感をマスターに問う。
「ねぇマスター、なんで私の入学がイエローなの。それにコードまで使って。ただの気まぐれにしては大げさすぎる」
マスターは返答せずに店の奥に消えていった。残された私は深くため息をついて飲み終わったグラスを眺める。
溶けた氷が水となって下にたまっている。カランッと音をたてて氷の塊が重力に従ってその中に落ちていく。じわじわと溶ける氷。抗えなくて見えない力がこの氷の運命を決める。
私はストローでグラスの中をかき回した。混ぜても混ぜてもなにも変わらない。あるのは氷と水のみ。生きるか死ぬかを決めるのはだれだろうか。
「新しいお飲み物を用意しましょうか」
マスターがいつの間にか戻ってきていた。
「おまかせで」
「かしこまりました」
高校が始まれば安易にここにくることもできなくなるだろう。高校が家から近いのは不幸中の幸いというか。下手に暗殺帰りを見られなきゃ問題はない。
「先ほど問われた件ですが、こちらをご覧ください」
そういうと一枚の紙を渡された。その中身は見慣れたもので仕事の依頼書だった。こういうのはいつもイエローかレッドの手紙に入っているのだが。
しかし、その依頼書は今までやってきた暗殺と一線を引いて異なるものだった。一瞬で感じ取ったこの雰囲気に間違いはない。心臓が大きく深く鼓動したのを感じた。
『東京都立八重桜高等学校にわが組織の“ブラックリスト”が潜伏の可能性あり。エージェントリリィにターゲットの諜報及び暗殺を命ずる。他者の介入はターゲットに怪しまれないようにするため原則認めない。報酬は一億円。早急に対処されたし』
目を見開いて依頼書に食らいついている私に向かってマスターが口を開いた。
「これがリリィ様のご入学理由でございます。あの方から直々に依頼されました。ターゲットについても、もしかするとリリィ様が追っている方かもしれません」
「マスターがいうならほぼそうなんでしょ。私が殺る」
そういうとマスターは鬼灯が開花したような怪しい笑みを見せる。そして後ろの棚から朱肉を持ってカウンターに置いた。
私はいつものように右手の人差し指を朱が滴るほどつけてさっきの依頼書の末端に筆記体で“L”とかいて拇印した。
「確かに」
満足そうなマスターは依頼書と引き換えに手拭き用のナプキンをくれた。そして後ろにあるワインセラーからヴィンテージ品を取り出してきた。
ふたつ用意されたワイングラスは照明のおかげでなにも入っていない状態でも美しかった。
「飲んでいいの?」
「これは“ブドウジュース”です」
ポンッとマヌケな音がしたボトルからはその音とは対照的な妖麗で芳醇な香りが漂ってきた。透明なグラスに黒バラの雫が注がれるのをただ静かに見守っていた。
注がれたグラスを手に取り、目と鼻で堪能する。褐色を帯びた濃いルビー色は深みがある。軽く鼻を近づけて香りを確かめ、一度スワリングをして改めて香りを嗅ぐ。市販されているどの飲み物も香りでこれに勝るものはない。新鮮さというよりその良質な熟成がこの“ブドウジュース”の秘密かもしれない。
そのころマスターはグラスを手に取り私を待っていた。
「なんであのとき一緒にこのことを教えてくれなかったの」
「サプライズですよ」
そう、と私は無機質に返事をした。相変わらずマスターの考えていることはわからないが、これで私の人生が進む。
私の生きる意味、“復讐”のときがきたんだ。
マスターはカウンターで座っている私に掲示するようにグラスを差し出す。その暗示を汲み取り私もグラスをマスターに向けた。それはなにかをお祝いするような奇妙な瞬間。なにを祝うかは私にもわからない。
「リリィ様に」
「マスターに」
カンッとグラスを当ててふたりはそれを飲む。パッと目に入ったマスターは道化師のように不気味で感情の読めない笑みをしている。
新たな門出に私も体が少し熱い。そのときグラスに映っていた私の目はこの“ブドウジュース”よりも深く鈍い赤をしていた。救いようのない血の沼に咲いた一輪の彼岸花のような真っ赤な色。
その日、私たちは朝がくるまでそれに浸っていた。
——某執務室
「リリィ様には依頼内容をお話ししました。無論あのことは教えてません」
「わかったわ。あとはよろしく」
「承知しました、奥様」
* * *
気がついたら朝だった。確か母さんのところから帰ったあと、帰りが遅いことに海が怒っていたような。結局、家計簿を代わりにつけることになってそのまま寝落ちしたのか。
やってみてわかるけど家計簿をつけるのがこんなに面倒だとは思わなかった。特にこの時期は学費や教科書代、自治会費など経費がかさむ。やりくりするので精一杯だ。
今日は休みだし海が起きる時間にあわせてご飯を作ろう。残りの家計簿をさっさとつけて、洗濯機を回す。そろそろ海が降りてくるころだ。
フライパンに油を垂らし十分に熱する。弱火にしてから卵をふたつ落とし込む。水とブロッコリーを入れてフタをし、蒸し焼きにするのが俺流だ。できあがったら皿に移し、フライパンを軽く拭く。仕上げにベーコンとソーセージ、トーストを用意したら準備完了。あとは海を起こしに……って噂をすればなんとやら。
「お兄ちゃんおはよー」
食事の支度をして「いただきます」と手をあわせる。いつもどおり美味しそうに食べる海とたわいもない話をする。いい朝だ。目玉焼きが崩れたのをいじられたけど。
記入済みの家計簿を渡すと海チェックが入った。眉間にシワを寄せて、探偵のごとく鋭い目線で目を通す。まあよしとお褒めいただいたのでひと安心だ。
「そういえばお兄ちゃん今日バイトないの?」
「昼から教科書販売があるんだ。だから夕方からはあるよ」
夜までバイトがある日はいつも遅くに帰ってくる。海はそんな俺にあわせて遅くまで起きて晩ご飯を一緒に食べる。海が朝早く用事があるときでも、晩ご飯をラップして置いといてくれる。本当にできた妹だよ。
食事が終わり洗濯物を干そうとしたが、海が代わりにやるといってくれた。お言葉に甘えて海に託した。そうなると急に暇になり、なにかないかと探して皿を洗うことにした。ふたり分の食器は多くなく、ついでにシンクや台所近辺も綺麗にする。
ふと海の茶碗を凝視する。それは小学校のときに俺が買ってあげた小さな茶碗だ。欠けたところが一切なく、ヒビすら入ってない。
物を大切にできる人は人にも優しくなると母さんがいっていたけど、そうなのかもしれない。なにより大切に使っていることに俺はじんとする。
洗い物が終わり、ゴム手袋をしてシンクを洗う。生ゴミネットを取り替えたらコンロ周りの油汚れをとる。冷蔵庫は整理するほど物がなかった。
午前中であらかた家事は終了した。こうやって朝から動いくと暇ができる。特にやることもなくソファで横になった。
目を瞑ると微かに洗剤の香りがする。今日も天気はいいし窓越しの光でも十分日光浴はできる。次第に意識は遠くなり体も脱力してきた。このまま眠気に体を任せる。
「お兄ちゃん、食材少ないからあとでスーパーいくんだけど……ってお疲れ様お兄ちゃん」
「……ちゃん、お兄ちゃん起きて。すみれ姉きたよ」
気がつくと毛布がかけられていて、妹が耳元で俺を呼ぶ。時計を見ると正午過ぎだった。寝ぼけながら玄関にいくとすみれが待っていた。このまま待たせるのも悪いし、とりあえず中に入ってもらうことにした。
「じゃあお兄ちゃんうちスーパーいってくるね。お兄ちゃんをよろしくすみれ姉」
海はすみれとハイタッチすると元気に出かけていった。すみれはよくうちにくるし、俺も海を連れてよく島塚家にお邪魔していた。掃除もしたしいまさら恥ずかしさなどない。
飲み物でも出そうと思いすみれなにがいいか聞こうとしたが……いない。トイレにも洗面所にもお菓子が置いてある戸棚の前にもいない。どこへいったのか、まさか神隠しにでも……いやそれはない。
そこで思い出した。そういえばすみれはうちにくるとあそこへいくんだ。思い当たる部屋の襖を開けると、そこにすみれはいた。正座をし両手をあわせて目を閉じている。
「いつのありがとな。父さんも喜んでると思うよ」
ここは仏間だ。といってもこの部屋はそこそこな広さでちゃぶ台もあるため、たまにすみれの父さんとお酒を飲んでいるのを見かけた。俺とすみれもここで遊んだり、布団をひいて寝たりしていた。
しかし父さんが亡くなってからここでなにかするのはなくなった。法事くらいだろうか。お酒が飲めるようになったらここで飲みたい、父さんへの報告として。すみれはお参りし終わると悪そうに笑い出した。
「すみれチェック!」
そういうとすみれは二階に向かった。さすがすみれ、最短距離を通り、コーナーも攻めて曲がる。向かった先は俺の部屋だ。チェックといっても別にやましい物もないし、なんなら模様替えもしていない。
すみれは机の上やベッドの下を見回すが、なにもないことに少し落胆する。なにを期待したのかわからないが、先週と同じことをしても得るものはない。すみれは「つまんな」とぼやいてベッドでくつろぎ始めた。
そろそろ教科書買いにいかないとバイトに間にあわなくなる。着替えたいのだがすみれが部屋から出ていってくれない。仕方がないのでそのまま着替えることにした。昔は全然気にしなかったが今はもう高校生。それに俺も男だ、気にするときもある。
「あんた意外と筋肉あるのね」
そういうとすみれは俺の背中に優しく手を置いた。それはとても暖かくて、すっとさすられる感覚は頭の片隅に残っている。幼いころの記憶だが、面倒見のいい幼馴染みの手であり泣き虫だった俺をよく慰めてくれた手でもある。幼馴染みというのは結局腐れ縁で続いていくのかもしれない。どの思い出を切り取ってもすみれがいないページはない。
「ただ痩せてるだけだよ」
ため息まじりに返事をしたつもりでも顔は少し熱い。それをごまかすために腕をシャツの袖に通す。そのとき、すみれの温もりが全身を包んだ。
「本当に大きくなったよね空。昔はあんなに泣き虫だったのに。変わってないのは私だけかな……」
唐突な静寂に耐えられそうにもなく、すみれの腕をほどいて服を着る。そして「そんなことないさ」となぐさめるように頭に手をのせて引き続き準備をする。
「あ、あたしなにいってんだろうね。ほら早く支度して……ってあれ?」
「なにしてるの。早くいこう」
部屋のドアを開けて置き去りのすみれに向かっていう。ぷくりと頬を膨らませて俺を睨む。まあまあとすみれを落ち着かせてから、カバンを持って俺たちは家を出た。
「おー結構人いるね。時間大丈夫かな」
俺らの学校はひとつの書店が教科書の斡旋、販売を担っている。各学年ごとにブースは設けられているが、それでも人数が多いのはどうしようもない。
人をかきわけながら、始業式で配られたプリントを頼りに教科書を取っていく。この教科書が重たいし量もすごい。どうせ使わないやつもあるだろうに。
順調に集めていき、あとは古文単語帳なのだがなかなか見つからない。すみれは邪魔になるからと先に会計しにいった。途中までは一緒に取ってたのにどうしてだろう。バイトの時間が迫っているのにこういうときに限って容量が悪い。
だいぶ人も減ってゆっくり見れるようになりブースの端から端まで探した。そしてようやく見つかった。レジの近くなのが盲点だった。早速取ろうとしたとき、だれかの手が触れる。はっとし顔をあげると向こうもこちらを見ていた。いや待て、そんなことあるか。まさに晴天の霹靂、俺は衝撃のあまり顔も体も声帯も固まってしまった。
彼女はパーカーを着てフードまでかぶっていたが見間違えるはずもない。一瞬かつ遠目でしか見ていないが、この吸い込まれそうな青い目はあのときの“景色”に等しい。ここのブースにいるってことは彼女も二年生ということを示していた。
俺が動揺している間に彼女はすっとなにもなかったように単語帳を取ってレジへ向かった。
「待って……!」
その声は届かず、ベルトコンベアーのようにレジへ振りわけられた。会計が終わったあと、辺りを見回しても彼女はいなかった。彼女は俺のこと覚えていないのだろうか。いや、かりに覚えてたとしてもなんとも思わないだろう。
一瞬の出来事で放心状態の俺はひとまずすみれと合流する。すみれは待ちくたびれたようで外のベンチで干あがっていた。アジの干物を彷彿させる姿で。
冗談はさておき、すみれに声をかけると案の定遅いと一喝もらった。そしていつもの流れで飲み物を奢った。俺はそろそろバイトにいかないと。
「あんたこれからバイトでしょ。教科書家に運んであげるわよ」
それは申し訳ないと断るが、すみれはこれもらったからとペットボトルを見せた。ここはすみれに甘えて教科書の入った手提げを渡した。そしてバイトへ急ぐ。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」
土曜日はやはり人が多い。平日の居酒屋はそんなに混まないが、金曜から地獄と化す。ホールの人数も限られてくるし面倒な客に絡まれることもある。粗相した回数を数えれば夜が明けてしまうほど。そんなこと考えているとまた粗相してしまいそうだ。
客を席に誘導し、注文を届け、バッシングする。その繰り返しだ。次の注文は生ビール三杯、カシオレ一杯、麦茶二杯。この量はさすがに慣れたがいまだ運ぶとき緊張する。
奥の個室へ運んでいく途中、テーブル席に座っている小麦色の髪をした女性が目に入った。それはあまりにも唐突で、容姿も酷似していた。
家族ときているのだろうか、いやまさかそんなことがあるのだろうか。背中しか見えてないから判断はつかないが、もしあの人が彼女だったら俺はどうするだろう。
声をかける?
お冷を注ぎにいく?
いっそのことサービスとか?
少しでいい、顔が見たい。俺の心臓は二重で張り裂けそうだった。
“ガタッ!”
不注意だった俺は椅子の足に躓きよろける。とっさにオーダー品を守ろうと体を捻ったら会計しようとした客にぶつかった。さらに酔っ払ったおじさんが乾杯しようと勢いよく立ちあがり、その椅子が俺のすねにジャストヒッティング。
宙を舞ったジョッキは照明に照らされて教会のステンドグラスのように輝いていた。
「アーメン……」
「これで何度目だ! 今日粗相した分はお前の給料から引いておくからな」
店の裏に連れていかれこっ酷く怒られた。結局テーブル席にいた人は彼女ではなく、思い込みから精神と給料をすり減らす結果となった。
まあこんな俺でも雇ってくれてるのは店長の優しさなのだろう。俺も少しは役に立たないと。店に戻ると先輩や同僚に慰められた。このあとは特に大きなミスもなくシフトが終わった。
「お先に失礼します」
制服をかばんにしまい急いで帰路に着く。今日のバイトは特に疲れた。粗相したことを思い出しながら上をふと見ると、微妙にかけた月が見える。
夜道はとうに慣れているがやはり不思議な気持ちになる。不気味な月明かり、冷たい風と暗闇。見えないという好奇心がこの街全体を小説の中に閉じ込めてるみたいで俺の心はそわそわしている。
家に着いたころにはすでに二十二時を過ぎていた。カギを探しているとドアが開き海が出迎えてくれた。食事の準備は終わっているようで、玄関からでも美味しそうな香りがする。本当はお風呂を先に入りたいが、海を待たせているので急いで手洗いうがいをするか。
今日はアジの開きがメインディッシュ。海に聞くと今日特売でとても安く買えたらしい。俺の妹はテレパシーが使えるのかというようなフラグ回収だった。
「あ、すみれ姉が教科書部屋まで運んでくれたよ。あとでお礼いってよねお兄ちゃん」
確かにあの重さを海が運ぶにはつらすぎる。あとで連絡しておくか、今はこの晩ご飯を堪能したい。
食べ終わると、海は先に就寝準備を始める。お風呂が沸くまで皿洗いをする。これでもう家のことはなにもないしやっと休める。
疲れを癒すということに関して、俺はお湯に浸かるのが大好きだ。今日は特にいろいろあったせいで心身ともに疲れ果てた。その体に染みるこの感覚は極上の薬になる。
「今日も疲れたなぁ。これでやっと一日が終わる」
* * *
——某廃工場
これでまた一日が始まる。
今日のターゲットは竹田組の幹部ふたり。依頼書によると今日この倉庫で麻薬の取引があるらしい。それを阻止してふたりを暗殺すれば私の勝ち。ゲームの難易度としてはそう高くない。
しかし、やっかいなのは取引をどう阻止するか。いつもなら取引終了後、ターゲットがでてきたところを狙う。そのほうがだれにも見られず死体も処理しやすい。
依頼者はおそらく竹田組と因縁を持つもの。竹田組が取引にこないとわかれば取引先は別な相手を探す。そしてその新しい取引候補に名乗り出るのがこの依頼者ってところだろう。
さしずめ暗殺を依頼するやつにロクなやつはいない。竹田組はそこそこ勢力があるが、殺りたければ自分で殺ればいいだけの話。動機も手法も汚ければ根底もゲスい。まあ暗殺業をしている私がいえたことではないけど。
「アニキ、今日の“ブツ”は上物らしいですぜい」
「これで竹田組も俺らの未来も安泰だな」
距離にして三〇〇ヤード。今日は風が少し強い。
相手に気づかれないようにコンテナや配管、ガレキの陰に隠れて尾行する。奴らが取引場所につくのも時間の問題。少しでも隙を見せたらためらわずに撃つ。
足音に細心の注意を払って滑り込むように壁からコンテナへ、コンテナから廃材へと移動していく。ターゲットとの距離一四〇ヤード。少々近づき過ぎたか。しかしこうも障害物が多いと遠距離からの狙撃は厳しい。なにか決定的な安全地帯があれば……。
ターゲットの動向を警戒しつつ辺りを見渡してみる。すると一箇所、老朽化が比較的進んでない建物を見つけた。私は回り道をしてその建物へ向かった。
案の定、そこの建物は床が朽ちてなく、ちゃんと使えるものでかつ見渡しがいい。階段で上へあがると広々とした空間に出た。古びたモニターや大きな窓から察するにこの建物は警備室か管理塔だろう。
タイムリミットが迫っている。ガラスが割れて風通しのいい窓から確認する。ターゲットと倉庫までの距離約二五〇ヤード。ここで仕留める。
“カチャ”
弾を装填して銃口をふたりに向ける。ターゲットはいまだ悠然と歩いている。そして月の光に照らされてその姿があらわになった次の瞬間——
“カランッ”
放たれた銃弾は風を切っては三〇〇ヤード離れた場所を歩くふたりの頭を同時に貫通した。すぐさまリロードして構えたが、ふたりが倒れているのを確認すると銃をおろした。装填された弾を取り外し武装を解除する。
やっかいな依頼だったがなんとか達成できたことに嬉しさはなかった。余裕ぶるわけではないがいまさら暗殺のひとつやふたつで感情が動くことはない。さっさと帰ってシャワーが浴びたい。
「こちらリリィ、任務か——」
「銃声はこの辺からだ! くまなく探せ!!」
外から聞こえる荒々しい声にとっさに身を隠し通信を切る。おそるおそる壁に空いた穴から確認すると、私がいる建物周辺、それと狙撃した幹部の近くに数名人がいる。着ている上着や刺青にあるあのダサい龍の模様はあそこしかない。竹田組の連中だ。
護衛もなしにふたりで取引にいくのはどうも怪しいと思ったが、最初からこいつらまともに取引する気がなかったんだ。
「ゲスどもが」
とりあえずここにいるのはまずい。相手の隙を狙って逃げるしかない。向こうが何人いるかわからない状況で行動するのははなはだ危険だが致し方ない。
弾を弾倉に詰めてライフルに装着する。予備の弾倉も含めて弾は全部で九発。できればひとりも遭遇しないでこの場を離れられれば幸いだが。
「おい! ここに足跡があるぞ!」
生やさしいことはいってられない。首にぶらさげた十字架を服の上から触れる。そして軽く目をつむり心臓の音に耳を澄ませる。ドックンドックンと冷静な彼の声が聞こえる。深くゆっくり呼吸し、十字架を軽く握った。神を信じているわけではない。信じているのはこの相棒だけ。ひとときの静寂のあと勢いよくボルトハンドル引いて銃弾を装填し、まぶたを力強く開いた。
“ゴンッ”
「あっちのほうからだ! いくぞ!」
足元にあったコンクリート片を窓の外に投げた。敵の注意がそっちに向いている隙に急いで階段をくだる。この建物の出入り口はふたつ。ドアのガラス越しにうっすら見える敵の慌ただしい動き。コンクリート片を投げた方向とは逆のドアへ急ぐ。
物陰に隠れながら警戒をおこたらず前へ進む。いつ敵が現れるかわからないため臨戦態勢で脱出を試みる。
工場から出入りできるポイントはいくつかある。一番逃げやすいのは西側の大型車両搬入用入り口。街までの距離が一番近く、そこまで逃げればやつらもさすがに襲ってこない。しかし懸念がひとつある。それはやつらが見張りをおいている場合だ。敵の人数が何人かわからない状況でいざ西口にいっても先回りされてゲームオーバー。
南は海だし、東側にある入り口は取引の倉庫を通る。竹田組の連中がそっちに向かっていてもおかしくはないし、取引相手が逃げると同時に通路を塞ぐのも考えられる。かといってこんなに高い壁をのぼるのはひと苦労だ。有刺鉄線もついてるし。
残る選択肢は北だが、あそこは情報が少なくてどういう場所かわからない。できれば無謀な賭けには出たくない。
建物の壁に沿って走っていた。そして角に差しかかったそのとき——
拳銃を握った敵とはちあわせてしまった。
その距離はほんの数センチ。目の前がスローモーションになり私の心臓がドクンと大きく動いた。相手は身長一八〇センチを超えで体格もいい。その鍛え抜かれた剛腕には龍の模様が刻まれている。さっきまではダサいといっていたが、この窮地にその考えは出てこなかった。その龍の模様が虎視眈々と私を見つめている。
殺られるまえに殺れ。
「うおっ! なんだこいつ!」
相手は出会い頭に銃を構えようとするが私のほうが反応は早かった。銃を握っている手もろとも壁に向かって蹴り潰した。壁と私の蹴りに挟まれた手は反射的に銃を手放す。痛がっている隙を与えず、追撃を与える。怯んだ相手を踏み台にして後方へ宙返りし距離を取る。そして着地と同時にトリガーに指をそえた。
「テメェ! ぜってぇ——」
「さよなら」
相手がなにかいうまえに私の銃弾がやつの脳天を撃ち抜いた。威勢のよかった巨体があっけなくバタンっと地面に倒れた。たらたらと流れる赤い液体が砂埃に染みて黒い塊になる。
残り八発。
椿が散るさまのほうがよほど美しい。形はそのままにポトリと落ちる。この男には彼岸の花が咲いてしまったようだ。
「仲間がやられたぞ! こっちだ!!」
銃声を聞きつけた竹田組の連中がゾロゾロと集まってくる。コンテナ内へ滑り込み陰に隠れる。ライフルにストラップをつけて背中にまわし、靴紐をきつく締め直した。そしてかぶっていた帽子をベルトにつけ、髪留めを外した。
「いたぞ! よくも兄貴を!!」
さっきの戦闘で緩んだ髪を束ね直してふっと息を吐く。敵が全速力で近づいているがいたって冷静。軽くストレッチをする。私の首元の数センチ先に敵の手があった。
「とった!」
勝利を確信した気味の悪い笑顔で私を見てくる。しかしそれはあんたの妄想でしかない。わざわざコンテナの中を通って私のいる端まできたのが運の尽き。
すぐさまコンテナの上につかまり、相手の頭を股で挟みヘッドシザーズをきめる。あいにく相手の表情は見えないが、頸動脈を絞めて口や鼻の呼吸器官も塞いでいる。もってあと数秒だろう。
すると最後の力を振り絞って腰についているナイフを取ろうとした。
「それはだめ」
コンテナにつかまっている手を離して体にひねりをくわえる。そしてその勢いを利用して相手の顔面をコンテナの冷たく固い鉄板に叩きつけた。
その音を聞きつけて、またほかの仲間がやってきた。ひとまずここを離れる。
コンテナの上へあがり走り出す。敵は見境なく銃を撃ち、そこらじゅうに銃弾が跳弾する。激しい銃声と銃弾がコンテナや地面に当たる音が耳をさす。コンテナからコンテナへ弾幕を避けるように跳躍し工場内を駆け巡る。建物の陰に隠れ、ガラスのない窓を利用してチェイスする。
どこにいってもあいつらと出くわす。ざっと数えて十人ってところか。残弾数を考えれば殺れないこともない。しかし、西口の様子を確かめたいところ。チェイスしているうちにだいぶ離されたがいくしかない。
「見つけだぜ子猫ちゃん」
月明かりに照らされてくっきりと見えた。痩せ型で高身長の男が壁にナイフをじりじりとこすりつけながらこっちに迫っている。これならすぐに——
「おっと俺のことも忘れないでほしいなー」
反対側にもうひとり敵がいた。挟まれた。
しかも片方はすでに銃口を私に向けている。じりじり近づいてくる敵、背中は壁。ライフルを構える余裕もなく一定の距離があるふたりを相手にするのは至難の業。万事休すか。
「死ねぇぇぇ!!」
私に深く刺さったそれは赤い血をぽたぽたと流れさせた。
“バリンッ!!”
私の背中は建物の壁、そこには窓があった。もうこうするしかなかった。銃弾が発射されるまえに私は全力で窓を割った。そして散ったガラス片で敵が怯んでいるうちにその窓から建物の中に入った。ほぼ捨て身でガラスを破り転がり込んだので、手と体に複数の傷を負ってしまった。
手に刺さったガラスを抜いて、建物の中心へ歩き出す。そこはとても広々とした空間で壁際には木箱や機械などがちらほらあった。おそらく取引のブツをここに置いているのだろう。
穴の空いた天井からさす月光が私を優しく包んでくれた。そこは不思議なくらい静寂で海のせせらぎも聞こえる。
「海……ってまさか」
「そのまさかですよ」
ギーっと重々しい金属音とともに巨大なシャッターが開いた。そこから見えたのは波立つ海。そこに現れたのはスーツに上着を羽織ったひとりの男性。ゆっくりと足音を立てながら近づいてきた。
その上着にはあの龍の模様があった。
「うちの弟たちをよくも可愛がってくましたね。パパが聞いたらなんていうか」
タバコを出して口元に持っていく。火のついたタバコをすーっと吸い込んで白い煙をはーっと吐き出す。そしてタバコを片手に悠々と話し始めた。
「おっと自己紹介がまだでした。私は竹田組の次期組長、竹田場斎。現組長竹田秀角の実の息子です。以後おめしりおきを」
変な名前が気になり、長々とした自己紹介は半ば聞き流していた。この建物はまるで倉庫。この辺りで倉庫といえばあそこしかない。
「取引相手には逃げられちゃいましたからねぇ。あなただけでも殺さないと腹の虫が収まらないんですよ」
あのときは必死で逃げていたから気づかなかったが、まさかここに誘導されていたなんて。まんまと相手の罠にハマった自分に少しムカついた。
目の前にはあの男ひとり、しかし気配は明らかに多数だ。こんな状況からどう逃げる。
「気配消す練習したほうがいいんじゃない?」
「おやおや気づいてたんですね。なら隠す必要もないですね」
すると窓や木箱の裏、そして入り口から蟻の大群のようにわんさかと敵が湧いてきた。そいつらは私を囲むように各々武器を持ってニタニタと笑っている。
ざっと百人。
残弾数八発。
おそらくこれが竹田組の総力だろう。こうなってしまえば実質選択肢はひとつ。汚れるからあまりしたくないんだけど。相手の出方次第で私は口を開く。
「そのお花刈り取らせていただきますね。あ、違いますね……踏みにじりますねぇ!」
狂気に侵された男は白目をむいて高笑いしていた。それに同調するように周りの仲間もちらほらと笑い出し、私の生き場をなくす。あまりしたくなかったがやるしかない。
私は時計で時間を確認する。
“2:46”
「時間の確認なんて必要ないですよ。もう死ぬんですから」
私は大人数を相手にするのが得意じゃない。ましてや組の全員とやりあうのはまずい。
だって殲滅しちゃうから。
「五分」
私はそう呟いた。意気揚々としている彼らは気にかけず、軽くストレッチした。
スーツの男はタバコを吸い終わったようで、吸い殻をぽいと捨てた。右手をあげて周りを静かにさせる。
「それは死へのカウントダウンですか。まあいいでしょう。殺れ」
四方八方にいた敵が私めがけて一斉に襲ってきた。その間あの男は新しいタバコに火をつけていた。呑気なやつだ。
木箱の上から狙撃するやつ、ナイフを持って斬りかかってくるやつ、鉄パイプを振り回すやつなど個性豊かだった。
私は腰につけていた物を取り外し真下に投げた。そして襲いにきた敵の体を利用して空中へ逃げる。
次の瞬間、太陽のようなまばゆい光と耳をつんざく爆音が炸裂した。近くにいた敵は固まったように身動きが取れなくなっており、木箱の上にいた者も怯んで足を滑らしていた。
「フラッシュバンか……小賢しい!」
ストレッチのとき、密かに耳栓をつけておいてよかった。それを外し今度は太ももに備えてあったナイフを取り出し戦闘開始。
拳銃を持っているやつらから優先的に狙っていく。両手が塞がっている状態での接近戦は場数を踏んだ者でしか対処できない。防御体制から一気に近づいてその刃で首を切る。
残り九十九人。
すかさず近くにいた敵に向かって足蹴りをくわえる。そして背後をとり仕留める。接近してきた敵の銃を奪いそのまま撃ち込む。そして一発も外さず的確に脳天を撃ち抜いて弾切れになった。
「なんだよ……あいつ。バケモンか」
私がかわした銃弾が後ろの敵に当たる。跳ねるように木箱を駆けあがり、銃を奪って狙撃する。弾切れになるとまた下に降りてナイフを振り回す。接近してきた相手の一撃をいなして裏拳をくらわす。そしてその勢いのまま回転してナイフで切り込む。
ゆっくりと立ちあがった私は血塗れで、ナイフはすでに紅色に染まっていた。滴る血がぽたぽたと地面を打ち、その音が倉庫内に響き渡った。
残り四十二人。
敵はその場で立ち尽くして私を見ていた。瞳孔を極限まで狭めて、本能的に拒絶している。殺るか殺られるかの戦いではなく、一方的な惨殺に恐れをなしている。そこらじゅうに転がっている死体を見れば一目瞭然。そのほとんどが首と頭にしか傷がついていない。
それでも私はいたって冷静で、無表情のままさっき殺した相手の服でナイフの血を拭き取っている。まるでそれが当たり前のようになに食わぬ顔でナイフを手入れしてライフルを構えた。
「接近戦だ! 銃は捨てろ! 絶対に奪われるなよ!」
だれかのかけ声とともにまた奮い立つ。私はこの倉庫の一番高い場所まで一気に走った。コンテナに登ってさらに木箱の上へいく。よじ登ってくる敵をライフルで仕留める。
残弾数七発。
残弾数六発。
マガジンを取り替え、狙撃する。数がどんどん減っていき順調に思えたが、穴の空いた天井からさす月の光で目が眩んでしまった。その一瞬の隙を狙われ、私は背後を取られてしまった。
「これでおしまいだ!」
首を絞められ足が浮いている。指の力が入らなくなって目の前がかすむ。ナイフを取りたいが今この手を離せば一気に首が絞まりゲームオーバー。タイムリミットはすぐそこに迫っている。
「あばよ!」
さらに力を込める。みしみしと私の体が悲鳴をあげている。こんなところで、こんなやつにやられてたまるか……!
最後の力を振り絞って体を揺らし捻りをくわえる。すると敵が体勢を崩して足を滑らす。そして私ごとなだれるように地面に落ちた。頭を打った敵は意識が朦朧としており四つん這いになっていた。私はこの隙を逃すまいとそいつの腹を思いっきり蹴り、仰向けにする。そして脳天に向かって銃を突きつけた。
「お前まさか、ブルーカーバン……」
“カランッ”
残弾数一発。
残り三十人。
見るも無惨に散っていったこいつの最期の声が仲間をびびらす。おそらくこの組でも腕っぷしはよかったのかもしれない。まあ私の知ったことではないが。
倉庫の中央へいき広々とした空間でナイフを持って敵を待つ。中指を立てると一斉にやってきた。
足を払い転んだところを馬乗りになって仕留める。そのまま前方にナイフを投げて喉元に刺す。あれよあれよという間に人数は減っていった。死に際の悲鳴は讃美歌のように美しくも思えた。月光に照らされて花びらをまいて散っていく。私は月のスポットライトと赤黒い脚光を浴びて踊っている。それなのに踊り終わってもいつも歓声はない。
膝立ちしている男の胸ぐらを掴んで持ちあげる。口を魚のようにパクパクさせて目からは大量の涙を流している。なにかいいたげな表情だが興味はない。一度彼の肩でナイフの血を拭いてからスパッと首を切った。
残り一人。
散乱する死体を避けて最後のひとりの元へいく。スーツを着て悠長にタバコを吸ってなにもしていないあいつ。シャッターが開いた大きな出入り口でなにをするわけでもなく佇んでいた。逆光で見えにくいが膝やタバコを持っている手が小刻みに震えていた。
「お、俺をこ、殺したら……パパがくるぞ! そ、それでもいいのか!」
余裕のなくなった彼はゆっくり近づいてくる私に怯えて崩れるように座り込んだ。そして私はそんな彼の緩んだネクタイを締めて襟をなおし、そのまま右手を顔の横へ滑らして血塗れの親指で耳をいじり耳元でつぶやいた。
「ハウス」
赤い目をした私が彼の瞳をに映る。怯えた仔犬はこの世の終わりを察してらしく、体を震わせ盛大に失禁した。そして悲鳴をあげながらギクシャクな動きで逃げていった。
あとに残ったのは静寂だけで波の音すら今は聞こえない。血生臭さに混じった潮の香りが心を落ち着かせる。
「またやっちゃった」
“2:52”
「ノルマクリアならずか」
時計をすっと袖に隠してぼんやりと海を眺めた。キラキラと輝く海が私の心も洗い流してくれそうで、いつまでも見ていたかった。私は大きく深呼吸をしてなにごともなかったようにこの場をさった。
——某事務所
「だから俺はいったんだ! あの取引相手をさっさと殺してブツを奪えばよかったんだ! 伐採だ伐採!!」
「息子がこんな失態するなんて。それにああいうのは熟成させて収穫するもんだよ。収穫だよ収穫!」
「伐採!」
「収穫!」
「七面倒くさい」
「「え……?」」
残弾数ゼロ。
* * *
“今日未明、指定暴力団竹田組の領主竹田秀角五十九歳と、その息子竹田場斎三十三歳が事務所で遺体となって発見されました。鑑識によると遺体は死後二、三日で額に銃弾の跡があり、現場には争った痕跡がないことから警察は内部犯の可能性を視野に入れて捜査しているそうです。また、ほかの構成員の行方がわかっておらず、ほかの暴力団の介入の可能性が——”
今日はいよいよ登校日だ。本格的に学校生活が始まるこの日に少しワクワクする。昨日のうちに教科書に名前を書いて、使わないものは棚にしまった。あとは授業の始まりとともにその真新しい表紙を折り曲げるだけ。自分のものになった感覚がより一層増す。
「お兄ちゃん今日なんだか嬉しそう」
一緒に食事をしている海もなんだか嬉しそうで、その理由は俺と同じだと思う。クラスメイトも担任も中学2年生のときと変わらず、新鮮味は感じにくいが、最高学年になり毎日がかけがいのない思い出になっていく。今日はそれらの駆け出しなんだ。
今日は珍しく海が弁当を作ってくれた。そわそわして早めに起きちゃったのかもしれない。妹の手料理はそんじょそこらの飲食店よりも美味しい。そしてなにより作ってくれたその気持ちだけで嬉しくなる。
「海、忘れ物には気をつけるんだぞ」
「もちろん。お兄ちゃんこそ遅刻しないでね」
賑やかな食事も終わりそれぞれ支度する。いつもは憂鬱な月曜日だがなんだか清々しい気分だ。食器を洗うのも制服に着替えるのも体が軽く、まったく疲れを感じない。
ふたり同時に部屋から出てきて「うちが一番!」と海は元気に階段をくだっていった。歳はそんなに離れていないはずなんだけどすでに老いを感じる。
出遅れた俺は転ばないようにゆっくりとくだり、海と仏間で合流する。家を出るまえに父さんの遺影に「いってきます」と声をかける。
ひとつの靴べらを仲良く使い、トントンと爪先を打って靴を整える。
「よし、いくか」
カギを持って玄関を出ようとドアに手を伸ばした瞬間——
「おっはようございまーす!」
いきなりドアが開いて俺はよろけた。こんな朝から元気なのはあいつしかいない。
「すみれ姉おはよー」
相変わらず突然現れるすみれはにこにこだ。今日朝練がないため一緒に登校するらしいが、それならそうと連絡くれてもよかったのに。まあ海が嬉しそうだしよしとするか。
「あ、待って! テレビ消してなかった! うち消してくるね」
すると風の子のようにヒューンとリビングにかけていった。すみれは「かわいいねぇ」と自分の歳と比べた感想を述べた。
“続いてのニュースです。今度はアメリカで謎の爆発が起きました。現場の——”
カバンを揺らして俺たちの前でピタッと止まり「お待たせ」と元気にいう。
さて今度こそ学校へいこうか。今回はすみれもいるし遅刻する心配はなさそう。まだ桜は咲いているしもしかするとあの“景色“、いや彼女にあえるかもしれない。そう思った俺は春風を切りながら自転車を漕ぎ出した。
午前八時三十分、ホームルームが始まった。まだ慣れないクラスだが居心地はよさそう、そう直感で思った。
担任の先生はすでに名前と顔を覚えたらしく欠席者を確認する。季節外れのインフルエンザがひとり、遅刻がひとり、滑り込みがふたり。初日からまあまあ情報量が多い。
担任の話し声を聞いてるとなんだか眠くなる。退屈だからというわけではなく、この人の声は根本的に優しい声をしているのだ。それは世界の理を知っているような、悟っているような。神父の説教を受けている心地のいい雰囲気に包まれる。今日は天気がいいからなおさらかもしれない。
俺の席は廊下側から三列目の一番後ろ。ゆえに窓からは遠い。それでも俺はぼんやりした目で窓の方を見た。
カーテンは眩しい光に照らされて金色の衣に変化する。コンキスタドールが探し求めていたエル・ドラードにはきっとあんなカーテンが揺れているだろう。
普段見慣れているはずなのにそう思うのは春のせいだろうか。あそこの空席、揺れるカーテンを眺めていてもそれが気になる。今この景色に足りないのはあの髪の色。小麦畑で陽を浴びたあの髪の色。
俺はまたしてもあの“景色”を思い浮かべてしまった。春が過ぎればもう見ることはできないだろう。それならいっそ、美しい記憶のままとっておくのも悪くないかもしれない。
担任はまだ話を続けている。少し退屈だし、授業の準備をする。そして暇つぶしに古文単語帳をペラペラと見始めた。
「俳句なんかも載ってるんだ。えーとなになに。老桜、人のとよみに……なんて読むんだこれ」
なんとなく開いたページにあった俳句が目に止まった。俺はそれが無性に気になり読み方を調べる。
「ホームルーム終わるまえにみんなに紹介しよう。入って」
ガラガラとドアが開く音がした。トントンっと小さく規則正しい音を奏でている人が歩いている。それと同時にクラス中がざわつき始めた。あちらこちらでヒソヒソと話すのが嫌でも耳に入る。そして黒板に字を書く音がする。文字を書くごとに「え、」「あ、」っと感嘆の花が咲く。ちらほら咲いた小さな花はやがて大きくなり教室をそれで満たした。
俺は古文単語帳から目を離し、ふと前を見た。その瞬間、俺の周りに風が吹いた。
「里中アマリリスです。よろしくお願いします」
風に扇られた古文単語帳はページを秒で変えていく。そして俺の瞳孔はち切れんばかりに開いた。
同じだ、まったく同じだ。
彼女だ、まさしく彼女だ。
桜吹雪が包み込むかのように教室があの“景色”になった。それは記憶の中で誇張された偶像ではなく、しっかりとした現実だった。
「親の関係でイギリスから転校しきたそうです。日本語は問題ありませんので、皆さん仲良くしてくださいね」
周りの雑音など聞こえなかった。ただ、それと同時にちょっとした違和感を覚えた。それが以前あったことのある既視感なのか、転校生という新鮮味なのかはわからない。本能的になにかを訴えている。
「席は……窓から三列目の一番後ろね。これからよろしく」
パチパチと拍手が送られるなか、彼女は表情ひとつ変えず凛といた佇まいで席へ向かった。俺を含めた周りのみんなは好奇の目を向ける。転校ということも外国というのも俺らからすればすべてが非日常で、彼女が少し羨ましく思った。
「咲き倦ねたソメイヨシノ……」
俺はぽろっと言葉を漏らした。それは故意でも恋でもなく反射的に出た言葉だった。すると彼女はそれに反応するようにパッと俺のほうを向いた。見られたことに少しびっくりしてとっさに顔を背ける。俺のことを覚えていたのか定かではないが、その目は吸い込まれそうな青色だった。
古文単語帳を見るフリして横目でチラッと彼女の方を見る。彼女はただ無機質に授業の準備をしているだけだった。
これは運命なのか偶然なのか。普遍的な学校生活のなにかが変わる予感がした。里中アマリリス、彼女に出会ったあの日から。
四月はまだこれからだ。