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【寄り道】


——東京、練馬

 (あたた)かい日差しがカーテンをすり()け部屋に充満(じゅうまん)する。春の日差しというのは冬のこたつに引けを取らない気持ちのよさだった。今なら(ねこ)の気持ちがわかりそうだ。

 布団(ふとん)(もぐ)り込み、体を(まる)めて暖かさに浸ろうとしたそのとき、アラームが鳴った。午前六時、ここで二度寝(にどね)すると取り返しがつかない気がする。少し憂鬱(ゆううつ)を感じながら急いで布団から出てカーテンを開けた。

 おぼつかない足取りで洗面台へ向かう。手早く顔を洗い、寝起きの顔に一発気合(きあ)いを入れる。そのまま台所(だいどころ)にいき、お弁当を作り始める。

 食器棚(しょっきだな)からボウルを取り出して(たまご)()き、(あぶら)を引いたフライパンに少し()らす。()らず弱火(よわび)でやるのがコツだ。ここで残った卵に(きざ)んだネギを入れるのが俺のこだわり。

 残りの溶き卵を入れて十分に火を通したら卵焼きのできあがりだ。

 冷蔵庫(れいぞうこ)をあさり、昨日の残り物をちょいと()めたらお弁当の完成。

 特に料理という料理はしていないが朝は時間がないしこれで十分(じゅうぶん)。ついでに(あま)ったものは皿によそい、ふたり分の食器をテーブルに並べれば朝ごはんも準備完了。

 時計を確認しエプロンを外しながら二階へあがる。部屋に入るまえに一応ノックするがいつも反応はない。そのままドアを開け枕元(まくらもと)へいく。

(うみ)、朝だぞ。ご飯作ったから先に顔洗ってきな」

 妹の柊木(ひいらぎ)(うみ)、朝はこんな感じだがとてもしっかりした子だ。俺よりも成績(せいせき)はいいし文句(もんく)もあまりいわない。そのうえ普段(ふだん)家事(かじ)は妹がこなしている。そんな自慢(じまん)の妹を起こして朝のルーティンは終わり。

 ふあーっとあくびをする海が椅子(いす)に座って、兄妹一緒に食事をする。

「お兄ちゃん、なんでお弁当作ったの? 今日始業式でしょ」

 はっとして苦笑(にがわら)いしながらカレンダーを見た。そこにはペンでしっかり"始業式(しぎょうしき)"と書いてある。もちろん自分の字で。春の暖かさに気が緩んだのか、はたまた学校が楽しみだったのか(さだ)かじゃない。

 しかし妹に()っ込まれるのも一種(いっしゅ)日常(にちじょう)に感じて、むしろ安心(あんしん)さすら感じる。(たよ)りがいのある兄貴(あにき)には永遠(えいえん)になれそうにないが。

「お兄ちゃんそういうとこあるよね。うちまだ中学生だけど頼っていいからね」

 妹は年齢(ねんれい)を疑うほどしっかりしている。だからこそ無理をしてほしくないと思うのは兄の心境(しんきょう)。うちがこんなんじゃなければもっと友達と遊んだりしたのかな、好きな物買ってお洒落(しゃれ)したのかな、(なら)(ごと)とかやってたのかなと考えてはいけないことを考えてしまう。

 父さんは俺が中学のときに交通事故(こうつうじこ)()くなった。あまりに突然(とつぜん)すぎてまだ小学生の海も現実(げんじつ)を受け入れられなかった。そのショックから自分の部屋にしばらく引きこもっていた。それから母さんは女手ひとつで俺らを育ててくれたが、元々病弱(びょうじゃく)だったうえに精神(せいしん)(てき)ダメージが大きく去年入院(にゅういん)した。

 親戚(しんせき)の所へいくこともできたが、母さんのお見舞(みま)いを続けたかった。そしてなによりここにはたくさんの思い出があって、出ていきたくないと子どもなりな気持ちを突き通した。

 今は無理(むり)いって親戚の経済(けいざい)(てき)支援(しえん)()けているが、いつまで続くかわからない。俺もバイトをかけ持ちして少しでも海に好きなことをさせれるように頑張っている。それでもこの家にふたりで()らすにはあまりに大きすぎて心にくるものがある。

 喪失感(そうしつかん)(さいな)まれる日々(ひび)にも関わらず、海は俺の作ったご飯を美味しそうに食べる。そんな妹を見るのが俺の数少ない(すく)いだ。


「それじゃあお兄ちゃん、いってくるね」

 海とはここでお別れ。空いているカバンを揺らして友達(ともだち)と仲良く歩いていく。俺は自転車にまたがり坂を一気(いっき)にくだった。俺の(かよ)う高校は少し離れたところにあるため自転車がマストだ。

 (かど)()がり、(はし)を渡ると平坦(へいたん)な道になる。入学当初(とうしょ)を思い出し(なつ)かしく感じる。心がそわそわする。春というのはそれだけで明るいのに今日はなんて(にぎ)やかなんだろう。

 そんな春の陽気(ようき)をまとい先を急ごうとしたとき、ひとりの男の子が目に入った。小学低学年(ていがくねん)くらいだろうか、地面に座り込んで泣いている。なにごとかと思い、自転車を()めて声をかけた。

「どうしたの?」

「走ってたらね、お(ひざ)をね……ぐすっ」

 涙なが話す男の子は転んで膝をすりむいたらしい。足元を見ると()(あたら)しい(くつ)があり、その靴紐(くつひも)がほどけていた。新学期(しんがっき)にあわせて少し大きめのを買ったのだろうと察しがつく。

 慣れてなくて(つまず)いたのか、あるいは靴紐を()んでしまったのか。俺も小さいころよく転んでいた。昔の俺とこの子の姿が重なる。

 このままではかわいそうで、応急(おうきゅう)処置(しょち)だけでもしておく。本当は傷口を洗ってからがいいが物がない。とりあえず軽くティッシュで拭いて絆創膏だけでも貼っておく。ないよりはマシだと思う。

「これでもう大丈夫だ。学校着いたら保健室(ほけんしつ)でちゃんと消毒(しょうどく)してもらうんだぞ」

 泣き止んだ男の子はお(れい)をいうと、元気に手を振って学校へ向かった。揺れるランドセルを見ながら一件落着(いっけんらくちゃく)と満足げに息を()く。

 おっと(あぶ)ない、こんなところでゆっくりしている場合じゃなかった。早く学校にいかないと新学期早々(そうそう)遅刻(ちこく)してしまう。カバンを背負い自転車に足をかけたそのとき、突然声をかけられた。

「空ちゃんじゃない、いいとこにいたわ」

 それは近所のおばさんだった。おばさんいわく、荷物を車に乗せるの手伝ってほしいとのことだ。

 見た感じ重そうな段ボールがいくつもあった。(ちから)仕事(しごと)は得意ではないが(こま)っている人を放って置けない。朝から(あせ)をかいてせっせと荷物を運ぶ。

 ひと仕事終えるとおばさんがお礼にとお茶をくれた。(たま)らず(かわ)いた(のど)に流し込むと生き返ったようにため息をした。おばさんはそのまま車へ乗り込み、俺は車が角を曲がるまで見送った。俺も学校へ急ごう、今ならまだ間にあう。


 意気揚々(いきようよう)と走り出した俺は信号(しんごう)を渡るおじいさんんお手を取り、財布(さいふ)を落とすドジなお兄さんを()いかけ、迷子の女の子を交番(こうばん)に連れていった。

 急ぐ体に反して偶然に偶然が重なる。学校があるにも関わらずあちらこちらに()り出される。別に(ことわ)ってもいいのだが、それができない性格(せいかく)(あだ)となって助けてしまう。

 時間はあっという間に過ぎ、(あた)りを見回(みわた)せど制服(せいふく)を着た人はひとりもいなかった。まだ半分程度(ていど)しかきておらず急いで自転車を漕いでいると、近くの学校のチャイムが聞こえた。その瞬間俺は遅刻を確信した。

 制服のネクタイを緩めて汗だくになった身体を冷やす。大きくため息をついた俺の足は()ぐのをやめている。

「俺ってなんでこんな性格なんだろう。まあみんなの役に立てて嬉しいけどね」

 ゆっくりと景色を眺めるように漕ぎ始めた。いつのも景色に変わりはないが、春というだけでひとまわりもふたまわりも懐かしみが大きく感じる。高校一年のときはよく道間違えてたなと思い出に(ひた)った。そしてある場所で自転車を故意(こい)に止めた。


 大東橋(だいとうばし)


 ここは俺が好きな場所だ。この時期になるとソメイヨシノが(くる)()き、お花見(はなみ)をする人もいる。下に流れる神田川(かんだがわ)心地(ここち)いい音色(ねいろ)を出している。

 ひらひらと舞った花弁(かべん)は俺の手の(こう)に乗り、まるで桜も歓迎(かんげい)してくれるかのように葉音(はおと)を響かせる。学校いって勉強するよりもここでお花見していたかった。

“キーンコーンカーンコーン”

 二回目のチャイムが鳴ってしまったらもう仕方がない。(あきら)めて学校へいこう。自転車にまたがり、重いペダルを回しだす。諦めという優越感(ゆうえつかん)罪悪感(ざいあくかん)に心が遊ばれそうだ。

 俺は名残惜しそうに桜を眺めているとふと人影が目に入った。


 そして俺はとっさに自転車のブレーキをかけた。


 着ていた制服は間違いなくうちの学校のやつ。彼女はフェンスにもたれかかって、手を伸ばし桜を眺めていた。それは表情(ひょうじょう)こそ見えないが、枝一本(いっぽん)一本(いっぽん)に話しかけるように優しく()れているのが伝わってくる。

 しかしその桜は枯れ木だ。いや微かに(つぼみ)がついている。時期(じき)に間にあわなかったのだろうか、とても寂しそうにしている。

 彼女はなぜその桜の木を見ているのだろうか、なぜ学校にいかないのか、いったいだれなんだ。そうやって彼女と老いた桜の木を見ていたそのとき、突風(とっぷう)が吹いた。

 堪らず俺は目を閉じた。砂が混じり目が痛くて開けられない。

 目を優しく(こす)りゆっくり開けるとそこには彼女が、“景色”があった——


 彼女を包むように舞いあがる桜の花弁。

 微動(びどう)だにしない彼女のなびく髪。

 精霊の(たわむ)れで不規則(ふきそく)に動く桜。


 まるで俺と彼女が同じ存在でないと暗示(あんじ)しているように現実味(げんじつみ)を帯びていなかった。こんなにも心を(うば)われたのはいつぶりだろう。少し胸が苦しい。

 彼女は不意(ふい)に小麦色の髪をかきあげて俺のほうを向いた。その目は()い込まれるほど綺麗(きれい)青色(あおいろ)で俺はつい見惚(みほ)れてしまった。

 じっと見つめてくる彼女に俺は()ずかしくなって、視線(しせん)をそらすように大慌(おおあわ)てで自転車に乗った。

 頭の中にこびりつく“景色(けしき)”は鮮明(せんめい)なものだった。後ろを振り返ってみたがそこに彼女はいなかった。



初日(しょにち)から遅刻(ちこく)なんていい度胸(どきょう)だな」

 玄関(玄関)(まえ)体育(たいいく)教師(きょうし)(つか)まり生徒指導室(せいとしどうしつ)()れていかれた。今は全校(ぜんこう)集会(しゅうかい)(ちゅう)らしく、時間も時間なんで先に教室にいくようにいわれた。

「先生、俺って何組(なんくみ)ですか? 確認するまえにここにきちゃって」

「ったくお前ってやつは。ちょっと待ってろ確か集会のまえに……」

 先生がそのまま連れていったんだろとはいえず、パイプ椅子にちょこんと座る。先生はバインダーの紙を確認して教えてくれた。

 “二年七組”、それが俺のクラスだ。

 教室に着くともちろんだれもいなく、俺は黒板に貼ってあった座席表(ざせきひょう)を確認する。思いのほか知り合いがいて、なんだか(さわ)がしくなりそうな予感(よかん)。するとふとひとりの名前が目に入った。

里中(さとなか)……アマリリス……」

 突然教室のドアが開いて、クラスメイトが戻ってきた。

「お、空きたのかよ。これで皆勤賞(かいきんしょう)なくなったな」

「今日は授業日数(にっすう)(ふく)まれませんので安心してくださいね柊木君」

 友達と担任の先生がにこやかに話しかけてくる。別に皆勤賞を狙っているわけではないが、そういわれると少し恥ずかしくなった。カバンを抱えて自分の席を探す。


 席に座ると配布物(はいふぶつ)が次々に送られてきたがそれほど重要な物でもなさそう。さらっと読んでから机に置く。

 教室を見渡(みわた)すと知らない人たち、目の前には新しい担任、手にはプリント。それらすべてが(あらた)めて新学期だと感じさせた。


 初日なだけあって今日の学校は午前中に終了した。学校にくるまえからすでにいろいろあったなとため息をつき、カバンに顔を()める。ちょうどいい気温に窓の隙間(すきま)から入ってくるそよ風がとても心地よい。

 クラスメイトはあらかた帰ったらしく教室は静かだ。このまま寝ようかな……でもだれかが俺を呼んでいる気がする。「そーらー、ねえ空ってば」と聞こえるが、空耳(そらみみ)かなと無視(むし)する。きっと疲れたせいで夢でも見ているのだろう。まただれか俺を呼んでる気がするが気にせず目を閉じる。

 クラス替えがどうなるかと思ったが、先生も優しそうだし別にボッチじゃないから問題なさそう。そういえばこのクラスに——

「空! 何回も呼びかけたのに反応しないなんて! それに初日からなんで遅刻してんのよ。あんたらしくない」

 机を叩きいきなり現れた彼女は(あき)れ顔だった。わっと(なさ)けなく驚いて飛び起きると、足が椅子に引っかかりそのまま倒れた。

「もうなにやってるの。あんたってやっぱドジよね」

 彼女は島塚(しまづか)すみれ、うちの近所に住んでいて幼稚園(ようちえん)からのつきあいになる。つまり幼馴染(おさななじ)みだ。(あらそ)いごとが苦手で人に流されやすい俺とは違い、強気(つよき)な性格。

 頭に手をついてやれやれといいたげな彼女を見るのはこれで何回目だろうか。俺は苦笑いをして立ちあがった。

 元気いっぱいなすみれがしつこく聞いてくるので、今日あったことを軽く説明した。桜のこと以外は。

「あんたって相変わらずお人好(ひとよし)しなんだから。てか、同じクラスになったのって久々じゃない? 小学校以来(いらい)だっけ」

 幼馴染みとはいえ、すみれは部活(ぶかつ)があるし俺はバイトがある。学校で会うことはあまりない。改めて制服を着ているすみれを見るとなんというか大人っぽい……いろいろと。バスケしているだけあってスタイルはいいし、顔もそこそこ……。

「ちょ、ちょっとどうしたのよ。顔になにかついてるの」

 (かがみ)を取り出して顔を確認する姿が滑稽(こっけい)で思わず笑ってしまう。

「いやなんでもない。一緒に帰ろうかすみれ」

 すみれは大きく(うなず)くと嬉しそうに自分のカバンを取りにいく。相変(あいか)わらずいつも元気でこっちも(うれ)しくなる。


「ちょっとまた信号じゃん」

「まあまあゆっくりいこうよ」

 信号に捕まったすみれは威嚇(いかく)するように歯軋(はぎし)りをしている。昼でも交通量(こうつうりょう)が多い、それが新宿だ。特に俺らが通っている八重桜高校は新宿駅の近くということもあり、人通りも多い。

「ねえママ、あの人ゴリラみたい」

「こらっ見ちゃだめ!」

 信号が青になりすみれは(いきお)いよく漕ぎだした。置いてかれ気味(ぎみ)な俺はすでに息があがっている。

 角を曲がり、川を沿い、橋を渡る。周りは桜並木、目の前では幼馴染みが元気に自転車を漕いでいる。季節の(うつ)り変わりほど心躍(こころおど)るものはない、そう思った。桜はやっぱ綺麗だな……ってそういえば……。

 そこは大東橋。横目(よこめ)に彼女がいた辺りを見るがもちろんだれもいない。やっぱ違うな、季節に(まさ)るものがある。俺はあの“景色“が忘れられない。そうぼんやりと考えていると、すみれが速度(そくど)()とし()ってきた。

「どうしたのよ、難しい顔して」

「いや、景色が綺麗だなって思って」

 ふーんと聞き流したすみれはなにげない会話を始める。そうだねとあいづちを打ちつつ後ろを振り返った。もちろんそこにはなにもない。


 またしばらくして信号待ちをしていると、すみれは難しい顔をした。

「今度はどうしたの」

「お……お腹が空いたぁ」

 そういえばお昼はまだだった。運動しているからかもしれないが、昔からよく食べる子である。すみれが「なに食べる?」と聞いてきたとき思い出した。今日は間違ってお弁当を作ったんだった。

 すみれには申し訳ないが、食べないのももったいない。

「ごめん、今日お弁当作っちゃったからいらないや」

「あ! じゃあいつものとこいこう。きっとお花見できるよ! そうと決まれば神社(じんじゃ)まで競走(きょうそう)!」

「え? ちょっと待ってすみれ、危ないってばー!」

 弱々(よわよわ)しくいったころには、すみれはもう見えなくなっていた。


「空おそーい! あたしコンビニいく余裕(よゆう)すらあったのに」

「さすがすみれだね。俺もう喉カラカラ……」

 くたくたになりながらもひとまず自転車を停め、すみれとともに公園内に入っていく。あたり一面桜で満たされている。普段はただの公園だが、この時期は遠くから人がくるほどの賑わいを見せる。

「あ、もう屋台(やたい)準備してるんだね。早いなぁもう一年()ったのか」

 特に(まつ)りというわけではないが、二週間ほどここではたこ焼きや焼き鳥などの屋台が出る。家が近所ということもあり妹を連れて毎年(おとず)れていた。そしてさらに(おく)にいくと階段がある。

「空、昔ここでよく遊んでたよね。あのジャンケンするやつ。久々にやろうよ」

「いいね。手加減しないよ」

 すみれは子供に戻ったように無邪気(むじゃき)な笑顔を見せる。ローカルルール、いやふたり独自(どくじ)のルールで始まった遊びは俺も楽しくてしょうがない。「ジャンケンポン!」「アイコで……」と童心(どうしん)に帰って遊び続けた。

「やった! 今回もあたしの勝ちね。なにか(おご)ってよ空」

四段(よんだん)()ばしはずるいよ……ルール違反(いはん)じゃないけど」

 お互いかばんを持ちながらはしゃいだせいか、息があがってる。俺らもう歳だねというとなにいってんのよと息をせはせはさせていい返された。

 勝負の結果がこうなるのはなんとなく予想(よそう)がついていた。やっぱりさっき買っておいてよかった。カバンの中から飲み物を取り出して、それをすみれに投げ渡す。

「わあびっくりした!ってこれあたしが好きなやつ」

「負けたからね」

やっと上まできたが疲れ過ぎて膝に手をつく。すみれは満足したのか、手を後ろで組んで嬉しそうに歩き出した。


ここは高稲荷(たかいなり)神社。境内は小さな社殿(しゃでん)くらいしかない。昔二度建て替えられたらしく、その建て替えを記念(きねん)する石碑(せきひ)(なら)んでいる。

 ここは保食命(うけもちのみこと)(まつ)ってて、食物の神様だと近所のおばさんが教えてくれた。初めてきたとき、ここの狛狐(こまぎつね)が怖くて泣いていたのは今となってはいい思い出だ。

 幼いころからふたりで遊び場にしていて、近所の人には(かみ)()とかいて神子(みこ)とよばれていた。

「あーお腹すいた。早く食べようよ」

 そういうとすみれは社殿の階段に腰かけた。人もこないし雨宿(あまやど)りもできる。猛暑(もうしょ)の日には日陰(ひかげ)ができ(すず)むことができる。ときが経つのを忘れるそこは俺らにとって竜宮城(りゅうぐうじょう)に等しい。ノスタルジックな時間の流れに心を奪われる。ゆえに俺はすみれよりこの場所が好きなのかもしれない。

 そんなことはつゆ知らず、すみれはコンビニ弁当のフタを開けた。俺もカバンから弁当を取り出して少し遅めの昼食を取る。

「空の弁当っていつ見ても美味しそうよね。じゃあこれいっただき!」

 俺の弁当から卵焼きがひと切れ消えた。俺のこだわりネギ卵焼きが。まあこうなるのは知っていたし、すみれが唐揚(からあ)げを一個くれた。そしてなにより美味しそうに頬張(ほおば)る姿が一番嬉しい。

「そうだ、今度海も連れてお花見しようよ。お弁当たくさん作ってくるよ」

「それ最高(さいこう)! じゃああたしは飲み物とか敷物(しきもの)準備するね」

 毎年人が多く、神社のほうにも観光にくるため、いつも食べ歩きするだけだった。海が来年(らいねん)どこの高校にいくかわからないし、単に桜をもっと楽しみたいという理由もある。


 お弁当も食べ終わり、すみれはおもむろにお菓子(かし)を食べ始める。これもいつもの光景だ。すみれは太りにくく痩せにくい体質なだといっていたが、クラスの女子が聞いたら(しゃく)(さわ)るだけだろう。

「ちょっとまた見てるし。しょうがないなぁ。ほら口開けて」

「いや別にそんなんじゃないよ……」

「そっか、あーんされるの恥ずかしいんだ。空も思春期入っちゃった感じ?」

 意識していたわけじゃないがそういわれると恥ずかしくなる。そんな俺を見てすみれが笑う。釣られてこっちまで頬が(ゆる)むじゃないか。

 すると隙ありといわんばかりにすみれが口にお菓子を入れてきた。鼻歌(はなうた)まで歌っちゃって、よほどご機嫌(きげん)なんだな。そして歌い終わったかと思うと、なにやら神妙(しんみょう)面持(おもも)ちで下を向いている。

「ねぇ空、あ、あのさ……新学期になってクラス替えもしたじゃん。可愛い子とかいた?」

「可愛い子か、今日はそんなの見る余裕なかったな」

 すみれにしては意外な言葉で、今まで告白してきた男を一刀両断(いっとうりょうだん)するほどだったのに。俺はてっきり恋愛(れんあい)に興味がないのかと思っていたが、もしかして……。

「すみれ、もしかして好きな人できたの?」

「え! いや……その……あたしね空のことが——」

 その瞬間(しゅんかん)突如(とつじょ)強い風が吹いた。桜の花びらも風の波に乗り桜吹雪(さくらふぶき)になる。とても美しい光景だ。すみれの声がかき消され、俺はまた不意に彼女のことが脳裏(のうり)に浮かぶ。

「あ、ごめん風で全然聞こえなかった。なんていったの?」

「なんでもない!」

 すみれの顔は桜のように色づいていた。周りの桜のせいかもしれない。春という季節は毎年やってくる。人の春というのも必ずやってくる。それが遺伝子(いでんし)レベルで受け()がれた人類(じんるい)の生きる(すべ)だと俺は思う。すみれに好きな人がいるなら応援(おうえん)してあげよう。幼馴染みだから。



 太陽もだいぶ(かたむ)き、俺たちは家路(いえじ)に着こうとしていた。

「空、今日このあといくの? あたしも顔出して大丈夫?」

「大丈夫だよ。きっと喜ぶと思うよ」

 俺は定期的(ていきてき)にあるとこにいっている。今日は新学期も始まったしその報告(ほうこく)にいこう。

 空が朱色(しゅいろ)()まり影が長くなる。自転車を漕ぎながら横目で自分の影を見ると、自転車の後ろに乗っていたころを思い出す。大好きな母さんの背中は暖かく安堵(あんど)を覚える。

 朝や昼に比べてゆっくり自転車を漕げる。そこで改めて街全体が夕暮(ゆうぐ)れに染まっているのに気がついた。俺はいつからこういうものに目を向けるようになったのだろう。大人になっても忘れたくない、そう思った。

 自分の感情に浸っているとあっという間に目的地(もくてきち)についた。 


“東京筑波嶺(つくばね)病院”


 精神科(せいしんか)内科(ないか)などの医療(いりょう)を中心に治療(ちりょう)研究(けんきゅう)している場所だ。そう、俺の母さんは統合性失調症とうごうせいしっちょうしょうだ。簡単にいってしまうと(うつ)のようなものと主治医(しゅじい)の人にいわれた。

 父さんが亡くなって体にムチ打ってまで俺らのために働いたんだ。夜ひとりになるとひっそり泣いていたのを俺は知っている。

 当時どう声をかければいいかわからなかった。俺もバイトや家のことをやるだけやったが、結局母さんにはなにもしてあげれず入院する羽目(はめ)になった。無力な自分がとても悔しい。

「そんな難しい顔しないで。だれが悪いとかないんだからさ」

 頭では理解しているが心がついていかない。しかし情けない顔を見せるわけにもいかない。大きく深呼吸(しんこきゅう)し病室のドアを開ける。

「あら、空きてくれたのね」

「もちろん、それに今日は俺だけじゃ——」

「おばさんお久しぶりです!」

 すみれが元気なのはいいがここは病院。看護師(かんごし)さんに咳払(せきばら)いされ逃げるように部屋に入っていく。母さんは今日も元気そうだ。すみれと久々の再会(さいかい)というのもあり、出会って早々賑やかな雰囲気に母さんは笑みをこぼす。

 しかし食事は十分に食べていないのだろうか。服の上からでもその様子に察しがつくほど()せていた。このままだとあの背中が虚像(きょぞう)になってしまう。

「今日ね、私の好きなきんぴらごぼうが出たのよ」

「そうなんですか! おばさん本当にきんぴらごぼう好きですよね」

 言葉を選んでくれてるすみれと母さんは会話が弾み、俺の入る余地はない。昔から家族同士のつきあいだったため、お(たが)い気がおけなく柊木家にとって一番の理解者でもある。

 こうしてみるとすみれは実の兄弟のようにも思えてくる。あんなゴリラ顔するやつでも気遣(きづか)いはまさに姉のそれだ。

 というかいつまできんぴらごぼうの話をするつもりだろう。今日はそれで終わりそうな勢いだ。

「そういえば、今日始業式よね。クラスはどうだったの?」

「あ、そうそう。俺は七組ですみれも同じクラスだよ」

 母さんはそれなら安心という(ふう)に手をあわせた。それから今日の出来事(できごと)を話した。遅刻したこと、高稲荷神社にいったこと、今度海も連れて花見をすること。あの“景色”については内緒(ないしょ)にしておいた。


 気がつくと時間が過ぎていて、太陽は身を隠し空にはポツポツと星が顔を見せる。そろそろ帰らないといけないので、母さんにまたくるねと伝え病室をあとにする。

「おばさん元気そうだったね。退院はいつとか聞いてる?」

「まだ詳しいことは聞かされてないけど、もうそろなんじゃないかなって俺は思ってる」

 母さんのお見舞いにいくと毎回安心する。それが母親というものなのだろう。

 家に帰ったら海に母さんの様子を伝えてやろう。また家族一緒に過ごせるように、今は長男の俺が頑張らないといけない。俺は(こぶし)を強く握った。

 おそらく家では海がご飯の準備をしていることだろう。あまり待たせると怒られるし、すみれを送り届けたら急いで帰宅する。二軒(にけん)隣の柊木家に。

「空、置いてっちゃうぞー」

「今いくよ」

 空に浮かぶ北極星(ほっきょくせい)を目印に家路につく。

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