終焉の情景画
今朝、電車に飛び込む人を見た。
その人はぐちゃぐちゃになってただの肉塊と成り果てた。肉片や大量の体液が飛び散り、ホームは一時騒然。キャーキャーと耳障りな甲高い悲鳴や、こんな時でさえカメラを構えてパシャパシャとシャッターを切る音。
偶然とはいえ、ここにいる人達は名も知れぬ誰かの死に立ち会ってしまったのだ。それにより引き起こされる感情は人それぞれだろう。
でも僕と同じ感情を抱いた人は多分いないと思う。
僕は、僕はあんな凄惨なものを見て…………興奮してしまったんだ。
その日の僕は何をしていても上の空だった。休み時間でも授業中でも。
授業中に先生が僕に「この問題を解いてみろ」と言ったにも関わらず、ボーッとして返事もしなかった僕の頭を小突いた。それを見たクラスの奴らは僕の方を向いて、クスクスと小馬鹿にしたような笑いを溢した。小突かれてようやく正気に戻った僕は出された問題を解こうとするが、いかんせん授業を聞いていなかったもので、分からないと答えたところ、また小突かれた。そのやり取りに対し、いつも猿のように不愉快極まりなく騒ぐ上谷が僕をまた馬鹿にする。そしていつものように教室に嗤いが起こる。いつも通りに。
お前達、見たことないだろ。人が死ぬ瞬間を。お前達、知らないだろ。人がぐちゃぐちゃに潰れた時の色を。
でも僕は言わない。こいつらにそんな宝物を教える必要なんてない。教えてやるものか。
日光を反射する血溜まりの眩しさ、無造作に散らばった肉片の幾何学的文様の美しさ。それを理解できるだけの高尚な知能はこいつらにはない。僕だけがそれを知っていれば良い。
授業が終われば僕は一人でトイレに向かう。群れないと不安な奴らは仲間を連れてトイレに向かう。小便器の前に立ち、ズボンのチャックを下ろすと、同じクラスの上谷率いる猿軍団がトイレに流れ込む。五つある小便器の内、僕が陣取る便器以外の四つが一気に埋まった。
一番端の小便器で用を足す僕の存在には目もくれず、下らない会話に彼らは夢中だ。「三組の吉川のパンツを昨日見た」だの、「一組の高坂は援交しているらしい」だの下世話で面白くもなんともない猥談。皆、同じ会話に夢中で同じ調子で笑っている。僕はただただ貝のように黙っていた。
一連の排泄行為に膀胱も満足したところで、チャックを上げて手を洗う。お気に入りの深夜アニメのヒロインが刺繍されたハンカチで手を拭き、自教室へと足を向けた。
教室の扉を開けると、教室中の生徒の視線が僕に集まる。そして何事も無かったかのようにそれぞれが友達との雑談に戻る。
僕が自分の席に戻れば、周りではしゃいでいた女子の群れがそそくさと距離を取り出す。教室内における、僕のいるほぼ対角線上に位置する席まで移動した。ちらちらと僕の方を向いて「あいつは暗すぎてキモい」、「あいつは何を考えているか分からない。危ないヤツだ」と好き勝手言ってくれている。
僕のことが理解出来ないのは僕の責任じゃないだろう。お前達の責任だ。お前達が僕のことを知ろうとしないからだろう。お前達の知能が僕を理解するには足りないからだろう。とんでもない責任転嫁じゃないか。
自分の席に戻ったとて、僕には僕を理解してくれるような友達はいない。だから、次の授業の用意をして、昨日買ったばかりの数学のノートにこの前に見た痩せた野良猫の絵を描いた。
休み時間終了のチャイムが鳴り、また授業が始まる。僕は相変わらずノートに猫の絵を描く。そうすると、教壇に立つ先生が板書をする手を止め、「人体における生命活動が止まればどうなるだろうか」という旨の問いを生徒達に投げかけた。その問いに僕の絵を描く手がふと止まった。今朝のことを思い出した。人が死ぬ瞬間を。
完成直前の猫の絵を放置して、記憶の許す限り今朝の情景の絵を描いてみたかったんだ。死んだ後じゃない。死ぬ瞬間だ。ぐちゃぐちゃの肉片や血飛沫が飛び散るその瞬間を。何度も何度も頭を捻って、記憶を模索して描いた。
結果、それらしい絵は描けた。けど、何か大事な肝要な部分が足りない。次のページ、そのまた次のページと何度も何度も描いてみたけど、それは全然降りてこなかった。六枚目に差し掛かろうとした時、僕を見下ろす気配がしたのでふと見上げてみると、先生が僕の真横に立っていた。「お絵かきは済んだか」と言われた。どうやら次の設問の解答を僕に頼もうとしていたらしい。分かりません、と答えると小突かれた。教室内にまた嗤いが起こった。
学校が終わって放課後、最終下校時刻。下校時刻直後の電車は混むし騒がしいから、その時間を避けてずっと教室で今朝のあの瞬間を必死に想起しながら絵を描いていた。でも描けなかった。何十枚と描いてみたけど駄目だった。新品だった数学のノートはその絵で全部埋まり、教室のゴミ箱に捨てた。
ホームで電車を待っていると、クラスの人気者の澤田さんが僕に声をかけてきてくれた。彼女の話によると、バスケ部の練習が意外と遅くまで続き、マネージャーとして練習の後片付けをしているとこんな時間になったらしい。
彼女は美人だ。それこそ昨今人気のアイドルグループのセンターすら目じゃないほどに。そして僕を理解してくれている。
クラスの、いや学校中の下らない奴らの中でも澤田さんは別だ。あんな下らない連中に絡まれる彼女が可哀想だ。彼女は優しい、優しすぎる。有象無象の下らないオタク連中や猿軍団、男を勝手に格付けする姦しい女連中にも優しさを平等に分け与えている。明るく笑いかける。そんなことをすれば勘違いする奴が出てくるに違いないのに。
澤田さんは僕と肩を並べて電車を待つ。「三週間後のテストが憂鬱だ」とか、「一組の本多さんと三組の戸川くんが付き合っている」だと僕の知らないことや胸の内を吐き出してくれる。僕は彼女だけには相槌を打つ。あなたの話を聞いていますよ、あなたの言葉をちゃんと受け止めていますよ、と真摯にアピールする。彼女だけは別だから。
十九時四十五分、構内アナウンスが流れた。もうすぐ特急列車が通過すると。その時、僕に天啓が降りた。
真っ暗闇から特急列車がぬっと姿を現す。相変わらず澤田さんは僕に話しかけてくれている。時々、僕の顔を見てにっこり笑いかけてくれる。
大丈夫、大丈夫、大丈夫だよ。彼女なら僕のことを分かってくれるさ。それに彼女ならもっと綺麗なはずだから。見てみたいから。
列車がホームに差し掛かる。
その瞬間、僕は澤田さんの背中を強く押した。
彼女の顔は見えなかったけど、「え」という声だけは聞こえた。こんな素っ頓狂な声でさえ美しいのだから、彼女は本当に素晴らしい。
やがて宙を舞う彼女の体は猛スピードでホームを通過しようとした特急列車に衝突され、ばらばらのぐちゃぐちゃになった。列車の先頭車両には彼女の血液がべっとりと付いていた。
澤田さん……やっぱり君は美しかった…………。
僕はあの後、逮捕された。駅構内の監視カメラ、列車の運転台のカメラなど証拠は十分すぎるほどにあったのだし。特に拒否する意味も気持ちも、そもそもその権利もなかったから大人しく拘置されておいた。
刑事ドラマでしか見たことない取調室にも初めて入った。屈強な男が僕に詰めよって、「何故あんなことをしたのか」と聞いてきた。そんなの決まりきってるじゃないか。この人達も僕を理解するには知能の足りない可哀想な奴らなんだ。下らない連中なんだ。
でも、澤田さんのあの綺麗な、美しい瞬間を目にして舞い上がる僕は親切に教えてあげた。彼女に免じて、ね。
「絵を……描きたかったんです……。人が死ぬ瞬間の絵を…………」