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5 遥佳と真琴はドリエータで暮らし始めた1


 第7神殿から四時間程歩いた場所にある大きな街・ドリエータで、遥佳と真琴は部屋を借りることにした。

 大家は一階に住んでいるが、穏やかな性格の老夫婦だ。外階段で上がるようになっている二階と三階の部屋はそれぞれ独立していて、ちょうど二階の部屋が空いていたのだ。


「悪くないよね、ここ。お風呂も台所もあるし、部屋も三つあるし」

「そうね。三階の人は大家さんのお孫さんって話だし、そのお孫さんは留守がちっていうし、かなり気楽に暮らせるんじゃないかしら」


 (そな)()けの家具があったので、こまごまとした生活必需品だけ買えばいい。

 買い出しにはかなり役立つと知った二輪車を引きながら、二人は寝具や食器などもせっせと買いこみ、借りてから3日目にはもう何不自由なく暮らせるようにまでしてしまった。


「何より素晴らしいのは二階ということですよ、遥佳さん」

「そうですよ、真琴さん。地面に接する一階じゃないから、私達の正体もばれません」

「潜伏には最適ですな」

「ええ、我らお尋ね者の身ですからな」

「ふっふっふ。遥佳もワルよのう」

「真琴様こそ」


 お代官様ごっこをするぐらい、今の遥佳と真琴は調子こいてる状態だ。

 両親は商売をしていて、色々な場所に行ってしまうから兄妹で安心して暮らせる部屋を探しているということにした二人である。本来は怪しまれるところだが、一年の家賃を前払いできる支払い能力があった為、不愉快な口出しをされずにすんだ。


「ベンチにぴったりだったわよね、このクッション」

「そうだね。本当はソファが欲しかったけど、こうやって色々な大きさのクッションを使えば悪くないし、かえってソファみたいに布張り交換しなくてすむからいいのかも」


 備え付けの家具は、ほとんどが木製だ。できればこういう団欒用の部屋ではソファが欲しかったが、置かれていたのは木でできた大きなベンチだった。

 そのベンチを壁に寄せ、お尻が痛くならないようにと、クッションを幾つも買ってきて置いてみたら、ほとんどベッドに近い状態となって(くつろ)げる。

 ベンチの傍にあるテーブルに置いてあったカップに遥佳が手を伸ばせば、真琴が先にカップを持ち上げて口にそっと触れさせた。


「そろそろお茶も飲みごろに冷めた?」

「うん。もう大丈夫。やっぱりカップは温めない方がいいよ。こうして冷めるまで待たなきゃいけないもん」

「そうよねー。まさか熱くて飲めなくなるなんて思わなかったわ」

「ここの暖かさをなめてたよね」


 くすくす笑いながらお茶を飲めば、世界で二人きりになった気分になる。

 自分達ですらこんなに心細くなったりもするのに、優理は一人で大丈夫なのだろうか。

 けれどもそれを言い出したら不安になるので、二人とも言わないようにしていた。


「牛や鶏は餌も豊富だし心配ないよ。大家さんもいい人みたいだし、遥佳も大丈夫じゃない?」

「そうね。・・・だけどしばらくはまだ一緒にいてね、真琴」

「勿論だよ」


 いずれ自分達は離れて暮らさないと不自然な自然の恵みが集まり過ぎてしまうのだと、遥佳が説明したからだろう。

 真琴なりに、遥佳が安心して暮らせる場所を見つけようと苦心した結果、この部屋を探し出してきた。

 (わずら)わしい人間関係を避けるなら買った方が良かったのだろうが、借りる形にしたのは、家を所有してしまうと厄介なことになる可能性もあったからだ。

 所有してしまえば、その家に縛られる。


「ここは煉瓦造(れんがづく)りの建物になってるし、庭とかがあるわけじゃないし、あの第7神殿みたいなことは起きないよ。ね、遥佳。大家さんもいい人達だし」

「そうね。頑張って普通の人達に紛れて生きていかなきゃ」


 遥佳が無理に微笑めば、少年の格好をした真琴が力強く抱きしめる。

 やはり女の子二人より、男の子と女の子といった感じの方がまだ安全だ。真琴は更に髪をわざと乱して男の子っぽく振る舞っていた。何があろうと遥佳を守る気満々だ。


「本当はどうでもいい。世界の祝福が集まろうがどうだろうが。ずっとあの神殿で二人だけで暮らしたい」


 神殿の周囲に息づく自然は女神が暮らしていたこともあり、放置しておいても勝手に調節してくれるが、外の世界に出てしまえば自然は過剰に反応して植物が異常繁殖してしまうのだと、遥佳から真琴は教わった。

 試しに、二人で人のいない野原に行って座り込んでいたらやがて周囲が花畑になる。おやまぁと二人で苦笑していたら、木々が葉を茂らせて自分達へ柔らかな木陰を作り出してしまった。

 一人ならせいぜい冷たい風が吹かないことと座っている場所に柔らかい草が生える程度ですむが、二人だと相乗効果で影響も大きくなるらしい。


「私もよ。なんで私達、放っておいてもらえないの」


 遥佳も手を伸ばして抱きしめれば、真琴の心が流れこんでくる。温かく優しい、自分を心から案じている感情。

 それはまるで柔らかな陽だまりのように遥佳の心を慰める。


「遥佳と優理さえいれば、他の人なんていらない」

「大好き、真琴」


 遥佳は目を閉じた。互いの体温が熱い。


(分かってる、真琴。その気持ちが本当だってことぐらい。だけどあなたが誰かを好きになった時、今度は私を見捨てられないって思って苦しむんだわ)


 まだ初恋すら知らない自分達。いつまでも子供ではいられない。

 今はまだ少年にしか見えない真琴も、いずれははっきりした大人になるのだろう。

 遥佳は優理を思った。誰よりも自分達を大事に思っている優理は、きっと今もどこかで強く生きている。


(だから頑張らなきゃ。怖くても他人と接して生きていかないと、優理と真琴が私の為に無理するだけだもん)


 ここはもう地球ではない。

 普通の日本人の子供として生きていた時間は終わったのだ。


「本当に大好き、真琴。優理とあなただけが」

「うん」


 それでも今だけはこうして優しい気持ちの中に微睡(まどろ)んでいたい。この時間は永遠に続くものではないのだから。

 遥佳は真琴の背中に回していた手を上へと移動させ、短い黒髪を手で梳くように撫でた。


「真琴も伸ばしたらいいのに。優理みたいに、『お姉さま』とか言われるかもよ?」


 三人が通っていたのは、私立のお嬢様中学校だ。その気になれば真琴もお嬢様っぽく喋ることができる。

 言葉づかいにまで教師に口出しされない生活とはなんて素敵なんだろうと、真琴はこんな日々にも喜びを見出していた。


「やーめーてーよぉ。あの『お姉さま』っての、聞いてるだけで背中がむずがゆくなるんだから。それにいいんだ。人って結構イメージに左右されるよねー。遥佳、顔を隠してるから、完全に同じ顔って全然ばれてないし」

「それ、真琴の自分が兄ですアピールがひどかったせいじゃない?」


 実は遥佳の兄に見られるのが嬉しかったりする真琴だ。

 いつも自分は二人に生ぬるい視線で見られることが多い末の妹だったが、ここでちょっと年上っぽく振る舞えるのが嬉しかったりする。

 地球にいる時は同じ中学の制服とリボンタイだったから、すぐに双子か三つ子だと判断されていた。


「ふふーん。だけど遥佳は私のこと、『お兄さま』って呼んでもいいからね」

「絶対呼ばない」


 即答すれば、お互いにプッと噴き出してしまう。

 あははっと笑い出した二人はそのベンチにじゃれ合いながらどさっと寝転がった。大小様々なクッションに埋もれるようにして。

 遥佳が真琴の頬にそっとキスすれば、お返しにと真琴も遥佳の頬にチュッとキスしてくる。


「くすぐったいわ、真琴」

「なら笑ってもいいよ」


 もう笑い始めていたけれど、真琴が真面目な顔でそんなことを言うものだから余計に遥佳がくすくすと笑い転げる。

 そんな遥佳の前髪を掻き上げながら、真琴は嬉しそうに目を細めた。






 第7神殿からかなり離れたドリエータの街に部屋を借りたので、遥佳と真琴は街道筋にある貸し馬屋に行くのがほとんど日課になっていた。

 そういう時は遥佳も乗馬用のズボンを穿いている。


「こんにちはぁ。小父(おじ)ちゃん、今日も来たよー」

「おう、マーコット。今日も元気そうだな。ほれ、ちゃんと気をつけて乗るんだぞ。ハールカも油断して手を離すんじゃないぞ」

「はい」


 すっかり顔なじみになった店主は、ほとんど毎日のように借りる兄妹に格安で馬を貸している。というのも、二人は馬に乗る練習の為だけに借りるからだ。

 牧場内で乗っているので、馬を貸りるというより馬で遊んでいるだけだ。

 無茶な使い方をしない上、コンスタントに借りてくれる二人はいい客だった。


「そろそろ牧場の外で走らせてもいいんじゃないか、マーコット? かなり慣れただろう」

「うーん、そりゃハールカも牧場内なら早駆けできるようになったけど、道はどうなのかなぁ。人がいたりしたら危ないよね」

「歩かせるだけにすればいい。急ぐ理由もないだろう」

「じゃあ、今日は街道を歩かせてみようかな。行ってみる、ハールカ?」

「うん」


 遥佳は人見知りが激しいと言ってあるせいか、店主も真琴にばかり話しかける。

 真琴には感じられないが、この店主、あまり子供は好きじゃないらしい。


(遥佳が子供嫌いだって言うんだからそうなんだろうけど、そういうのを顔にも態度にも出さないならどうでもいいけどなぁ。遥佳って、人が他人に対して隠したいことまで感じ取っちゃうからきついよね)


 実際、こうして話していても店主のどこが子供嫌いなんだろうと、真琴には不思議だ。


「道の真ん中は馬を飛ばしていく奴がいるからな、端の方を歩かせるといい。それから人が歩いている時にはなるべく離れた手前から馬の進路を人からずらして絶対に当たらないように心がけておけば大丈夫だ。ま、馬も自分からぶつかりにいくことはまずないが、たまに馬に手を伸ばして驚かせてしまう奴がいる」

「それはびっくりするよねー。馬だって全方位を見ることなんてできないよ」

「ああ。馬は臆病だからな、いきなりそれをやられて驚いた拍子に乗り手を振り落としちまったり、後ろ脚で蹴りあげてしまうんだ。そうなったら打ち所が悪けりゃ死んじまう。特に子供にゃ気をつけろ。いきなり飛びこんでくる」

「はーい。馬なんて大きくて無敵っぽいけど、子供にも驚かされちゃうんだ」

「ああ。二人は大丈夫だと思うが、くれぐれも気をつけろよ。無理しない程度に戻って来い。ま、この街道沿いはこいつらも慣れてるから、寝てても戻ってくるがな」

「うん、気をつける。そしたら僕が先に行くね。ハールカは僕の後ろをついてくるといいよ」

「分かった」


 ハルカ、マコトという名前は呼びにくいらしいので、二人はハールカ、マーコットと名乗っていた。

 馬に跨った二人が牧場から街道の方へと歩かせようとすれば、

「ほら、マーコット、ハールカ。馬のおやつだ。もってけ」

と、店主が人参の入った袋を二人に渡してくる。


「ありがと、小父(おじ)ちゃん。じゃあ、ジェルンまで行って帰ってくる」

「ありがとうございます、小父さん」

「いいってことよ。気をつけて行って来いよ」


 折角だから第7神殿への行き来に慣れさせようと、二人はパッカパッカと馬を歩かせた。

 やがて周囲に誰もいなくなると、真琴が口を開く。


「何かあったらここを馬で走って神殿に帰ればいいよ、遥佳」

「うん。・・・ね、真琴」

「なあに?」

「あの小父(おじ)さん、どうして子供嫌いなのか分かった。昔、それで馬を暴走させられてしまって、その馬が脚を折っちゃったことがあったんだって」

「そうなんだ」

「うん。さっき、人参を渡された時に手が触って、それが流れこんできた」


 なるべく人の心を読まないようにしている遥佳だが、どうしてもコントロールできずに読んでしまうことがある。


「脚が折れた馬は殺すしかなかったの」


 他にも色々な理由で手を下すことはあったけれども、やはり店主にとってそれは辛いことだった。


「遥佳は馬の脚なんて折らないよ」

「うん。私達のこと、大事に思ってくれてるのが分かった」

「そっか。良かったね」

「うん」


 最初、二人を見た途端に店主が苦々しい感情を抱いたのが、遥佳には分かった。

 だから遥佳はあの店主が苦手だった。なるべく返事も言葉少なにしていたのはそのせいだ。

 けれども二人が牧場で馬を走らせている日々に、店主の中にある感情は変化していたのだろう。


「ま、遥佳をいつまでも嫌える人なんていないけどね。可愛いから」

「もうっ、すぐに真琴はそれなんだからっ」


 茶化してくる真琴に、遥佳が顔を赤くして小さく怒鳴りつける。

 自分達は同じ顔だというのに、何を恥ずかしげもなく真琴は自分で自分を可愛いと言っているようなことを口にするのか。

 

「本当だってば。たかだか子供嫌いだからなんてこと気にしてるんだから、遥佳ってば可愛すぎ。人なんて万人に愛されようってのが無茶なんだから、そんなこともあるさでいいんだって」

「んもうっ」


 真琴にかかれば、遥佳の立ちすくむ気持ちすらたわいないことなのだろう。

 茶化してみせることで遥佳の気を軽くしようとしてくれているのか。


(人は変わっていくのね。その感情も何もかも)


 たとえ自分を嫌っている人でも、それこそたとえば憎まれたりしていても、それでも係わり続けていればいつかその関係も変わるのかもしれない。


(私は強くなれるんだろうか)


 遥佳は、馬をゆっくりと歩かせながら焦げ茶色の(たてがみ)をそっと撫でた。

 この馬は自分達が大好きだ。それが伝わってくる。


(たとえ自分を嫌いな人でも逃げずに向かい合っていればいつかは・・・。それまで(くじ)けない心を私は持てるんだろうか)


 そこで遥佳は考えこんだ。


(うん、無理)


 理由のない悪意なんて、自分が何をしても何をしなくても相手の気を逆なでするだけだ。向かい合うより逃げた方がいい。

 

(駄目だわ、私。やっぱり生きていけないかも)


 がっくりと遥佳は項垂(うなだ)れた。


「どしたのさ、遥佳?」

「真琴。私、いざとなったら修道女(シスター)になる」

「シスター?」

「うん。そうして浮世と隔絶した世界で生きていくのよ。そうすれば大丈夫だと思うの」


 遥佳は手綱を更に強く握りしめる。


「その前にさぁ、この世界に修道院とか尼寺とかってあるの?」

「あ」


 ここは女神シアラスティネルを崇める世界だ。神官は男ばかりで構成されている。


「ばっかだなぁ。遥佳は考え過ぎなんだよ。別にそう思い詰めなくても大丈夫だって。ちゃんと遥佳が心から信じられる人にいつか出会えるよ」

「そうかなぁ」

「そうだよ。だってお母さんだって色々な人の心を読めたけど、お父さんと仲良かったんだしさ」

「お父さんはお母さんにベタ惚れだったからしょうがないもん」


 女神シアラスティネル。

 人の身でありながら女神を愛した父、タイガ。

 彼は怖くなかったのだろうか。己の心が妻に全てばれてしまうことが。


「お父さん、お母さんに隠し事とかなかったのかしら。やっぱり人に心を読まれるのって嫌よね」

「さあ? 隠し事もあったかもしれないけど、お母さん、そういう時は気づかないフリでもしてたんじゃない? ・・・ううん、違うよ。お母さん、お父さんの心を完全シャットアウトしてたよ」


 地球で暮らしていた時は、日本人の人形の中に精神だけ移していた両親だ。


「なんかさぁ、色々なことを振り返ると、お母さん、お父さんの心をわざと読まないようにしてたんじゃないかなぁーって思うんだよね。遥佳も思い出してみなよ」


 遥佳も過去の記憶を振り返ってみた。


「あ。そうよ、そうそう。お父さん、お母さんに心を読んでほしいのに読んでくれないっていじけてたことがあったわ」


 遥佳が人の心に(さと)いのは母親譲りだからと慰められていたが、なら母が人の心に敏感かといえば、子供達の体の変調には敏かったけれども父の気持ちには疎かったような気もする二人だ。


「そうだよね。じゃあお父さん、心を読まれたくないどころか読んでほしかったんだ」

「お父さん、ちょっとおかしいんじゃないかしら」

「おかしいよね。そんなの悪戯(いたずら)も内緒も全部ばれちゃうのに」

「あのね、真琴。自分が折っちゃった木の枝をよそに捨ててくればばれないってのは、心を読む・読まない関係ないのよ?」

「過ぎたことは置いといて今はお父さんだよ。心を読まれたいんだよ、男の人って」


 そこで二人は顔を見合わせた。


「それ、お父さんだけじゃない? 男の人全体じゃないと思う」

「うーん」


 しばし考えた後、真琴が重々しい感じで頷く。


「ん。じゃあ遥佳もお父さんみたいな心を読んでほしい人とお友達になればいいよ」

「多分それ、違うと思うわ」


 その時の父と母のやりとりを具体的に思い出して、遥佳は頬を少し赤らめた。


――― ひどいよ、詩在(しあ)。あれ程、俺が一緒に寝ようねって心で呼んでたのに無視するなんてさ。ずっと俺、待ってたのに。

――― 気づかなかったんだから仕方ないでしょ。あなたの心なんて聞いていたらもう恥ずかしくて生きていけなくなるのよ。それに子供達が寝るまでお話してあげる約束してたんだもの。

――― うー。そりゃ三人共可愛いから仕方ないけど、それで結局子供達と寝ることないだろ。俺のこともかまってほしいぞ。

――― はいはい。じゃ、今夜はあなたと過ごしてあげるわ、大河(たいが)

――― 約束だよ、詩在。じゃあ、いってきます。

――― いってらっしゃい、あなた。

――― パパぁ、真琴もいってらっしゃいのキスぅ。

――― ん、ほら、三人もほっぺ出して。

――― パパ、気をつけていってきてね。

――― パパ、早く帰ってきてね。キャッチボールしてね。

――― ああ、なるべく早く帰るよ。三人共気をつけて学校に行くんだぞ。

 

 夫婦関係は友人関係と全く違うだろう。


(お父さん、心を読んで読んでって感じだったわよね。私にもそんな感じで、大好きだよっていつも心で語りかけてきてたし)


 父にとっては、心を読まれることすら家族への愛情表現だったのか。父はかなりの大物だったのかもしれない。


(考えてみれば女神を女神だと知っても口説き続けたんだから、お父さんってばいい度胸してたのよ)


 いつかは自分も母のように父みたいな人と巡り合えるのだろうか。

 心を完全に閉ざしてしまえば人の心は全く読めなくなると分かっていても、突然の悪意や害意に対応できなくなると思えばそれもしかねる遥佳だ。


「結局、私が臆病なのが悪いのよね」

「なーに言ってんの。遥佳は臆病なんかじゃないよ、優しいだけだって」


 真琴がぷぷっと噴き出してから受け流す。


「私が遥佳なら、ここぞとばかりに人の弱みを握って脅すよ? だって何でも知ることができちゃうんだもん。スパイになったら、

『ふっ、どんな秘密もこの私の前では何一つ隠せはしないのだ。では報酬は例の口座に』

だよ? もうがっぽがっぽの最強人生だねっ」

「もうっ」


 真琴が心に描いたスパイ王国の総元締めといったものを感じ取り、遥佳も笑い出した。


「何それっ。私ってば全ての国の弱みを握っちゃうわけっ?」

「そっ。そして全世界の女帝として君臨すんのっ。ねっねっ、いいでしょっ?」

「どんなのよ、それっ」


 そんなことを話している内に、第7神殿がある山までやってきてしまう。


「右よーし、左よーし。遥佳さーん、接近中な敵はいますかぁー?」

「いませーん。進軍開始でぇーす」


 あたりに人がいないことを確認してから、二人は第7神殿にまで馬を進ませる。

 山のあちこちで発生している硫黄ガスだが、二人が乗る馬に対してそれが襲いかかることはなかった。






 すぐに見つかると思われた、女神の神子達。

 ギバティ王国のみならず、様々な国にも貼り紙が貼られたが、それでも未だに決定的な知らせはない。


「へー。だけどそんな小さな神子様達ならすぐ見つかりそうなもんだけどねぇ」


 店主と真琴はナッツ入りのカカオ風味焼き菓子を、ボリボリと一緒に齧っていた。作ったのは遥佳だ。


「そうだろ。だが、まだ見つからんらしい。もしかしたら人里離れた山奥とかに隠れ住んでいらっしゃるのかもしれんな。マーコットとハールカもあちこち馬を走らせてるんだ。どこぞで薄い金髪の子供達とか見なかったかい? 見つけたら大金持ちになれるらしいぞ」


 美味いがもう少し俺はビターな方がと言いながら、それでも店主は気に入ったらしくパクパクと食べている。

 カカオは子供なら甘めを、大人なら苦めを好む傾向が、この地域ではあるようだ。


「見なかったなぁ。大体、僕達ってば大きな街道から()れたりもしないしさ。僕達が見つけるぐらいならとっくに他の人達が見つけてるよ」

「そりゃそうだ」


 わっはっはと笑う貸し馬屋の店主だ。


「だけど実はこっそり、どこかのお城で暮らしてたりしてねー」

「そんなところだろうな」


 お喋りしている二人を尻目に、遥佳は寄って来た鹿毛(かげ)の鼻先を撫でてやり、持ってきた林檎をあげていた。黒っぽいその姿は迫力があるが、その目は大きくて優しい。


「おやおや。ハールカもモテモテだな。最初は見ただけで怯えてたのに」

「うん。みんな、可愛いから」


 ふんっふんっという荒い鼻息や、その引き締まった体格。見上げるような大きさの馬を初めて間近で見た時は後ずさりしてしまった。だけど毎日乗っていれば慣れてくる。

 街道沿いを毎日走らせることで、二人の太腿にも筋肉がついてきた。


(第7神殿に連れてってもらったら美味しい草や果物があるって覚えちゃったのね。なんか連れてってて、みんながおねだりモードで寄ってくるんだけど)


 借りる馬はその日その日によって違うが、毎日のように顔を見せて乗っていくものだからどの馬も二人を見たらいそいそと近寄ってくる。


「そういえばマーコット達はいつもジェルンに行ってるって言ってたな」

「うん。長閑(のどか)だしさ、馬が安全に走れるよね」


 ジェルンというのは、第7神殿に一番近い街の名前だ。遥佳と真琴が最初に買い出しに行って卵の代わりに鶏を売りつけられた街でもある。


「今日は反対方向へ行った方がいい。お偉い貴族か何かの一行が通るとかでジェルンからドリエータまでの街道は封鎖される筈だ。ああいうのに行きあった日には厄介なことになるぞ」


 苦々しげに店主が唇を歪める。

 ドリエータとは、この街の名前だ。遥佳と真琴が部屋を借りた街は、どこか女の子らしい名前を持っていた。


「そうする。じゃあ今日は大人しく野原の方へ行こうかな。街道でそういう人達と行きあっちゃったら大変そうだしね」

「そうしとけ。あ、今日はミラーとジルに乗っていってかまわんぞ」

「えっ? ミラーとジルって一番速い馬でしょっ? 僕達の練習用にいいのっ?」


 どういう風の吹き回しだと、真琴が目を大きく見開く。

 だが、店主は軽く片手を振っていなした。


「かまわん。ああいうお貴族さんとかは、一番いい馬を持ってくんだ。いや、次の街で戻してくれればいいが、いい馬こそ持ってっちまって返してきやしねえ。この際、お前さん方に使ってもらってた方が奪われずにすむってもんさ」


 苦々しげな口調に、なるほどと思った真琴だ。遥佳も心配そうに店主を見る。


「だけどいい馬がいないと小父(おじ)さんが怒られたりしない?」

「そんなことは考えなくていい、ハールカ。こんな田舎だから駄馬しかいないと答えればいいだけさ」


 店主の言い草に、遥佳が少し悲しげな表情になる。


(ひどいこと、言われちゃうんじゃないかな。だけど奪われるよりはマシなのよね)


 そういうことなら早めに連れ出してあげようと、二人は目で語り合った。


「じゃあ私達、今日は西の山の方に行ってみましょ? そうしたら何があってもかち合わないもの」

「そうだね。西なら草原が広がってるし、少しぐらい帰りが遅くなっても水も草もあるよ」


 賛同した真琴に、店主も二人がわざとその貴族一行にかち合わないよう、ゆっくりと過ごしてくるつもりだと察する。


「すまんな。だが、ああいう奴らは人の物は自分の物って思ってやがんだ」


 その言葉に頷き返しながら、真琴と遥佳は馬に乗って西の方へと走らせることにした。




 西にある山へと馬を走らせた遥佳と真琴は、草原で美味しい草を食べさせた後、一度、自分達の部屋に寄ってから貸し馬屋へ戻ろうと話し合った。


「やっぱり実力差ってあるんだねー。ミラーとジル、さすがだったよ。ジャム入りクッキー、小父さん、喜びそう。あれだけカカオクッキー食べてたもん」

「うん。甘いのはなぁって言ってたけど、本当は甘いの好きみたい」


 速さを誇っているだけあって、ジルとミラーはいつもの馬よりも格段に優れていた。

 乗せてもらえたお礼に遥佳が作ったジャム入りクッキーを店主に持っていこうと、二人は思い立ったのである。

 借りている部屋近くの道は歩いている人も多いから、二人は馬から下りて手綱を引いて歩いた。

 すると、人だかりがしている場所がある。


「まず止血をしなきゃならんっ。誰か汗のついてないシャツをくれっ」

 

 黒髪に不精髭を生やした、上半身が裸の男性が周囲に向かって叫んでいる。

 どうやら怪我した人がいて、それを手当てしているようだ。自分のシャツを使っただけでは足りなかったのだろう。


「あ。・・・や、怖い」


 くらりと、遥佳が倒れそうになる。

 あまりにも乱雑な気配に怯えたのだ。


「ちきしょうっ。何が無礼な口だよっ」


 唸るように低い声を絞り出したのは、その大怪我をしている男性の知り合いなのか。彼は慌ててシャツを脱ぐと、不精髭の男に渡した。

 自宅から洗濯済みのシャツを持ってくる人がいる。

 手当てをしている男性は髪もボサボサで粗野な印象があったが、手際よく渡されたシャツをナイフで引き裂き、包帯代わりにして止血していった。


「誰か運ぶのを手伝ってくれっ。地面の上じゃまともに手当てできんっ」

「おうっ」

「どこに運べばいいんだ、兄ちゃんっ?」

「・・・待ってっ」


 そこで遥佳の高い声が響き渡る。

 ざわっと群がっていた男達が振り返った。


「あの、・・・待って、ください」


 自分を見つめる男達の視線に、ぎゅっと胸の前で手を丸めながらも遥佳は下を向きながら数歩、進み出る。


「まだ連れてっちゃ駄目。血が出てないから分かりにくいけど、その人、左の太腿も怪我してる。・・・骨、折れてる、かも」


 手当てしていた黒髪の男性は僅かにその緑の目を見開き、確かめるように倒れている男性の太腿を触る。


「うぁっ!」


 大怪我をしていた男性は、思わずといった悲鳴をあげた。

 

「誰か添え木になるような枝をっ。板でもいいっ。持ってきてくれっ」

「これっ、使えるかいっ」


 不精髭の生えた唇を大きく開いて男が叫べば、近くの商店から細い板が運ばれてきた。


「ばっちりだっ」


 それを布で太腿に巻きつけるようにして添えると、手当てしていた男は周囲の男達に運ぶのを手伝ってくれるように頼み直す。


「助かったよ、お嬢さん。よく分かったな」

「あ。いえ」


 遥佳が分かったのは、男の意識が左の太腿の激痛を訴えていたからだ。けれども手当てされた様子はなかった。

 言うだけしかしていない。


(本当に凄いのはあの人だわ。疲れてるのに、ちゃんとお礼も言ってくれた)


 その怪我人が即席の担架(たんか)で運ばれていくのを見送ってから、2頭の手綱を持って傍に立っていた真琴に遥佳はそっと縋りついた。片手で真琴が抱きしめてくる。


「遥佳のおかげでちゃんと手当てできたんだ。凄いね、遥佳」

「痛かった。怖かった。・・・あの人、貴族の一行だなんて知らなかったの。ちょっと生意気な口を()いてしまっただけなの。だけど殴られて蹴られて切りつけられたの」

「そうなんだ」


 状況はよく分からないが、この世界で貴族というのはかなり大きな権力を持っているらしいと、真琴は思った。

 ここの法律はどうなっているのだろう。

 

「やっぱり街道に行かなくて良かったよ。さ、遥佳。やっぱり部屋に戻らないで、さっさとジルとミラー、返しに行こ? その貴族の人達がまだ残っていたりしてこっちが絡まれたら大変だもん」

「うん」


 二人は馬を連れて引き返すことにし、原っぱを通って貸し馬屋へ向かった。


「聞いてよ、小父(おじ)ちゃん。なんかその貴族の人って、生意気なこと言った人に切りつけて骨まで折ったんだって。止血する為のシャツが二枚、すぐ真っ赤になってたんだよ」

「なんだってっ」


 事情を聞いて、店主も顔をしかめる。


「そんなことで大怪我させられたんじゃたまらんな。やっぱりジル達を預けといてよかったよ。さ、マーコット、ハールカ。お前さん達も今日は早く家にお帰り。ああいう奴らは夜遅くまで酒を飲んで酒場で騒ぐ。お前さん達じゃどんなことになるか」

「そうする。またね、小父さん」

「じゃあ急いで帰ります」


 二人で手を繋ぎ、足早に部屋へと戻る。

 すると二人が暮らしている3階建ての建物は何やらかなりざわついていた。泣き叫んでいる女性の声も聞こえてくる。


「馬鹿っ、どうしてそんな馬鹿なことをしたのっ」

「あー、落ち着いてください、お母さん。彼には安静が必要です。これから熱が出ます」

「ああっ。先生っ、どうか息子を・・・っ」


 悲愴な女性の声とは対照的というべきか、男性の声はやや投げやりである。


「とりあえず落ち着いてください。手当てはしました。だから後は熱が出たらこまめに冷やしてあげないと・・・。お母さんはここに泊まりこんでかまわないので、彼の汗が出たら拭いてあげてください」


 窓が開けっ放しだからだろう。3階のやりとりが地上まで響いていた。

 そうしてほとんど留守がちだという3階の扉が開いて、黒いぼさぼさ髪の男性が外階段を下りてくる。その両手は血で赤く染まっており、すぐ後ろを大家の夫婦がついてきていた。


「まずはそっちで体を洗わせてくれる? さすがにこれじゃあね」

「久しぶりに戻ってきたと思ったら騒がしい。それでもお前が通りがかったんなら良かったよ」

「本当に。お湯を用意しておくからまずは外でその手をよーく洗いなさいね、ハミト。服はお祖父さんのを着ればいいわ。全く色々と話さなきゃいけないことが山積みよ」

「それより寝かせてくれよ、お祖母ちゃん。もう倒れそうなんだ」


 遥佳と真琴は顔を見合わせ、そうして階段を下りてきている3人を再び見上げた。

 そんな二人に気づき、先頭にいた黒髪の不精髭を生やした青年が目を丸くする。


「え? あれ? もしかしてさっきの女の子かな?」

「さっきの、・・・手当てしてた人?」


 留守が多いという大家の孫は、先程、路上で怪我人を助けていた不精髭の男性だった。






 温暖な気候の地域なので、窓を開け放せば吹き抜けていく風が気持ちいい。


「どうしよう、真琴。なんか上のお母さん、すっごく困ってそう」

「私に言われてもどうしようもないよ。手当てできる人は一階にいるけどねー」

「手当ては終わってるもの。上のお母さん、一人が不安なんだと思う」


 どちらかというと怪我人に同情している真琴に比べ、遥佳は大家の孫息子に同情していた。

 開け放された窓から、上階の泣き声が響いてくる。


「だけどさ、普通あんな大怪我してる息子がいて、誰もいない状態で放置されたら、そりゃお母さんもどうしていいか分かんないよ。私も分かんないけど」

「そうよね。・・・いいわ。行きましょ、真琴。今にも死んだらどうしようって、お母さん、とっても悲しんでる」

「それは私にも分かる。これだけ垂れ流しで泣き叫んでればね」


 3階で大怪我をした息子の看病をしている母親は、心細くて仕方がない様子だった。


「ああっ、苦しいのかいっ。可哀想に、・・・うっ、うっ、うっ」


 そんな嘆きが夜の闇を切り裂くようにして聞こえてくる。


「あんなに泣き叫ぶより、静かにしてた方が息子さんにはよほどいいと思うんだけど」

「多分、あの人が戻ってきてくれないかと思ってわざと大声で泣いているのよ。だけどね、一階だから窓閉めてるし、大家さん達は高齢で少し耳が遠いし、お孫さんは本気で疲れてるからあの程度じゃ起きないと思うの」

「そっか。どんなアピールも相手に全く気づかれてないんじゃ意味ないんだね」


 息子が発熱で(うな)される度に、母親はおろおろとして泣き叫ぶ。

 すすり泣く声を聞きながら眠るだけの根性がなかった遥佳と真琴は、3階まで行って少し手伝うことにした。

 外階段を上がっていけば、三階はあまり生活的な温かみのない部屋である。

 

「うわぁ、くさぁい。葉っぱが干されて瓶詰めされてる。ねー、ハールカ。ここテーブルとベッドと棚しかない感じだねー」

「干してる葉っぱは触っちゃ駄目よ、マーコット。これ、お薬なのよ」


 棚には様々な本が山積みされていて、埃の積もった床が不在の長さを物語っていた。

 一つしかない寝台に寝かされている怪我人の横で、椅子に座った母親が付き添っている。


小母(おば)さん。息子さん、かなり傷口が熱を持って辛いらしいの。冷やした布で首筋も拭いてあげると嬉しいと思う」

「そうなのかい。・・・あ、少し寝息が楽そうになったよ」

「脇の下もかなり汗かいてる」

「あ、本当だ」


 10代の子供達ではあまり役に立たないが、一人じゃないということで母親もちょっと落ち着いたらしい。


「僕、水を汲んでくる。冷やす布、こまめに取り替えた方がいいよね」

「私もお鍋、洗っておく。このカップに残ってるのはお薬?」

「それは真夜中になったら飲ますように言われたんだよ。こんな状態で置き去りなんて、・・・ううっ」

「泣かないで、小母さん。もうお薬飲んで治るまで寝てるしかないもの。苦いならうちからお砂糖持ってきてあげる」

「ありがとうねぇ、お嬢ちゃん」


 真琴も水を汲みに行ったり、汚れた布を洗いに行ったりするのを手伝ったものの、遥佳の方が何かと怪我人の体調変化には敏感だ。


「お薬飲ませたら、小母さんもそこのベンチで少し眠った方がいいわ。交代で休めば大丈夫でしょ。何かあったらすぐ起こすから」

「ああ、そうさせてもらうよ。だけど心配でねぇ」

「なら手を握ってあげたらいいかも。・・・ほら、小母さんが握っただけで呼吸が落ち着いた感じ」


 いつもは遥佳の方が頼りない妹だが、この場では真琴の方が頼りない感じだった。

 自分はあまり役に立たないようだと諦めた真琴は、深夜を過ぎた時点で居眠りするしかやることがない。


「小母さん、ちょっとこの縛ってるところがきついみたい」

「勝手に触れないよ。そこをほどいたら、また血が流れるんだ」

「そうなの。鬱血(うっけつ)してるけど」

「ああ、可哀想に。こんなに膨れて」


 そんな感じで夜は()けていった。


「マーコット。下から薄いお布団、持ってきて。小母さん、寝ちゃったから」

「んー。分かった」


 母親と看病を交代しつつ一晩過ごした遥佳は、思ったより良い看病人だったらしい。

 朝になってやってきた大家の孫息子にその手際を褒められた。


「おや、昨日の・・・。マーコット君とハールカちゃんだったね。学校には行ってるのかい? 用意しないと遅刻するよ。それとも今日は休むのかな」

「学校には行ってないよ。そのあたりのお勉強はもう終わってるんだ。それよりこの人、ちゃんと()てあげてよ。夜明け前に凄い汗で、ハールカがおろおろしてたんだ」

「そうか。優しい子達だね」


 大家の孫息子、ハミトは治療院で働いているそうだ。

 初めて街で見た時にはもさもさな不精髭が凄くて、髪だってぼさぼさだったから、真琴は、

(どこの浮浪者だろう。もしくは人里に出てきた黒い熊?)

などと思っていたのだが、こうして朝の光と共に現れたハミトはきちんと(ひげ)()り、人間へと進化していた。


「ハミトさん、顔面クロクマじゃなかったんだね。そうしてた方がカッコいいよ。好青年って感じで」

「前髪も切ってきて良かったよ、クマ扱いされるとは。それよりハールカちゃんはあまり寝てないようだね」

「小母さんと交代で看病してたからだよ。ハールカ、ちゃんと汗拭いてあげてたんだよ」


 なぜか遥佳のことを真琴が威張(いば)っているが、ハミトは気にしない。


「へえ。そういう仕事をしたことない割には見事なもんだ。昨日も傷のことに気づいていたし、ハールカちゃんはそういう才能でもあるのかな」


 きっちり止血の為に縛った所も、遥佳はたまに緩めて血行を促し、その上でまた縛ったりと、細かく対応していた。

 それに気づいたハミトは、遥佳の頭を撫でて褒める。


(やっぱりこの人、いい人。真琴は怪我人放置してって怒ってたけど、優しい人だわ)


 母親は否定的だったから、遥佳はこっそりと自分一人が起きている時にやっていたのだが、見よう見まねでも良かったようだ。


(私の結び方だとほどけてるのに、そういうこと言わない。傷つけないようにって思ってくれてる)


 ハミトが一階から運んできた鍋の中身は、野菜とパンを柔らかく煮たスープだった。怪我人は後で母親が食べさせるということで、皆で簡単な朝食にする。

 ハミトは治療院で働いているのだと、自己紹介した。


「ねえ、君達。学校に行ってないなら治療院でお手伝いをしてみないかい? たしかご両親が商売で不在がちなんだろう?」


 昨日は通りすがりに大怪我をしているところに行きあい、治療してあげたのはいいのだが、ハミトも寝不足状態で帰宅途中だったから、今まで死んだように眠っていたそうだ

 ボサボサだった黒髪をきちんと撫でつけたハミトは、柔らかな感情を映す緑の瞳をしていた。


「正直、人の役には立つが金にはならない仕事でね。いや、ハールカちゃん達が手伝ってくれたらとても助かるんだよ」

「はあ」


 いい子を見つけたもんだとばかりに、ハミトが遥佳に微笑みかける。


「僕はやだ。血、見るの苦手だし」


 真琴を振り返ろうとした遥佳だが、その流れを読んでいた真琴は先手を打った。


(真琴の嘘つきっ。あ、だけどそれなら私も、真琴がやらないなら自分もやりたくないって言えばいいのかしら)


 遥佳は顔を上げ、前髪の隙間からハミトを見る。


(ううっ。にこにこしてるけど、ハミトさんの目が肉食獣になってるーっ。本気で人材不足なんだって、笑顔の裏でどろどろ渦巻いてるっ。物理的な圧力さえあるーっ)


 この感情に対し、真正面から断れる人がいるのだろうか。


「あの、・・・あまり、お役に立てないと、思うんです」


 気の弱い遥佳は、自分では力不足だからというニュアンスを滲ませて逃げようとした。


「そんなことないよ。大丈夫、治療院には寝泊まりできる設備もあるからねっ」

「え。・・・それ、帰って来れないってことなんじゃ」

「そんなことないよ。だってすぐそこなんだ」

「あ、・・・はあ」


 考えてみればなかなか部屋に戻ってこない大家の孫息子は、それだけ忙しくて戻ってこられなかったということではないだろうか。

 つまり、かなりハードな仕事ではないのだろうか。


(これは、何があろうと断らなきゃいけないってものじゃ・・・。はっきりきっぱり断らなきゃいけないって奴だったんじゃないのっ? まっ、真琴っ、助けてっ)


 顔をこわばらせた遥佳は、真琴を振り返ろうとした。

 が、しかし。

 その前にがしっと遥佳の両頬を大きな手が挟む。


「断らないよね? 今更、見捨てないよね?」

「み、見捨てるだなんて。私、そんな立派なものじゃ・・・」


 屈みこんで遥佳の目を覗いてくる緑の瞳は、まるで捨てられそうになっている犬のように必死だ。


(か、顔が動かせないっ。他を見させないんですけど、この人―っ)


 優しくて穏やかだった緑の瞳が、10倍以上に大きくなったようにすら感じられた。

 もう、逃げ場はない。


「分かるんだ。君はそういう優しいいい子だよね?」

「は、・・・はい」


 遥佳に、そこでそれを断れるしたたかさといったスキルは存在しなかった。




 進化したクロクマに見せかけて、ハミトは最初から遥佳の一本釣りを狙っていたらしい。


(うーん。私には最初から興味なかった感じだなぁ。遥佳があそこで声を掛けた時から、役立つのは遥佳だって見抜いてたのかもね。まあ、別々に生きなきゃいけないなら、こういう保護者になってくれそうな人を多く確保しといて困らないけど)


 川を遡上してくる(サケ)をヒグマが必殺確保するように、ハミト熊もハールカ鮭に狙いを定めていたのだろう。マーコット(マス)は好みじゃなかったらしい。


「悪いがハールカ、そこの(たらい)を持ってきてくれないか」

「はい。後で洗ってくればいい?」

「頼むよ。ありがとな」


 ハミトは遥佳を治療院メンバーとして確保した途端、てきぱきと怪我人に煎じたお薬を飲ませて、綺麗な包帯に取り替えた。


「ところで、お母さん。治療費のことなんですが・・・」

「え? 治療費? だってそんなの、お宅が勝手にやってくれたことじゃないですか。うちは頼んでませんよ」

「・・・そりゃそうですけどねえ」

「勿論、先生には有り難いって思ってますよ? だけどお医者さんなんだから助けてくれるのって当たり前じゃないですか。本当に感謝してるんです。ありがとうございます」


 真琴はそんな様子を見ていた。遥佳は汚れた包帯を洗いに行っている。


(うーん。私達、子供なのに、遥佳に看病を任せて寝てた時もそんな気がしてたけど、結構この小母さん、たくましいなぁ。というより怒ってない様子を見ると、ハミトさん、この状況を予測してた感じ?)


 ハミトの表情にはどこか諦念(ていねん)というよりも、やってられないといった感情が浮かんでいた。


小母(おば)さん。そのハミトさん、息子さんを助ける為に自分のシャツも無駄にしたし、この部屋だって提供してくれたんだよ。しかもハミトさんが他の人に頼んでくれたから、お店の人達だって板とか持ってきてくれて助けてくれたんだよ。ある程度の支払いはしておかないと、次は助けてもらえないんじゃない?」

「子供は口出ししないどくれ」

「そりゃ僕は子供だけどさ、お薬や包帯やシャツが無料で手に入らないことぐらいは分かるよ。小母さんだってそれは分かるでしょ?」


 遥佳がいない間にと、真琴はそこで畳みかける。


「いや、それは感謝してるけど・・・」

「ハミトさんが通りがからなかったら死んでたよ、きっと。せめて気持ちだけでも払おうよ。だって同じような怪我を息子さんや小母さんがすることがあったとして、だけど2回目に通りがかった時、ハミトさんだってもう疲れてるからいいやって思っちゃうようになるだけなんだからさ」

「う。今、お金なんて持ってないんだよ。いいよ、それならうちから持ってくるよ」


 (いら)ついた様子で言い捨てると、怪我人の母親は帰宅してしまった。

 小さく(うな)されている怪我人の呼吸が室内に響く。


「ありがとな、マーコット」

「先に財布をもらっとくべきだったんじゃない?」

「いい手だが、彼は財布を持っていなかった」


 おどけた様子で目配せ(ウィンク)してくるハミトだ。


「だからハミトさん、やる気なかったんだ?」

「まあね。この街で金払いのいい客と踏み倒す奴は覚えてるさ」

「患者さんなのに客と奴になっちゃうの? 人に差をつけちゃうんだ?」


 病人や怪我人は全て患者と呼ばれるものだと思っていた真琴は、衝撃を受けた。


「どっちで呼んでもいいが、ちゃんとこっちの労力と必要経費と謝礼に見合う以上の金銭を払ってくれる人と、こっちが労力も必要経費も全て自腹でしてあげても言葉一つで終わらせる人とを、君は区別しないのかい?」

「え。うーん」

「ご両親は商売をしているそうだね。商品を売り値で買ってくれる人と、その品を無料で奪って、

『ありがとよ』

ですませる人は同じお客さんかい?」

「違うね、全然。お客さんと泥棒だよ。そっか、そりゃやる気もなくなるよね」


 真琴は、怪我人の母親が出ていった扉を見た。


(あんな大怪我した人を放置してって思ってたけど、ちゃんと手当てしてお薬飲ませて自分のベッドまで提供したんだもん。十分だよ)


 そこへ遥佳が戻ってくる。


「あのね、屋上に干してきたけどそれでいい?」

「ありがとな、ハールカ。さあ、二人共ちゃんと寝ておいで。この人は俺がいるから大丈夫だ」

「はぁい。帰ろ、マーコット」

「うん。おやすみなさい、ハミトさん」


 遥佳も眠かったらしい。

 そうして二人は二階の部屋に戻って一緒に眠った。




 後から支払いに来ると言って、一度は母親も帰宅した。

 しかしここまで支払いのことを言われてしまうと、このハミトの部屋にいつまでも息子を寝かせておくとどんなことになるのか分からないと思ったのだろうか。


「おい、そっち持て。せーので持ち上げるぞ。せーのっ」

「すまないねえ。階段で足には気をつけとくれ」


 近所の男達に頼んだらしく、昼過ぎには怪我した息子を運び出していった。僅かばかりの謝礼を置いて。

 その銅貨を見て、真琴は首を傾げる。


「普通、お医者さんってがっぽがっぽと儲かってるもんだと思ってた」

「どちらかというと、やってられるかと辞めていく奴の方が多いね。もしくは先払いで受け付けるかだ。俺にしても正直なとこ踏み倒していくだろうなと思ってたから、マーコットが味方してくれて助かったよ」


 緑色の瞳を細めてハミトが真琴の頭を優しく撫でる。


「なんかさ、これじゃ包帯代にもならないんじゃない? そりゃお金がないって言われたらそれまでだけど」

「あの、・・・ハミトさん。お菓子食べる? 私が作ったから、あまり上手じゃないけど」

「いただくよ」


 謙遜しているが、遥佳は菓子作りが得意だ。

 お小遣いのやりくりの為もあって、よく作っていた。


「小さいのに二人ともしっかりしてるね。このお菓子もとても美味しい」

「良かった。甘すぎないかって心配だったの」

「そう? 甘くないお菓子は悲しいな」


 ナッツ入りのカカオクッキーは、貸し馬屋の主人には甘いと言われたが、ハミトにはちょうど良かったようだ。

 クランベリー入りのプレーンタイプも摘まんで、ハミトは相好(そうごう)(くず)した。


「このビスケット、人にあげてもいいかい? 怒る?」

「いいけど、・・・なら、もっと持ってきたげるね。沢山あるのよ。私達、子供だからそんなに食べきれないの」

「ありがとう。ハールカはいいお嫁さんになるよ」


 遥佳が二階の部屋に置いてあった菓子を小分けして包んでくれば、ハミトはそれを持って出ていく。

 好奇心で遥佳と真琴がそれについていくと、ハミトはあの大怪我をした男性を助ける為に協力してくれたお店まで行き、お礼を言ってまわった。


「昨日はお世話になりました。あの大怪我した人はご家族が引き取っていったのですが、・・・これはこっちの女の子が焼いてくれたお菓子です。この子はとてもお菓子作りが上手なんですよ」


 誰もが笑顔で遥佳の菓子を受け取る。遥佳は、顔を赤くして下を向いてしまった。


「少ないですけど」


 新しいシャツを提供してくれた八百屋の店主には、あの母親が置いていった銅貨も一緒に差し出す。


「あのね、小父(おじ)さん。その銅貨、治療代にって置いてった全額。ハミトさん、一枚ももらってないから。小父さんにだけ少なく渡してるわけじゃないよ」


 真琴が口を挟めば、シャツを提供した八百屋の店主も苦笑し、焼き菓子は受け取ったが、銅貨は受け取らなかった。


「困った時はお互い様だ。それに先生にゃいつも世話んなってる。金は受け取れねえよ。・・・やっこさん、考えなしなことをしただけあって、支払いも考えなしなんだな」

「はは、無い袖は振れないって言われちゃあね」


 苦笑してハミトも銅貨を引っ込めたが、周囲にいた他の店の人達もやれやれといった風情だ。


「だけどさ、本当にお金なかったのかなぁ。荷馬車で連れて帰ったけど、運ぶのに使ってた毛布も高そうだったよ?」

「あのな、坊主。そりゃ治療に払う金はないっていう意味だ。物はお金を出さなきゃ買えないが、誰かがしてくれる労力はタダって考える奴は多い」


 雑貨屋の店主が真琴の疑問に答える。


「なんか報われないね、ハミトさん」

「よくあることさ」


 それで終わらせたハミトだが、遥佳と真琴を見る目は穏やかだ。


(遥佳が怯えてなくて、みんなにも好感度高い大家さんちの孫息子か。信用はできそう)


 やはりあの部屋を借りた自分は正しかったと、真琴は思った。

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