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266 一緒にいたい気持ちがあった


 折角だからと、夕食は食べて帰ってきたアルマンとカティアだが、帰宅してからのカティアはとてもご機嫌だった。

 買ってもらったポットとカップは台所の棚にしっかりと鎮座し、その棚からあふれ出ない程度ならば他にも食器を買ってもいいと言われている。

 買ってもらったガラス製のゴブレットにしても、そんなに気に入ったのならば専用で寝酒に使えばいいだろうと、女性好みの酒も買ってくれたから余計に楽しみなのだ。


(どれも風味づけしてあるだなんて。どんな味なのかしら。色も綺麗)


 台所で買ってきた食器を洗ってしまえば、汗をかいたからと湯を沸かしに行ったアルマンが戻ってくる。


「さっさと休みたい。先に湯を使うが、・・・ちゃんと後始末はできるんだよな?」

「失礼ね。あなたがいない間、この家を維持していたのは誰だと思っているの」

「家政婦の努力によるものだろ? お前一人に任せる程、愚かじゃない」


 わなっと口元が震えたが、それを押し殺してカティアは取りかかっていた作業に目を戻す。


(聞かなかったことにしましょう。そうよ、相手にしても始まらないわ)


 蒸留酒に果実や香辛料を漬けこみ、甘みを加えた酒は、妃が飲む酒としてはいささか感心しかねるといったものだった為、わざわざ飲んだことはない。

 けれども酒屋の主人が勧めてきた飲み方は、とても楽しそうだ。

 どうせ今は偽装の兵士妻なのだからと、カティアも少し自分に甘くなっていた。


「このオレンジっぽいのを絞って、そこにこのお酒を垂らせばいいのよね」

「俺はいらんぞ。甘い酒は」

「まあ。人生を損しているというものよ、それは」


 幾つか買ってもらった酒瓶は、果汁(ジュース)に垂らしたり、牛乳(ミルク)に垂らしたり、はたまた茶に垂らしたりと楽しめるらしい。

 別にオレンジではなくても柑橘系ならばいいらしいので、名前の分からないその柑橘系の実を、カティアは危なっかしい手つきで真っ二つに切る。


「貸せ」

「まあ。やっぱり飲みたくなったのね。意地を張るからよ」


 体を割りこませてナイフを取り上げる偽装の夫を見上げるようにして、カティアは、ほらごらんなさいと勝ち誇った顔になった。


「違う。見てる方が怖いんだ。なんだ、そのへっぴり腰な切り方は。何より縦割りにしてどうする」

「何が悪いと言うのっ」

「こうやって切ったら果汁があまり出てこないだろう。横割りにするべきだったんだ。断面をよく見ろ」


 酒屋で一緒に説明を聞いていたアルマンは、呆れた表情で仕方なく更に二つずつに切ってから果汁を絞り出す。

 そうしてザルで漉してから、果汁を買ってきたゴブレットに注いだ。


「ほら。次からは横に置いて切れ」

「あ、ありがとう。料理人の仕事もしてたの?」

「寄宿舎のある学校にいたことがあれば、最低限は身につく」


 そのまま浴室へと去っていったアルマンを見送るようにして、カティアは考えこんだ。


(寄宿舎のある学校。かなりあるから分からないわ。専門もどれだったかによるわね)


 封を切った酒瓶からは柑橘系の爽やかな香りと、酒精の香りが入り混じって立ち上る。

 果汁の入ったゴブレットに少し甘みを足してから、その酒を垂らした。


(どうすればいいの。ただの兵士ならば殺せた。そして陛下の隠し子だとしても、その素性が知られていないのならば問題なかった。だけど彼の存在を分かった上で兵士という肩書きながらも王城近くで保護しているとなれば・・・)


 隠された存在であろうとも、国王が把握しているこの国の王子ならば。

 彼に何かあった時には徹底的な調査が入るだろう。

 

(あそこまで似ているのだもの。もしかしたらアルマン様の影武者とするおつもりだったのかもしれないわ。アルマン様は何かと諸外国に行かれておられる。だからこそ身代わりが必要だと思っていらしたのかもしれない。私には教えていなかっただけでアルマン様がアベルの存在をご存じだったなら・・・。どうしよう、ゲオナルド様ならご存じなのかしら)


 街で見かけた第三王子ゲオナルド。

 よく考えたら彼は警備の総責任者だった。


(あまり仲がいいわけじゃないけど・・・。それでもあんなにも不真面目に生きてらっしゃるのだもの。頼めばこっそりと城まで私が私だと分からないように連れ帰ってくれる筈だわ)


 そんなことを考えて、どれくらいの時間が経っていたのか。

 頭から布をかぶった状態で、湯上り用のローブを羽織った男が声を掛けていった。


「お前も早く休め。おやすみ」

「あ、・・・おやすみ、なさい」


 あまりの素っ気なさに、取り残されたカティアは両肩の力を抜いた。

 彼が髪を洗ったことで鬘を知られないよう、さっさと自室にこもったことなど分かる筈もない。


(ひどい扱いをされたけど、・・・それからは何もされてないわ)


 誤解だと分かった時点で彼は礼儀知らずなりに自分を尊重してくれていた。

 ドルレアク侯爵家に縁のある人間だろうとカティアに迫りながらも、それで侯爵家に身代金なり口止め料なりを要求してもいないようだ。

 どう見ても彼の中での自分はただのお荷物扱いである。

 それとも自分が知らないだけで、彼は既に侯爵家に対して強請(ゆすり)(たか)りをした後なのか。


(いいえ、アベルがいい人かどうかなんて関係ないわ。たとえアルマン様のご兄弟にあたろうと、私とあんな時間を過ごしてしまったのは事実。どうすればいいの。本当に調べが入ってしまったら、お母様に不義の子がいる筈もないことはすぐ分かってしまう)


 全てを打ち明けて口止めをした方がいいのか。

 だが、隠されて育っていた人間が鬱屈(うっくつ)した思いを抱えていないとどうして言えるだろう。

 場合によっては第二王子への意趣返しにちょうどいいとばかりに利用されることもあり得る。


(どうすればいいの。私は・・・)


 カティアの問いに答えてくれる人はいなかった。



 ― ☆★ ― ★☆★ - ★☆ ―



 同じミザンガ王族の子供でも、王太子の長男であるフェリクスと、第二王子の長女であるヴァイオレットには明確な立場の差がある。

 それはいずれ国王になる王子と、臣籍降下する王女という違いだ。

 従兄妹同士として仲良く遊ぶことはあっても、れっきとした優先順位と序列がある。


「それは分かっています。だけどヴァイオレットはよくて、僕は駄目だというのは納得できません」


 あまりにも役所に人が集まりすぎていたので、滞在先を知られない為にも王城へ戻ったフェリクスは、祖父である国王と父である王太子を前にしてそう言い張った。

 城の中でも、国王の休憩室である。

 孫息子からの話を聞きたくて呼び付けた国王は、ゆったりとソファに座りながら考えこむかのように(あご)を撫でた。


「派手に色々なことをやらかして気も大きくなっているのだろうが・・・。だがな、フェリクス。お前に何かあったらどうするのだ。護衛騎士も兵士もつけてくれるなと、そんな要求を持ち出す相手であろう? ましてや狂暴で人間をも噛み殺すような犬や鳥までいるという。

 もしかしたらそれは獣人の獣の姿なのかもしれぬが、何かあった時にお前の盾になり、剣となる者を連れずに動くことが当たり前であってはならんのだ。それが国王になる立場というもの。シャレールからよく言い聞かされていたと思ったがな」

「フェリクスには二人きりでとか、秘密の時間をと、いずれ大きくなればそんな誘いが毎日のように訪れる立場だということは十分に言い聞かせてあります、父上。

 ルウカ姫が護衛を受け入れてくれればいいだけなのですが・・・。カイト殿にもお願いしたのですが、どうやらルウカ姫の方がマーコット姫よりも立場が上なのか、マーコット姫にはまだ交渉の余地があるようですが、ルウカ姫には一切の煩わしいことを持ちかけないでほしいと言われました。役所に行った時のように、少し離れた街角に護衛を配備することすら却下とのことです」


 国王と王太子は、どう言い聞かせたものかといった顔になる。


「人間というものは一度やってしまうと、一度はやったことだからと歯止めが利かなくなるものだ。フェリクス、直系の王族に真の一人の時間というものがあってはならぬ。そしてあえて危険に近づかぬ理性も必要なのだ。恐ろしいものに近寄ることは勇気ではなく無謀なだけなのだぞ」

「ですがお祖父(じい)様。その狂暴な犬や鳥に、ヴィオラだって触ったりしていたんです。僕だって見てみたいです」


 遥佳からもらった大きな羽を見せて、フェリクスは主張した。

 興味深そうに受け取り、その頑丈さを確かめた国王は、息子に目を遣る。


「鋼鉄製の羽と言われても信じてしまいそうだ。ここまで頑丈で大きな羽を持つ時点でどんな危険な鳥なのかと、空恐ろしいものがあるな」

「全くです。鷹を飼育している者に見せましたが、鷲や鷹など足元にも及ばない、どんな鳥か見てみたいと興奮していましたよ」


 シャレールはどこかおどけたような風情ながらも困惑している顔を作ってみせた。

 フェリクスの気持ちも分かるからこそ、祖父と父も迷うのである。


「そのルウカ姫とやらが護衛や訪問を受け入れてくれればいいだけなのだが、子供しか受け入れないというのであればなあ。何故、子供だけなのか。よもや子供だからと不埒な真似をしてはいないと思いたいが、さてどうなのか」

「だけどお祖父様と父上は、ルウカさんと面識があるのでしょう? ルウカさんは父上にエスコートしてもらったこともあるし、お祖父様には貸しがあると言っていました。僕と話したこともあると言っていましたが、覚えていません」


 ここで祖父と父を口説き落とせねばどうもできないと分かっているフェリクスは食い下がった。


「そのことだがね、フェリクス。セレスタンからの報告もあって調べさせているが、全く出てこないのだ。私も数多くの女性をエスコートしてきたから一々覚えていないが、ミザンガ国王に貸しだのと言える姫君はそういない。ましてやルウカという名前など全く出てはこないのだ」

「じゃあ、・・・ルウカさんは嘘を言ったのですか?」

「さてな。父上、どうします?」


 面白そうな顔になった国王は、そこで右の口角を軽く上げる。

 ホルパイン公爵からの報告も受けたが、勿論、フェリクスが危険にさらされたことには怒りを覚える気持ちもあった。けれどゴシップ記事に華々しく取り上げられてしまえば、孫息子の成長が楽しみになってもしまう。


「そのルウカ姫を王妃の茶会に招くか。そこへ顔を出せばよかろう。話はそれからだ、フェリクス。よいな?」

「ルウカさんを(いじ)めるのですか? お祖母(ばあ)様の茶会だなんて、あんなにもいい人に対してひどすぎます。話題がおかしかったとか、顔を上げるタイミングがずれていたとか、あとでネチネチ言い合うやつでしょう?」

「別に苛めたりはせぬ。あくまで非公式なものだ。貸しがあるとまで言うのならば、茶会如きで怖じ気づいたりせぬであろうよ」


 話はそれで終わりだと、国王は王妃に話を通して内輪の茶会に招くように伝えた。

 面白そうな顔で、「あら。それはいいですわね」と、引き受けた王妃だったが、カイトと真琴を通して招待状を受け取った遥佳からの返事は、「体調が思わしくないもので・・・」と、あっさりとしたお断りだった。

 

「なんとまあ。体が弱いからと断ってくるとは」


 そこまで拒絶されるとかえって会いたくなるものである。

 何より、断るという選択そのものが失礼すぎた。


「船上ティーパーティか」


 ホルパイン公爵から聞いた話を思い出し、国王はしばし考えこんだ。



 ― ★ ― ☆ - ★ ―



 一方、ヴァイオレットは遥佳の所へとカイトに連れて帰ってもらい、自分の為にと用意された子供用のお料理グッズを前に狂喜していた。


「これを使うと可愛いお菓子になるのっ? うわあ、素敵。どう使うのっ、これで目玉焼きも出来ちゃうのっ?」

「そうよ、朝ご飯はちょうちょの目玉焼きが出来ちゃうの。クッキーも色々な形が沢山ね」


 人参もじゃが芋も可愛い形にくり抜いていいのだと知って喜ぶヴァイオレットに遥佳も微笑む。

 そんな子供を前にして大人げないのはヴィゴラスだった。

 

「そうだろう。だからそれを持って城へ帰れ。ルウカには俺がいれば問題ない」

「なによ。拾われた分際で偉そうにっ」

「押しかけてこないと構ってもらえない分際で(さえず)るな」


 遥佳を中心にして、左右はとても(かまびす)しい。


「喧嘩しないの、二人共。レッティの為に買いに行ってくれたのに、どうしてそう意地悪言っちゃうの、ヴィゴラス」

「菓子につられて来ているのだ。一人で作れるようになれば追い払えるだろう。そう思って買いに行ったのだ。更にルウカに纏わりつくだなんて思わなかった」

「聞きたくなかったわ、そんな動機」


 胸を張って主張されても、心の疲労が押し寄せるだけだ。

 小さなヴァイオレットを可愛がる気持ちが生まれたのねと、喜んでいた過去の自分が虚しい。

 それでも城に戻ったフェリクスや宿に戻ったレオンと別れて帰ってきてしまう程、自分がヴァイオレットに懐かれていると思うと嬉しい遥佳だった。

 たとえヴァイオレットが、元気になったグリフォンが飛んで行ってしまったというのでがっくりしていたとしても。


「だけどルウカさんも手抜きがすぎるわ。落ちてた生き物は何でも拾ってきちゃうの? しかもどれも同じ名前をつけちゃうの? ヴィーちゃんはいいけど、人間は簡単に拾ってくるものじゃないわ。いい年した男の人がそこまでべったりだなんて非常識だと思うの。カイトさんを見習うべきよ」

「お前こそカイトを見習ってどっか行け」


 おねだりしたら遥佳のいるこの邸に連れてきてくれた上、何かとお店に寄ってくれたり、遊んでくれたりするカイトがヴァイオレットはお気に入りだ。

 どうせ部屋は沢山あるのだから、カイトもこの邸で泊まればいいのにと思っている。


(この人、私と遊んでくれない人だわ)


 子供ならではの嗅覚で、ヴィゴラスに自分を尊重する気はないことをヴァイオレットは察していた。

 

「二人共、仲良くしなさいって言ってるでしょう。あのね、レッティ。ヴィゴラスはこう見えても強いのよ。だらだらごろごろしていても、いざという時は力持ちだし、足も速いし、とっても強いの。そこまで危険なことにならない限り分かってもらえないとは思うけど、彼一人だけで十人の騎士がいるようなものなのよ。だから受け入れてちょうだい?」

「どう見ても顔だけで採用された騎士よ。騙されてるわ、ルウカさん」

「顔もいいけど、ヴィゴラスはこれで頼りになる時もあるのよ」

「ルウカさんがそう言うならそういうことにしておくけど」


 今までヴィゴラスに頼んだことの結果を思い出すと、遥佳も微妙な褒め言葉になってしまう。


「そう。俺は頼りになるのだ」

「そしてね、ヴィゴラス。ここに滞在している間、レッティは私の可愛い妹なの。ちゃんと大切に扱ってちょうだい。私はあなた一人がいてくれればいいと思ってるけど、あなたが私とレッティの二人を守れないなら、他の人も雇わなきゃいけないわ。その時は私の護衛をその人もすることになるわね。レッティは私と手を繋ぐから、その人も並んで手を繋ぐわね」

「仕方ない。そのチビも守ろう。だから余計な奴は必要ない」

「苛めるのも駄目よ? これでもレッティは傷つきやすい女の子なんだから」

「図々しい女の子にしか思えないが、ルウカがそう言うのなら苛めない」


 とりあえず二人が渋々ながらも同意したところで、遥佳は空から庭に降りてきた気配に気づいた。


「ちょっと二人共ここで待っててね。お客様だから。二人で何を食べたいか話し合っててちょうだい。今日はみんなでご飯を食べに行きましょうね」

「え? ルウカさん、来客の応対なんて、それこそこの人にさせるものじゃないの?」

「ヴィゴラスだと相手も見ずに追い返しちゃうのよ」


 早速、ヴィゴラスがあまり役に立たないことを露呈しつつ、遥佳は何故か庭ではなく二階へと上がっていく。

 そうして使っていない部屋の窓を開ければ、そうと気づいてバルコニーへと純白のペガサスが飛んできた。


「いらっしゃい、ガーネット、エレオノーラ。真琴達は宿屋に泊まってるの。王子様とレオンが仲良くなっちゃったから、こっちには来ないでホルパイン公爵邸か宿屋のどっちかに滞在中なのよ」

「そうですの。ですがどうしてわざわざ二階に?」

「一階には小さなお客様がいるからよ。ヴァイオレットって名前の元気な王女様なの。ヴィゴラスと喧嘩ばかりで困ってたところよ。来てくれて助かったわ」

「あらあら。そうですわね。サラマンダーにはそんな仲裁、専門外でしょうし」


 エレオノーラが遥佳の指に煌めく赤い山椒魚を見ながら苦笑すれば、指輪も前足でぽりぽりと頬を掻いてみせる。

 水の妖精(ウンディーネ)といっても、別にエレオノーラは火の妖精(サラマンダー)を働き者だと思っている程度で、特に仲が悪いわけではなかった。何と言ってもレイスの白き神殿の試練では、どちらも大きなご神体を作ったり、その背後に大きな虹を作ったりと協力した仲である。


「真琴達のいる宿屋に夕食は食べに行きましょ? お魚料理が美味しいんですって」

「ふふ。お供いたします。ところで姫様、ユーリ姫様が攫われて行方不明ですわ。アルドがラーナと一緒に向かいましたけど」

「また誘拐? どこに行ったかしらないけど、私の名前を使わないでほしいわ。誘拐される度に身代金を要求されるなら分かるけど、毎回お金を巻き上げてきてるって何なのかしらね」


 純白のペガサスから降りたエレオノーラがもたらしたニュースだが、遥佳は全く取り合わなかった。



 ― ☆★ ― ★☆★ - ★☆ ―



 自分一人の隠れ家なのに全く隠れ家になっていない第二王子アルマンは、それでも乗っ取られてしまった現実を見ないことにして足を運ぶ。

 いわゆるマーキングというものだろうか。

 不定期に訪れてはさりげなくあちこちをチェックするアルマンは、たとえ粗野で大雑把な兵士を装っていても、物や身なりに対して細かい神経の持ち主だった。


(好きにしていいと言ったが、趣味はいいようだ。カーテンの色を邪魔しない刺繍も悪くない。だが、さすがに目配りが行き届く範囲にも限度があるようだな)


 二階にある自室には鍵を掛けてあるので誰も入れないようになっている。

 今日も侵入の形跡はなかった。

 地下にあるワインを取ってきたついでに、アルマンは中庭に置かれている空のワイン瓶をざっと数える。

 そうしてゆったりとした気分でチーズを摘まみながらワインを飲んでいると、ガチャッ、ガタッ、ドサッと音がして二人が戻ったことを知った。

 

「あら、アベル。もう戻ってたの。それなら今夜は二人分の夕食でいいわね」

「お帰りなさい、アベルさん。カーティさん、先に私はこの洗濯物を仕舞ってきますわね」

「ああ。それからフェッタさん、ちょっと話がある。カーティは夕食でも作っておいてくれ」

「え? それはいいけど、私もいた方がいいんじゃないの?」

「いや、お前はいい。それより少しはまともに果物ぐらい切れるようになったんだろうな」

「失礼な人ね。見てらっしゃい」


 洗濯屋から戻ってきた籠を抱えていたフェッタだが、家事を教えるということで雇われているから、ここの仕事は楽な上に、給料もいい。愛想だってよくなるものだ。


「アベルさんはカーティさんが心配でならないんですよ。愛されている証拠ですわ。ちょっと待っててくださいな」


 にこにこ顔で綺麗に仕上がった洗濯物の籠を置きに行き、戻ってきた。

 

「何でしょう、アベルさん。白身魚はお好きだったかしら?」

「ああ、台所にあった本を見た。なかなか不親切な料理本だが、あなたがついててくれるならあいつでも作れるだろう」

「本なんてそんなものですよ。大事なことは経験者じゃないと分かりません」


 にこにこと愛想のいい初老の女性は、とても気のいい人間にしか見えないだろう。


「地下のワイン、幾つか本数が抜けているんだが、カーティは屋外でワインを飲んでは捨ててくるような行為をしているのか? それとも誰かにワインを渡していたりするのか? これでもカーティを妻として大事にしているつもりだが、ふしだらな行為や他の男に貢いでいるとなったら追い出すしかないところでな」

「嫌ですよ、アベルさん。アベルさんがいなくてもカーティさんだってワインは飲みます。料理にも使いますよ。それともカーティさんには一本も許すつもりはないとか?」


 なんてことをと、フェッタは目を丸くしてみせた。

 肉を煮込む時に使うにしても、大人の味にしたフルーツのワイン煮にしても、飲むだけではなくワインは一つの調味料だ。


「カーティは夜にしかワインを飲まないし、俺がいない時のワインは飲みきれないからと困っていたぐらいだ。それを料理に回していた筈だし、料理によく使うとしたらあのなくなっているワインの本数がおかしすぎる。カーティは普段使いのワインと大切なワインの違いぐらいは身についている女だからな」

「勘違いじゃありませんか? あると思ってたワインがなくなっていると思っている時は、大抵は自分で飲んでしまっているものです。変な疑いをカーティさんにかけるだなんて」


 アルマンは、自分と食事をする時に選ぶワインで、カティアの感覚を把握している。本当にいいワインは特別な時に飲むもので、普段使いのワインはそこそこのものを飲むものだ。

 けれどもフェッタとて近所の噂話は、井戸端会議でよく知っている。

 ぼさぼさの髪を撫でつけることもなく、上着は椅子にだらしなく放り投げ、シャツのボタンも幾つか外した状態でワインを傾けているこの男は、酒にだらしないともっぱらの評判だった。

 それを知っているフェッタは、にこやかにその場を終わらせようとする。


「生憎とこれでも管理には自信がある。帰宅する度にワインが姿を消してるのではな。そして浴室に置いてある俺の香水が幾つか目減りしているんだが、男物の香りをカーティが使うとは思えん。それこそ密通を疑うのが夫というものだろう? 日中はあなたと二人で、カーティにそんな時間はなかった筈だがな」


 ホルパイン公爵邸で真琴と顔を合わせたアルマンは、あの広い庭を散歩しながら確認したのだ。

 頑丈な扉や家具は、遥佳や真琴が使うことを考えていたかららしい。そして香水や石鹸は、質のいいことで知られるルパール国のものだった。つまり外国製の石鹸や香水だ。

 尚、ルパール国の製品はミザンガ王国で流通していない。何故なら過去に戦争をしたことがあったので、国民感情的にあまりよく思われていないからだ。

 そんなものを置いておくとは・・・と、思ったアルマンだが、物に罪はない。そう思うことにした。

 聞けば、その石鹸や香水はギバティ王国の港町ドレシアで購入したものだとか。


(そうだな。ここの家は小さいが、実は質のいい物が揃っていたのだ。パッと見は貧乏な家であっても)


 アルマンはそんなことを思う。

 目を大きく見開いたフェッタに向かい、アルマンは静かに告げた。


「フェッタさん。あなたの教え方は悪くなかった。そして世話してあげているのだから、そしてこれだけあるのだからと、自分に甘くなる気持ちも分からんでもない。だが、十分な給金は渡してあったつもりだ」

「私を、・・・疑っているのですか?」

「いいや。だが、明日から来なくていい。先渡ししてあった分はそのまま受け取ってくれてかまわない。あなたの息子はガンベルト伯の下にいたと思うが、最近、上役に可愛がられているそうだな」

「・・・・・・」

「俺の使っている香水はちょっと特別でな。贈ってくれた相手に確認したら、この国にはない香料を使っているそうだ」

「・・・・・・」


 王子としてのアルマンが使っている香水もまた特別に調香されたものだ。

 爽やかな香りを好む第二王子だが、ガンベルト伯の護衛でやってきた騎士は身につけている香りがとてもスパイシーでおしゃれだと褒められ、部下からの贈り物だと頬を赤く染めたのだ。

 自宅用の香水瓶は大きめサイズなので多少減っても分からない。小瓶に移し入れれば、それもまた一つの贈り物となる。


「まだあると約束してしまったなら撤回しとけ。俺は贈られた物を売るつもりはない。これ以上ごねるならば、ガンベルト伯に話を通そう。どうなるか分かるな?」

「・・・あんなお偉い方に、アベルさんが何を出来ると」


 兵士のハッタリに、フェッタは言葉を絞り出した。


「今後、カーティに何かあったら、その理由と犯人がどうであろうが関係なくあなたの息子家族も娘家族も投獄する。裁判など行われない、意味のない拷問だ。そんな死に方をしたくなければ、今後のカーティの平和を祈っておくことだ」

「あなたにそんなことが・・・」

「息子が上役に貢ぐことが出来る程にいいワインが揃っていただろう? この国にはない香料で作られた香水だって浴室に並んでいた。どうして俺自身がそこらの騎士やその雇い主に話を通せないと思うんだ? 既にこの確認で息子の上役は何かを察しているだろうに」


 別にあの騎士に恥をかかせるつもりはない。だからアルマンは、ちょっと珍しい香りを褒めただけだ。

 彼は何も疑っていないだろう。

 たかが一兵士にすぎないのに、実は十分に接触することは可能だと、そう匂わせればフェッタの顔から血の気が失せていった。


「カーティに説明の必要はない。適当な理由を告げて去れ」


 その言葉は温情である。

 たとえ手癖が悪かったとしても、それはこの家に思ったよりも貴重なものが揃っていたからだ。通常の兵士の家ならばなかったものが。

 それが理解できたのか、できなかったのか。

 そこまでアルマンはフェッタを知ろうとは思わなかった。


「くっ、・・・失礼します」


 いつものようにアルマンは、その表情の中に様々な感情を浮かべていなくなる人間を見送る。

 嫌われ役は今に始まったことではない。

 それを受け止めることが、自分の役割でもあると分かっていた。


(寛容さを持つのは頂点に立つ者であり、それは垂れ流すものでもない。頂点に辿り着く前に、その下にいる者達が厳しく全てを整えてこそだ。そして盗むことが出来るからといって盗んでいいことにはならない。少なくとも盗まなくては飢えて死ぬとか、生きる為に逼迫(ひっぱく)した状態ではなかった)


 いつも己に言い聞かせてきたことを振り返り、アルマンは軽く笑う。


(こういう時、反撃の力を与えてはカーティにそれが向かうだろう。本当に表面上の愛想に騙される奴のなんと多いことか。苦情を入れておかんとな)


 アルマンは、フェッタがカティアに嫌がらせなどをしようとしないよう、紹介者だった騎士の顔を思い浮かべた。


『騎士の妻でもやはり家事ができないとかあるのか? いや、私の学友で、爵位を継がない三男坊の男がいるのだ。先日、久しぶりに会ったのだが、彼の乳兄弟にあたる男が兵士として仕えてくれていると嬉しそうにしていた。彼は爵位を継がないから騎士となったのだが、やはり信頼できる男が身近だと嬉しいらしい』

『それはそれは。やはり下の者に信頼できる者がいるというのは助かります』

『そうらしいな。そして乳兄弟の兵士が結婚したそうだ。めでたいことだからと、彼も祝いの品を贈ったそうだが、結婚した途端、日に日に疲労が激しくなる。何事かと思ったら、その妻が全く家事のできない妻だったらしい。今や妻に家事を教えなくてはならず、結婚して幸せ太りどころか、毎日が四苦八苦だそうだ。こういう場合、騎士はどうやって妻に家事を得意になってもらうものなのだ?』

『ああ。そういう場合は家政婦を雇います。子だくさんだとか、親の世話もしなくちゃいけないとか、そういった家ではよく雇っております』


 そういうことで教えてもらったのがフェッタだったのだ。


『先日教えてもらったフェッタとかいう女を、その乳兄弟の兵士、早速雇ったそうだ。やっと妻の世話をしなくてよくなったと喜んでいた。学友にしても、やはり腹心が疲労困憊では困っていたそうでな』

『それはようございました』


 どうせ雇い主は平民の取るに足りぬ兵士だが、それを真に受けて雇ってみたら盗み癖があったとなれば、第二王子も、学友たる貴族の三男坊も無関係とはいえ、やはり彼はいたたまれない思いをすることだろう。

 そうなればフェッタに対して今後そういった依頼を回さなくなる。

 信頼を失うとは、そういうことだ。


(紹介という意味をよく考えるべきだったのだ。そして信頼しているという言葉をかけられるという意味を。それはチェックされなくなるという意味ではない)


 これらの一連を彼女に伝えないのは、知らないことを知って努力する姿が好ましかったからだ。

 一緒に家事をしていた相手が、自分の隙を見て盗みを働いていたなどと、思いもしなかっただろう。人は自分を基準にして考えるものだ。


(そこはやはり血を分けた姉妹ということか。カティアもそういう娘だった。図書室で本を積み上げている者は何人もいたが、カティアは不器用だからこそ努力する娘だった)


 第二王子妃が実家からまだ帰ってこないことにしても、実の両親である国王夫妻はアルマンが悪いからだと決めつけてくる。


『やはりお前の細かい指摘に、積年の恨みが溜まっていたのではないか?』とか、

『貞淑な妻とは夫に染まるもの。ですが、人間には限度というものがあるのです。もうカティア様も完璧な王子妃という仮面をかぶるのに疲れ果てたのでしょう』とか。


 ここぞとばかりに自分達の恨みを晴らそうとして言っているだけにしか思えなかった。そんな食事の時間にアルマンもほとほと嫌気がさしている。

 おかげで「ヴァイオレットの様子を見に行ってくる」と、抜け出すことが当たり前になりつつあった。

 反対に仕える役人達からは、カティアは逃げ出したのではなく、すべきことをしているだけだという解釈である。


『カティア様のことですから、ご実家で色々と動かれていらっしゃるのではありませんか? 侯爵夫人も、やはり頼りになるのは実の娘だとお思いでしょう』だの、

『そういえばヴァイオレット様がフェリクス様を追いかけていってしまった件でお怒りでしたか。ですが殿下がちょくちょくとヴァイオレット様のご様子を見に行かれていることですし、そうと知ったらすぐにご機嫌を直してくださると思うのですが』だの、

『普通の子供なら、両親が恋しくてすぐに戻ってきてしまうのに、ヴァイオレット様は気丈でいらっしゃいます。やはりカティア様がお育てになっていたからこそでしょう。お戻りになったら労って差し上げてはいかがですか』だの、

『普通は夫が迎えに行くものですが、あのカティア様のご判断となれば、今、侯爵邸を離れられない何らかのご事情があるのかもしれません。あのカティア様のことです。世間の奥方のように、御夫君に迎えに来てもらいたいからわざと実家に帰るといったことはなさいませんでしょう』だの。


 常に努力する第二王子妃を知ればこそ、国王夫妻のように逃げ出したなどとは思っていない。

 アルマンもまたその「侯爵家を離れられない事情」とやらに心当たりがなくもないといった有り様だ。

 そんなことを考えて、どれ程の時間が経っていたのか。

 カチャリとドアが開く。


「そろそろ夕食の時間ですわ。だらしなくいつまでもワインを飲んでないで、そこを開けてくださいな」

「ああ。お前も摘まむか?」

「食べ残しのチーズを勧めるってどんな礼儀知らずかしら。いいご身分ですこと」

「分かった。これは責任もって食う。でもって手伝えばいいんだろ、手伝えば」

「当たり前でしょう。あなた、フェッタさんにもう来なくていいって言ったんですって? もう教えてもらわなくてもどうにかなりますからいいですけど」


 てきぱきとテーブルを片付けてクロスを広げる様子は、手慣れたものだ。

 いつの間にか家事を身につけていたなと、アルマンは思った。

 そんな偽装の妻は、長い前髪を緩く横に流してから後ろでまとめているものだから顔が見えにくい。そしていつも布製の帽子をつけているから、内側につけられたレースで顔立ちも分かりにくかった。

 

「別にそのグラスじゃなくてもあのゴブレットを使えばいいのに」

「あれはお前の気に入りだろ。断りもなく勝手には使わん」


 アルマンが使っているのは、最初にカティアが購入したグラスだ。勿論、買ってあげたゴブレットの方が口当たりもいいのは分かっている。

 買ってあげた以上は相手のものだと考えるアルマンは、相手を尊重しているつもりだった。


「そう言って、単に緑色が好きなだけじゃないの?」

「別に。そういえば色でその人の性格を当てるとかいう店があったぞ。同じ商品が色違いで並べられていて、どんな色がどういう人にぴったりかが書かれているんだ」

「色に性格なんて出るものかしら」

「さあな」


 お互いに言いたいことを口にしないままの夕食は、それゆえに世間話が途切れることなく続き、ある意味で会話の弾んだ時間だった。


 ― ★ ― ☆ - ★ ―


 カティアの目は丸っきりの節穴ではない。

 この家で暮らす以上は夫婦という形をとっていても、アベルという名の兵士に女の影があることには気づいていた。

 何故なら汚れた服を持ち帰ることもなければ、だらしない格好をしていても汗臭いことなど一度もなかったからだ。

 通いで来てくれていたフェッタによると、まだ身ぎれいにしている騎士ですら服と靴の汗臭さといったらひどいもので、兵士なんて毎日が洗濯物と(つくろ)い物の繰り返しだとか。


(繕い物なんて頼まれたことないわ。お兄様ですら何かと服を破っていたのに。それに彼はあまりにも軽装すぎるのよ。普通、どこかに行く時にはそれなりの荷物がある筈なのに)


 街に住んでみて、仕事場に向かう騎士や兵士、そして帰宅する彼らを目にすることもあった。

 大抵は何かしらの大きな荷物を持っているものだ。

 たとえばハムを挟んだパンとか水筒とか、体を拭く布とか着替えとか替えのブーツといった荷物を。

 それこそベルトに通した物入れと剣だけを持ち、「美味そうだったから」という理由で食べたい物だけ買って帰ってくるあの男がおかしすぎる。

 さりげなく持ち物が少ない理由を尋ねれば、

「何を持って行けと言うんだ? 必要な物は職場にあるものだし、お前が飯を作っているんだから買い物してくる必要もない。服や小物を買うなら休日に行く。食事は食堂があるだろう」と、不思議そうに返された。


(それはそうだけど。・・・いいえ、違うわ。彼はここに戻ってきているんじゃない。ここに過ごしに来ているだけよ。結局、私はどこに行っても一番にはなれない)


 そう思えばしっくりとくる。この粗野な兵士には、他に帰る家があるのだと。

 いつだってそうだった。

 王子妃といっても、第一王子に何か起きた時の為に存在する第二王子の妃。

 そして第二王子の唯一の妃であっても、彼が愛しているのは自分とは違う女性。

 こうして自分の誇りも何もかも汚した兵士と夫婦を装って暮らしていても、彼の本宅は別にある。

 どれ程に努力しても、自分が一番になれる日など来ない。


(いいえ、それは今考えることじゃない。そうよ、アベルと話し合わなくちゃ。本当にドルレアク家をゆすっていないのかを。兵士にしてはお金まわりが良すぎるって、彼女も言っていたわ。家政婦で色々な家を見ているからこそ、おかしいと。

 だけど陛下の隠し子ならその程度のお金は当然だし、もっといい屋敷と使用人を手配されていてもおかしくないわ。そうね、そちらに陛下の手配した監視役を兼ねた妻がいるんでしょうね)


 カティアは棚からレモンや唐辛子などを漬けこんだリキュールを取り出した。

 こういうものは王城では出てこない。何故なら安い蒸留酒を使うからだ。薫り高く品質のいい蒸留酒が用意されている王城では、こういうものを漬け込む必要がなかった。

 けれど飲んでみれば、カティアもこういう味を好ましく思う。

 このレモンや唐辛子などを漬けこんだリキュールは、特に男性に好まれる味だと、店主は言っていた。


(アベルにとって今の私はドルレアク家の不義の子。アベルの本当の身分を第二王子妃として尋ねるならともかく、この状況で本当に陛下の隠し子かだなんて尋ねたら即座に闇に葬られるだけ。王家の秘密は常に死で守られる。

 そうよ。ヴァイオレットがアベルを陛下の隠し子だと気づいてそれを口にしても許されていたのは、あの子が陛下の孫娘でアベルの姪だったから。そうでなければアベルはあの子を・・・)


 湯上りの体が冷えていくのを感じて視線を上げる。そこには先程出した酒瓶があった。

 そして彼が買ってくれたガラス製のゴブレット。

 本来の自分ならばこのようなものを幾らでも買うのは容易(たやす)い。

 その日の気分で使い分けることが出来るように実家だろうと城だろうと、常にグラスは沢山の種類が揃えられている。


(今の私は・・・。こんな時にどうすればいいのかなんて、もう分からない)


 カティアの瞳から一筋の涙が頬を伝って流れ、ぽとりと落ちた。



 ― ☆★ ― ★☆★ - ★☆ ―



 コンコンというノックの音に慌てて薄茶色のぼさぼさした(かつら)をつけたアルマンはドアを開けてカティアの姿を認めると、軽く右の眉を上げた。


「何だ、夜這いか?」

「どうせ寝酒を用意するならと、あなたにも持ってきてあげたのよ。要らぬお世話だったみたいだけど」

「そこに置いてくれ」


 扉を開けたアルマンは、室内にある机を顎でしゃくる。

 トレイを持ったカティアは入室し、ゴブレットと小皿をそこに置いた。


「アベル。話があるんだけど」

「いつも思ってたが、その帽子は寝るまで外さんのか? フケ隠しか? そこまで頑なに髪を隠す理由があるのか? 少なくとも寝込みを襲う気なら髪は垂らして、夜着で来い。どこのおばちゃんだ」

「話があってきただけよっ。誰が・・・っ」


 入浴した後でも髪を整えてからボンネットをリボンで留め、ブラウスとスカートを身につけたカティアは、決してだらしない格好を家族以外の目にさらさない。

 濡れた髪を他人に見せるものではないのだ。

 

「話? まあ、座れ」


 カティアに書き物机の椅子を示すと、アルマンはソファに腰掛けた。

 寝室と居室が分かれていない一部屋はみすぼらしいとカティアには思えていたが、今ではかえって一人で使うならば使いやすいと感じていた。

 向かい側にある自室にしても、使用人がいないのであればとても合理的である。

 

「あの、・・・フェッタのことよ。私、ワインがなくなってただなんて」

「盗み聞きか」

「・・・っ! ちょっと台所に行くのが遅れただけじゃないのっ。廊下にまで聞こえただけよっ」


 カティアはかあっと頬を紅潮させた。

 主婦として過ごしている以上、家の中の管理は自分の仕事だし、そこは謝らなくてはならないと思ったのに、こんなことを言われるとは。

 だから喧嘩になるのだ。


「分かった分かった。そういうわけだ。お前に何か泣きついてこようとも取り合うな。紹介者には苦情を入れとく」


 ひらひらと片手を振りつつ、カティアが持ってきたゴブレットを口元に運んだ男が、嚥下と共にごくりと咽喉仏を鳴らす

 その無造作な持ち方と、ただ味を楽しんでいる飲み方に、男という異性を感じてカティアは床へと視線を逸らした。


「雇ったのは俺だ。管理責任とか言い出す気はない。で、話はそれだけか?」

「あの・・・。気を悪くしないで欲しいんだけど、私のこと、その、問い合わせたりとかしなかったの? 普通は連絡すればお金とか、・・・もらえると思うんじゃないの?」


 さすがに自分の存在を理由に強請(ゆす)ったりしていないのかとは言い難く、カティアはそんな言い方で濁す。

 だが、彼にはカティアが()(ただ)したい内容が分かったようだ。

 表情からそれを読み取り、うっとカティアは忸怩(じくじ)たる気持ちを抱く。それは罪悪感に似ていた。

 まるで自分が人として情けない思考の持ち主になった気分にすらなる。


「それが本題か。お前の中では本当に俺は破落戸(ごろつき)なんだな」

「だって・・・!」


 はあっと疲れたように目を閉じて天井を仰ぎ、ぷらぷらとゴブレットを揺らす男に対してカティアは体を乗り出した。


「おかしいじゃないっ。なんで私にあそこまでお金とかかけてっ。・・・もしかして私を本気で妻にしたいとか思ってるのっ?」

「それはない」


 あっさりと否定の返事である。

 カティアの自尊心をぶち抜く答えだった。


「お前をおもちゃにしたのはお前がいきなりここへ飛びこんで来たからだ。その後、お前を尊重しているのは、お前が俺に危害を与える気はなかったと主張するからだ。そしてお前に手間暇かけて家事を仕込んでいるのは、せめて主婦としての能力をつけさせないと、どこにも嫁げないからだ」

「え?」


 いつの間にか目を開けていた男の青い瞳が、カティアを射抜く。


「夫がいると言い、それなのに戻れないと言う。侯爵家にも頼れない。では、お前を誰かに娶らせるしかないだろう。まともな披露もされていない上、出戻りなんだから爵位のある貴族は諦めろ。騎士なり役人なり、暮らしに困らん程度の誠実で後妻を求めてる男を見繕い中だ」

「・・・私を、誰かと結婚させる為に?」

「ああ。お前だって早めに嫁いで立場を確立した方がいい。若い方が喜ばれるし、いい家庭を築ける。だが、家事も出来んようじゃ話にならん」


 ひどい言い草に、カティアの呼吸が止まった。

 冷静になるよう己に言い聞かせ、深呼吸してからカティアは細く掠れた言葉を織りだす。


「あなたが、私を、妻にしたいわけじゃなくて? 本当に、私を誰かに?」


 裏切られたと思うのは何故なのか。

 自分だって、この男を父に始末させてから城に戻ろうと思っていたのに。

 この男に絆されてなどいない。だけど・・・。


「俺にはとっくに妻がいる。離婚するつもりはないし、俺が妻と呼ぶ女はそいつ一人だ」

「じゃあ、どうして私を・・・」


 その後の言葉を、カティアの胸に詰まる感情が続けさせなかった。

 それならばどうして自分に優しくしたのか。近所の誰もが羨むような愛妻家ぶりを周囲に見せつけてまで。


「カーティ。金が目当てなら侯爵家に接触するよりもお前を売り払った方がよほど金になった。元貴族とあって、それなりの金になっただろう。しかも取り戻そうとする奴もいない。そしてお前の体が目当てなら、俺には十分にその時間はあった」

「なら、どうして・・・」


 そこで彼を責めるのはおかしいと、カティアも分かっている。

 そんなことを言ってはならない。彼は自分の夫の異母弟だ。

 続けられなかった言葉に、戻る答えはなかった。

 思わず下を向いたカティアの瞳に、ぽたぽたと濡れて色を変えていくスカートが映る。


「私、・・・明日、・・・帰り、ます」

「戻れるのか? 戻れないと言っていただろう。言っておくが、俺が見繕ってる相手はそこまで悪い奴らじゃない。少なくとも奥方に使用人をつけることが出来る程度には裕福だ。一生、大事にしてもらえる。それだけの伝手を使う」

「いいえ」


 カティアは立ち上がった。

 涙に濡れてはいても、精一杯の誇りを持って笑ってみせる。


「最初はここがどこかも、そして自分がどうすればいいのかも分からなかったけれど、こうして毎日出かけたりするうちに色々と分かってきたから。私は私のあるべき所へと戻り、自分がすべきことをするだけ」

「カーティ。俺と同じ家で暮らしていたことで色々と思いこんでるのかもしれんが、そんなのは言わなければ分からん。なかったことにしろ。そしてお前はもう少し自分を大事にした方がいい」

「・・・じゃあ、あなたも、私としたことを忘れてくれるの?」

「ああ」

「たとえどこかで再会しても、思い出さないの?」


 アルマンの影武者として確保されているのであれば、再会しないとは言いきれないだろう。

 己の身をどうするかは戻ってから考えるにせよ、カティアは尋ねずにはいられなかった。


「仮に再会する時があったとして初対面だ。初対面同士が何を思い出すことがある?」


 妃の異父妹とあれば、再会しないとは言いきれないだろうと考えたアルマンは、そう尋ね返す。

 その言葉に嘘はないと、何故かカティアには信じられた。

 粗野で乱暴な男だが、彼が国王の隠し子という秘密を持っていたなら納得できる扱いだった。恐らく彼は、国王の隠し子に差し向けられた女を、工作員だと判断したのだ。

 自分への恥辱は許せることではないが、カティアだからこそ彼の状況を理解できる。


「あなたの愛人ってのも良かったのかもしれないわね」


 あり得ないと思うからこそ、カティアの口からそんな軽口も生まれた。

 戸口へと歩き出しながら、彼の環境に思いを馳せる。

 国王の隠し子なら、監視役も兼ねた本妻がつけられている筈だ。彼が呼ぶ妻とは、そういう相手だろう。

 隠し子に宛てがわれた妻とは、彼の監視を請け負っている騎士の使用人でもある。そんな人々よりも劣る地位、つまり愛人に自分がなることなどあり得ない。


「悲壮感満載の愛人なんぞお断りだ」

「傲慢ね。・・・だけどどうしてそこまで私に優しくしてくれたの?」

「お前が美人だったからだ」


 戸口まで行って扉を開けてはくれたが、カティアが使っている部屋の扉を開けることまではしない。

 それが彼の誠意なのだと、カティアには分かった。お互いの生きる世界に踏み込まず、そして忘れるのだと。


「おやすみなさい、アベル」

「いい夢を」


 パタンと閉じられた扉の向こうで、向かい側にある部屋の扉をカチャッ、パタンと開閉する音が響く。

 アルマンはその音を黙って聞いていた。

 最後に妻として、同じ夜を過ごすべきだったのかと自問する。


――― どうしてそこまで私に優しくしてくれたの?


 無理に微笑んでいた顔は、いつも己の隣にある顔とよく似ていて、全く違う表情だった。

 自分は優しくしていただろうか?

 そんなつもりはない。いつも通り、決めた手順に従って動いただけだ。

 もし自分が優しくしていたというのなら、それは彼女が妃の異父妹、そして一人娘の叔母にあたるからか?

 いいや、違う。

 アルマンは小さく首を振った。


「お前もまた、この国の民だからだ」


 完璧な平和と保障だなんて存在しない。それでも底辺に金や情けを落とすことで潤うものがある。

 アルマンは自分を過信していなかった。

 どれ程に違う自分を演じても、心の底には叩きこまれた国への思いがあって、その炎が消えることはない。

 だが、出て行ってくれるなら助かった。それはたしかだ。


(自堕落に過ごす場所が、全くそうじゃなかったからな。呑んだくれて女に溺れる時間の筈が、とんだ品行方正なお利口さんだった。ヴァイオレットまでやってくるし、全くもってひどい女難だ)


 それでも、ここまで面倒をみてしまうと情もわく。


(念の為、ここの鍵は持っていかせるか。不要だと分かった時点で、鍵はどこぞの川に捨てて全部忘れろと言えばいい。女が長く不在にしていたなんて、まず浮気だったと思われて受け入れてはもらえん。途端に追い出されるんじゃ寝覚めが悪すぎる)


 迷子で帰れなかった間抜けな女も、フェッタと一緒に行動することで土地勘が生まれたのか。

 帰ることのできる何かを見つけたならよかったが、うまくおさまってもらいたい。


(どこぞが仕掛けた罠かと思いきや、あまりにも間抜けすぎる女だった。貞淑に見せかけて、あの侯爵夫人も隠し子を作っているとはやるもんだ。侯爵も領地との往復で離れ離れになることが多いからこそうまくやったんだろうな)


 本当に変なことに巻き込まれたもんだと、アルマンは思った。



 ― ☆★ ― ★☆★ - ★☆ ―



 真琴が楽しみにしていたミザンガ王国の船上ティーパーティは、貸し切り状態にした船を、島と島に挟まれた海峡や、切り立った崖や島に広がる花畑を眺めたりできる位置を通過させ、景色を楽しめる遊覧として計画されていた。

 勿論、お喋りや朗読会を楽しむティータイムがメインなのだが、男性には苦痛だろうからと、甲板で釣りもできるそうだ。

 ティータイム終了後は休憩時間を取り、夕食とダンスが始まる。

 あくまでティーパーティのおまけとしての夜だ。

 だからダンスといっても、弾むような速いテンポの短い音楽に合わせて両手を繋いだ二人組がスキップのようなステップでくるくる回るだけのものである。

 つまりテクニック不要で、男女ペアじゃなくても同性ペアでも大人と子供ペアでも踊れるし、個性を出したければ手拍子をしたりステップを変えたりしても構わない。勿論、二人じゃなくて三人や四人で輪になって踊っても構わない。

 通常、夜は昼とは違う豪華なドレスに着替えるものだが、そういうダンスとなればどんな個性的な格好をしてもいいわけだ。

 そんな船上ティーパーティは、様々な話し合いや思惑を経て、王室が所有する船で行われることになった。

 

「ここまで豪勢な船上パーティを期待していたわけじゃないんだけど、チケット買って乗って楽しむ筈がどうしてこうなったのかな」

「マーコットさんが僕を生け贄にしたからだと思います。今の僕、街角という街角に公示された指名手配犯罪者かってぐらい、顔が知れ渡ってるそうですから」


 ティーパーティは(くじ)で席が決められたので、同じテーブルに着いた真琴はフェリクスとそんなことをぼやき合う。

 今のフェリクスはどこに行っても人に囲まれてしまうので、こういった配慮をするしかなかったのだ。

 おかげで子供も参加できるフランクなティーパーティなど、プライドの高い貴婦人なら鼻で笑って不参加を決めこむものなのに、今回の招待状をもらいたがる人で凄かったらしい。

 そこへかなりがっしりとした体格の男性が、焦げ茶色の前髪を掻き上げるようにして笑い、話に加わってきた。


「いやあ、今や凄い人気だそうですな、フェリクス様。まさか同じテーブルになるとは私の運も悪くないというものです」

「僕こそグロナス将軍がこういうお茶会に出席しているだなんて、とても珍しい場に立ち会ってる気分です」

「妻にせがまれまして。私も茶会など初めてだったかもしれませんな。だが、肝心の妻は違うテーブルなのだから、後で恨み言を聞かされそうです。はっはっは」


 茶会に相応しいとは言い難い大声で話し、呵呵(かか)大笑(たいしょう)するその男性は、ミザンガ王国の将軍といった地位にあるらしい。

 今回は籤でひいたテーブルに先着順で座るといったものだ。テーブルは指定されるが、席は自由だった。


「将軍なんだ? 道理で立派な体してると思った。こういう時って、立って挨拶するの? それとも座ったままでもいいの? やっぱり先に名乗るべき?」


 すると、同じテーブルにいた初老の貴婦人がニコニコ笑いながら口を挟む。


「本来は着席する前に挨拶するべきですけど、今回は主催者無しの茶話会ですもの。着席してからお互いに紹介し合えばいいと聞いておりますよ」

「そうなんだって。じゃあフェリクスから自己紹介?」

「言っておきますが、このテーブルで名前を知らないのはマーコットさんだけですよ。正直、僕はあの(くじ)に作為を疑ってます」

「なんかそんな気はしてたよ。上手に私達がばらけてる時点でね」

「同感です」


 呆れたような声音でフェリクスは同じテーブルに座った人達を紹介した。

 どうせこんな真琴との会話すら彼らにとっては娯楽なのだ、きっと。


「まず、そちらがグロナス将軍。我が国の将軍で、お祖父様にとても信頼されておられます」

「その実力にフェリクス様の護衛にあたっている者達が心酔していると伺っております、マーコット姫。乗船しているだけでもあなたの信奉者になりたい騎士が沢山おりますぞ。勿論、私もその候補者の一人ですがね」

「それ、国を守る人達が外国人に一番言っちゃいけないセリフじゃない?」

「はっはっは、こりゃ一本取られましたな」


 心にもないお世辞をよく言えたもんだと、真琴は呆れつつも、まあいいかと思う。

 ざっくばらんに話す人だから自分もざっくばらんでいいのだろうと、相手に合わせてみた。

 お茶なんてティーカップじゃなくてジョッキで普段は飲む人だろう。


「そして国内を管轄するファルバー副大臣。若い頃から優秀と名高かったと聞いています。今やこの国に欠かせない宝とまで言われている方です」

「ファルバーと申します。お美しい姫君。しがない年寄りにございますが、どうぞお見知りおきを」

「ご丁寧にありがとうございます。お会いできて光栄です」

「こちらこそ望外の喜びにございます」


 にこっと笑って微笑む様子はまさに温和な紳士に見えるが、きっと中身は狸なのだろうと、真琴は思った。


「ねえ、フェリクス。普通、副大臣がこんな茶会に出るものなの?」

「さあ」


 こそっと尋ねられても、まだ子供のフェリクスには分からない質問というのもあるのだ。

 しかもその会話が聞こえているくせに何も言わないファルバーは、きっと普段、こんなお茶会に出席したりはしないのだろう。

 祖父である国王の思惑をフェリクスは感じた。


(なんで僕が紹介しなきゃいけないんだろう。しかもみんな楽しそうにそれを待ってるし)


 フェリクスはにこにこしている次のメンバーを示す。


「そちらがピーカレック公爵夫人。王族から臣籍に降りて騎士となり、更に結婚して公爵夫人となった異色の経歴を持つ方です」

「まあ。殿下が産まれてもない時代の話ですのによくご存じですこと。あの小さなフェリクス様がこんなにも立派にお育ちになって感慨無量ですわ」

「父上からも叔父上達からも、決して逆らうなって言われてたので」

「あらまぁ。あれ程可愛がって差し上げましたのに、シャレール様方もひどい仰りようですこと」


 ほほほと笑う彼女は40代か50代だろうか。

 

「うーん。シャレール王子もアルマン王子も来ていないのに、なんだか偉い人がいっぱい?」

「父上が来ていないのは、王位継承権を持つ人間が固まっちゃいけないからだと思います。だから叔父上も来ていないのでしょう。で、最後の一人が僕の祖母、つまりミザンガ王妃です」


 初老の女性に対して、どこか疲れた顔になるフェリクスだ。


「お祖母(ばあ)様。こちらがマーコット姫。僕が色々と師事している方です。ええ、色々と」

「・・・何だろう。この師事していると(へりくだ)りながらも恨みがましげなニュアンスは。何より、こんな軽く紹介される相手じゃないと思うんだよね、フェリクス。王妃様はお城の奥深くにいて、まず限られた人しか会えない重要人物中の重要人物なんじゃないかな」


 たしかに作為を疑うテーブルだ。

 真琴は、どう出るべきかと少し迷った。

 こういう時に限ってカイトは違うテーブルなのである。


「ごめんなさいね。とても素敵な姫君だと聞いてお会いしたいと願っておりましたのに、お体が弱くて城に来ることができないということでしたでしょう? こういう気を遣わない場ならいいかと思って混ぜてもらいましたのよ。孫達がお世話になっているそうですわね」


 さりげなく皮肉が混じっているようだが、真琴はにっこりと笑い返した。


「くだけた場だと聞いておりましたので、こんなにも王国の中枢にある方々がおいでとは気づかず、失礼いたしました。

 マーコット・ミリィ・テーラ・リエクファイストと申します。フェリクス殿下にはミザンガ王国の様々な文化を教わり、とても勉強させていただいております。まさか王妃様にお目にかかることができるとは、たしかにこのテーブルは将軍様が仰った通り、幸運なテーブルだと身の震える思いでございます」

「まあ」


 それまでのだらけたやりとりを一瞬で消して、口調も表情も変えたものの、真琴はちらりと遠いテーブルにいる姉妹を見遣る。


「ですが、あれは誰の発案でしょうか、ファルバー副大臣? どうせ工作するのなら姉ではなく私に国王陛下はぶつけてくるべきだったでしょうに。恐らく王妃様には私よりも姉の方がよかったと思いますわ」

「それはどういう意味でしょう、マーコット姫? あなたと姉君では何かが違うということでしょうか?」


 ファルバーの質問に、真琴は答えなかった。

 遥佳のテーブルに、女性は遥佳一人だ。

 そんな遥佳の状況に気づいて少し顔を強張らせたフェリクスに向かい、真琴は軽く顎を揺らして示してみせる。


「見てごらん、フェリクス。国王と近衛騎士団長、大臣達にホルパイン公爵。・・・凄い顔ぶれだね。私ならルウカに対してあんな危険なことは仕掛けないよ。どれだけ耳のいい人達があそこを注視していると思ってるのかな」


 違うテーブルにいるヴィゴラスは不機嫌そうに遥佳だけを見つめているし、カイトにしても遥佳の様子をさりげなく窺っている。

 第2等神官ウルシークの孫娘にして第1等神官アルドの婚約者という無茶苦茶な紹介状を確保してきたエレオノーラに至っては、風の妖精(シルフ)達に協力させて天井に火の妖精(サラマンダー)を張りつかせ、世間話に興じながらも遥佳の様子を常に報告させていた。


「あの、マーコットさん。僕、あのテーブルに入ってきた方がいいかも。子供一人なら増えても問題ないですよね?」


 祖父が遥佳に興味を持ったのは、かつて貸しがあると言ったことが原因だ。

 それを聞き出そうとして、更には虚偽の言い逃れで誤魔化されぬよう、ああいうことになったのだろう。

 自分が関与している以上はと、フェリクスはこのテーブル内で唯一味方になってくれそうな真琴の顔を見上げる。


「やめた方がいいよ、フェリクス。勉強になるかもしれないけど、ルウカを一人にしたのがミスもいいとこ。賭けてもいいけど、あのテーブルに勝者は一人」

「お祖父(じい)様ですか? ルウカさんは人の集まりが苦手でいらっしゃるのに。・・・ひどすぎる。お祖母(ばあ)様のお茶会よりもひどいじゃないですか」


 とても珍しい羽をもらったフェリクスは、この船上パーティで着飾った遥佳と会えるのを楽しみにしていた。

 ヴァイオレットと似たようなデザインの青紫色のドレスは、彼女をとても儚げに見せている。

 それこそ誰もが見惚れずにはいられない可憐な(すみれ)のようだ。

 そんな年上の気の毒な令嬢を救いたいという気分に駆られ、フェリクスは奥歯を噛み締めた。


「同じ顔なのに私はどうでもよくて、ルウカはお姫様扱いなフェリクスの贔屓(ひいき)がひどすぎる」

「ルウカさんはルウカ様ともルウカ姫とも呼ぶにやぶさかではないんですけど、マーコットさんは僕、ちょっと・・・」


 いつでも遥佳は「守ってあげたい」という男の子が出てくる。同じ顔なのにどうしてなのだろう、やはりあの雰囲気なのだろうかと、真琴は自分を見下ろしてみる。

 真琴の恨み言に対し、最近はちょっぴり正直になったフェリクスが、真琴は姫君枠ではないことを匂わせた。 


「変なことを言うものではありませんよ、フェリクス。あのテーブルに女性一人だからこそ、誰もが丁重にお相手なさってくださいます。それこそ誰もが行きたいと思う顔ぶれですよ」

「そうですわ、フェリクス様。年若くていらっしゃる姫君に対して、皆様ちやほやしてくださいますよ」


 にこにこと笑う王妃とピーカレック公爵夫人は、フェリクスの足止めか。

 社交とは女の戦場であるという意味を、真琴は思い返す。


「国王や大臣、貴族や騎士をも(はべ)らすハーレム状態だと人は言う。吊るし上げだと見ているフェリクスとどちらが正しいのか分からないけど、良かったね、フェリクス」

「何がですか?」

「ルウカは優しいからね。王太子の長男を護衛お断りで行かせるわけにはいかないって言われてたんでしょ? だけど多分、これで国王陛下の許可を捥ぎ取ってきてくれるよ。密室交渉でルウカとはやり合うべきじゃないの。全勝してくるから」

「お祖父様や大臣達にルウカさんが? 無理だと思います。ルウカさんはカイトさんやマーコットさんみたいに強くないし、令嬢一人に言いくるめられるような大臣はいません」

「その時はルウカを慰めてあげなよ、フェリクス」


 基本的に遥佳は誠意のない行動が大嫌いだ。

 客観的に見て女性一人を取り囲んだ形になる、あんな作為を快く思う筈もない。


(可哀想に。あれだけ偉い人達が集まって、自分の黒歴史を遥佳に暴露されまくるんだね。エドワルドさんも巻き添え誤爆で焼け野原になるのか。暴露は暴露でも優理は悪事を露見させるだけだけど、遥佳は相手の闇に葬りたい醜聞を掘り起こす)


 色々と世話になった恩がある。

 後でホルパイン公爵エドワルドには優しくしてあげようと、真琴は思った。


「それより将軍と同じテーブルでのお茶って珍しいんでしょ。男の子なんだし、フェリクスも強くなるコツとか聞いてみたら?」

「おお、それはそれは。ならばフェリクス様でも空いた時間に指を鍛えることのできる簡単なやり方をお教えしましょう。体を動かす時間がない時でも、手先や足先を訓練するという継続が大事なのですぞ」

「え? どうやるんですか? 指を訓練って素振りとかしないで出来るんですか?」

「勿論です。そうすれば指の力だけでテーブルを持ち上げたりできるようになりますな。そちらの公爵夫人もそこらの軟弱な貴公子など指先一つですぞ」

「まあ。将軍ったら。今の私ではとてもとても」


 遥佳のことは心配だが、この遥佳大好きな真琴が案じる様子を見せないなら大丈夫なのだろうと、フェリクスはグロナス将軍に指の曲げ方や力の入れ方などを教わり始める。


「こういう船上パーティはいかが、マーコット様? パッパルート王国では海はありませんものね」

「とても楽しませていただいております、王妃様。フェリクス様もこの国には誇りをお持ちで、楽しく教えてくださいますの。いずれパッパルート王国に遊びにいらしてくださった時には、お礼にフェリクス殿下にも駱駝(らくだ)の乗り方を教えて差し上げるつもりですわ」

「まあ。ですがフェリクスはまだ子供ですもの。成人してからとなると、マーコット様はもう結婚していらっしゃるのではないかしら」

「その時には国王陛下と王弟殿下がおいでですもの。王妃様は駱駝とかお好きでいらっしゃいます? パッパルートはとても楽しい国ですのよ」

「楽しい国、・・・ですか」


 古くから続くと謳われる王国には砂しかない。

 そんな認識が普通である。

 王妃の顔が僅かに引き攣った。


「はい。機会がありましたら是非おいでくださいませ。穏やかで楽しい時間が過ごせると思いますの。副大臣様もそう思いません? どの国にもその国ならではの素敵なものがあると」

「その通りでございますね。マーコット姫には是非ミザンガの素晴らしいものを楽しんでいただけたらと願っております」


 そうして真琴とフェリクスが美味しいお菓子を食べながら、王族から騎士を目指した方法や、ミザンガ王国で好まれる一番の魚は何かといったこだわり等を聞いている内に、遥佳のいるテーブルではぎくしゃくとした動きの男性が増えていく。


『姫様、子供の頃にやんちゃした人の話をしてるの』

『大臣って呼ばれている人、ダンスを抜け出したんだって』

『そしてね、酔った人妻、部屋に連れこんだって』

『騎士がいても役立たずなんだねって』

『王子の方が品行方正だって、姫様』

『姫様が一番だよ』

『サラマンダー、姫様にひどいこと言った人の椅子を温めてる』

『自分が知らないだけで皆は知ってるものですよって姫様言ってる』

『姫様、男の人をいじめてる』

『カンラクガイのジョウレンでしょって言ってる』

『姫様が泣かないならいいよ』

『警備を黙らせて抜け出している人が王子のことを言っちゃ駄目って』

『大臣の妻、フリンしてるって』

『騎士の娘ももてあそばれてるって』

『そんな人達が何人いても役立たずですねって』


 せっせと報告してくれるが、会話そのものもカイトと真琴とエレオノーラの耳に届くよう空気の流れを整えてくれている風の妖精(シルフ)達だ。

 その違いは、大好きな真琴に風の妖精(シルフ)達が直接報告したいだけだった。

 尚、ガーネットは船室でのんびりと過ごしている。

 何故ならガーネットにとって人間との会話は苦痛でしかないからだった。


(遥佳攻略法とは、平謝り&ご機嫌取りあるのみ。(きじ)も鳴かずば撃たれまいに)


 見ればカイトもホッとした様子で、同じテーブルの貴婦人達と如才なく会話している。

 様々な土地に詳しいカイトは、荷物を運ぶ傍らで色々な噂話を仕入れていたし、ちょっとした小物とかの違いも知っているのだ。


(良かったね、エドワルドさん。ここで遥佳の敵に回らなくて。回ってたらとんでもない秘密を暴露されてたよ。カイトもエドワルドさんが無事で安心したみたいだし)


 エレオノーラはレイスの名前を遠慮なく使い、「第1等神官アルドの未来の妻」という立場をフル活用してそのテーブルを制していた。


(イスマルクの名前だと勘づかれそうだからって、遠慮なく他の男を婚約者として踏み台にしていくエレオノーラが凄すぎる。さすがはウンディーネ。愛の必殺スナイパー)


 そのレイスは優理の父親ということになっているらしいから、そうなるとエレオノーラは優理の母親になるのだろうか。

 なんだかなぁと、真琴は思った。どこのテーブルも凄すぎる。

 王女ヴァイオレットも遥佳とお揃いの赤いドレスを褒められて楽しそうだが、何故、王女が婚外子の権利について語ろうとするのだろう。

 おかげで同じテーブルにいる貴族の男性が、

「い、いや。自分にはそんな存在はおりませんからな。は、はは、私は、妻一筋ですぞ」

と、何故か目をきょろきょろさせているではないか。

 婚外子、つまり隠し子についてどう思うかと尋ねられては、そうとしか言えないのだろう。


(レッティ。アルマン王子に隠し子がいてほしいの? なんでそうなるわけ? 弟が欲しいならパパとママにお願いしなよ)


 顔はよくても性格と思考が破綻しているヴィゴラスのテーブルは、ヴィゴラスへ振られた会話をレオンが引き取ってあげているものの、なんだか会話がどこまでもおかしい。

 遥佳だけを見つめているヴィゴラスは全ての会話を無視するし、レオンはマイペースだからだ。


(ヴィゴラスの代わりにレオンが話してるからいいのか。だけどレオン。ブローチの宝石を素敵だと褒めながら、どうしてそれはルビーじゃなくて赤いだけの違う石だなんて指摘しちゃうのかな。そこで宝石はどれも違う美があるとか言っても、相手はその通りだと思わないと思うよ)


 誰も彼もが個性的すぎる。

 自分とカイトだけは普通で良かったと、真琴は思った。



 ― ★ ― ☆ - ★ ―



 さすが王室が所有する船と言うべきか、侍女も乗りこんでいる為、身支度のお世話は完璧だ。

 王子フェリクスはレオンと一緒だし、王女ヴァイオレットも遥佳から離れないとあって、カイト達にはかなりの配慮がなされていた。


『カイト様、マーコット様。こちらは、本来はシャレール殿下がお使いになるお部屋ですが、フェリクス様がおいでですのでどうぞお使いくださいとのことでございます』


 居間を中心にして幾つかの個室がある。そこにはカイト、ガーネット、真琴、フェリクス、レオンが案内されていた。


『ルウカ様。こちらはアルマン殿下用のお部屋でございます。ヴァイオレット様がおいでですので、気兼ねなくお使いになっていただきたいとのことでございました』


 隣にあるアルマン用の部屋はシャレール用と似たような間取りだが、こちらにはヴィゴラス、エレオノーラ、遥佳、ヴァイオレットが案内された。

 どちらも使用人用の小さな控室がついているし、個室と居間もあって一家団欒できる間取りなのである。

 それでも仲のいい二つのグループは、結果として寝る時以外はシャレール用の居間に集まっていたわけだが、城から派遣されてきた侍女達はアルマン用の部屋に残し、用があったら呼ぶと伝えてある。

 きっとあちらもその方が気楽だろう。

 子供達は何かと甲板に行っては、走り回っていた。


「私は使用人ということで構いませんのに」

「駄目よ、エレオノーラ。レイスさんだってわざわざ自分の婚約者だなんて肩書きを渡してきたんですもの。ここは皆にちやほやされて、イスマルクの目を覚まさせるところよ。イスマルクったらいつもエレオノーラを後回しにしすぎなの。あの時だって一曲踊っただけで終わっちゃってたじゃない」


 遥佳は、あの真面目なイスマルクに任せていたらいつまでもエレオノーラはおうちで待ってるだけで終わると思っている。

 イスマルクに幸せになってもらう為にも、ちょっとしたスパイスが必要だと思ったのだ。


「だけどさあ、遥佳。それで違う人と踊っても意味がないんじゃない? 知らないよ、遥佳だけじゃなくエレオノーラにまで「お付き合いしてください」があの家に殺到しても。ガーネットだって一目ぼれする人続出かもしれないけど、そっちはエドワルドさんに放り投げるからいいとしてさ」

「まあ、マーコットったら。私などハールカやマーコットのいる場ではほとんど空気ですわ。マーコットこそカイトさんに惚れ直してもらうぐらいに着飾りましょうね。ヴィゴラスもハールカにいつまでもくっついていないの」


 人間嫌いなガーネットにお付き合いの申し込みが殺到したら、それの対応はホルパイン公爵エドワルドに押し付けようと真琴は考えている。

 そうすればほとんどの男はすごすごと引き下がる筈だ。

 ガーネットは、そんなことよりもヴィゴラスのしつこさの方が案じられたらしい。遥佳の様子にため息をついた。


「グリフォンは宝と共に在るのだ。ハルカと離れてグリフォン生はあり得ない」

「いや、あるよ。遥佳と出会う前もヴィゴラスはグリフォンだったでしょ。大体、そんなだから諦めてカイトが子供達を連れて船内散歩に行っちゃったんだよ。子供のお世話も出来ないだなんてどうしようもないよ、ヴィゴラス」


 遥佳にべったりなヴィゴラスを見て、子供達と取り合いをさせるよりもと、カイトは建設的な解決法を選んだ。

 子供達も、カイトは何かと遊ばせてくれるので喜んでついていく。

 おかげで真琴はむぅっとした気分だ。だけど言えない。だってマジュネル大陸は子供優先天国・・・!

 それもこれも、ヴィゴラスが子供達を受け入れて遥佳と仲良く過ごしてくれていないからだ。


「その通りだ。子供しか連れていかないとはカイトは本当にどうしようもない。ハルカとマコトだけ残して後は全員連れていくべきなのだ」

「やだよ。ヴィゴラスのしつこい抱っこオッケーなの、遥佳だけだから」

「言っておくけど私も我慢してるだけなんだけど? いいわけじゃないのよ、真琴。これが一番平和な解決法なだけなのよ」


 使用人を追い払っているのは、ヴィゴラスの節操もなく遥佳を抱きしめている行動にある。人の目を気にしないそれは、誰が見てもおかしいだろう。

 しかし遥佳は、もう諦めの境地だった。ヴィゴラスは遥佳を堪能することさえできれば暴走しない。

 それでも自分達の事情をよく分かっているエレオノーラとガーネットが来てくれたので、遥佳と真琴はかなり気楽になった。


『ラークとルーシーがいないなら、どうしても姫様の守りは薄くなりますもの。ヴィゴラスはあまりにも周囲を考えないところがありますから、いつも私とサラマンダーをお連れくださいまし』

『ありがとう、エレオノーラ。物理的には安全なんだけど、ヴィゴラスは本当に後のことを考えないのよね。ガーネットは真琴をよろしくね』

『ええ。カイトさんもレオンの世話をし始めたら手一杯になってしまいますもの。レオン達は私が引き受けますから、マーコットはカイトさんに甘えてもいいと思いますわ』


 遥佳と真琴を追いかけてきた二人だが、「元第2等神官ウルシークの孫娘で、第1等神官アルドの婚約者」という肩書きのエレオノーラと、「ギバティ王国で幾つもの店を構えている経営者の妻」という肩書きのガーネットだ。

 どちらの肩書きもレイスが用意したものだが、一体レイスはいくつの店を所有しているのだろう。ガーネットが妻で、エレオノーラが婚約者で、優理が隠し子なのか。それでいて対外的には独身なのか。


(イスマルクと同じ第1等神官で、その正体は暗殺者ってところがなぁ。遥佳にあのおうちを提供してくれて、いい人なんだけど。自分のお祖父さんまで、エレオノーラのお祖父さんってことにしてきたし)


 真琴達に王族といった肩書きを用意してきたパッパルート国王やそれぞれの王子達には劣る身分ではあるが、それでも(ないがし)ろにされることはまずない。

 侍女達を使うのも、エレオノーラに任せておけば完璧だ。護衛騎士や兵士達も、エレオノーラは遠慮なく使っていた。


「甲板で遊んでいるでしょうから、そろそろ兵士に子供達を迎えに行ってもらいましょう。だけど子供はすぐに飽きて服をぐしゃぐしゃにしてしまいますから、先に姫様が着替えた方がいいでしょうね。ガウン姿になって浴室へ行ってくださいましな。髪と体を洗って差し上げますわ、姫様。昼とは違う結い方の方がいいですもの」


 レイスに言われてやってきたというエレオノーラは、まさに凄腕の女官長を思わせる差配能力の持ち主だ。てきぱきしていて、任せておけば全てを用意してくれる。

 その為に使用人を遠慮なく使うのだが、それはもうまさに「奥の支配者」と言っていい。女の園を生き抜くことができるのはまさに彼女だと、真琴は思った。


「うーん、さすが一家に一人はウンディーネ。お風呂要らずで、一瞬の間にお風呂上りになってしまうところが凄い」

「侍女さん達もびっくりよね。入浴の用意なんてしていないのに私達がお昼のお化粧も何もかも落としてるんだから。だけど昼と夜とで違うお化粧って面倒だわ」


 真琴はエレオノーラの人使いの荒さにびっくりしていたが、遥佳はいつも湖から自分を見守ってくれていたエレオノーラというだけで信頼してしまう。

 遥佳は自分にとって好意的かつ裏切らないと分かっている存在なら、それだけでいいのだ。


「昼はお可愛らしく、夜は(あで)やかに、ですわ。アルドが買ってくれた口紅、どれも色がいいんですのよ。ねえ、ガーネット?」

「そうなんだけど、ウンディーネの血を引いているからってあそこまで貢がせてきたあなたが凄すぎるのよ、エレオノーラ」


 エレオノーラにとって遥佳と真琴は二人でワンセットらしい。姫様と言われてもどちらがどちらなのか、両方なのか、けっこうアバウトだ。

 にこにことエレオノーラが広げてみせる化粧品は、男ウケがいいという色から、あえて無垢な少女らしさをアピールする色まで揃っている。


「さすが風俗店から酒場に喫茶店、屋台まで経営している人達だけはあるのかな。口紅なんて一つあればいいと思ってたよ、私」

「そうね。私もお化粧ってあまりしないけど、これ見たら自分がおかしいのかしらって思っちゃった。こんなにもみんな使ってたのね。だけど男の人なのに詳しいってなんかおかしくないかしら」


 遥佳と真琴は、化粧のテクニックまでエレオノーラに教えこんだというレイスがちょっと恐ろしくなった。

 愛想がない割に親切だったが、実は無駄に女性能力が高かったのか。

 そうしてエレオノーラはヴィゴラスに視線を向ける。


「夜のパーティはあのドレスでしたわね。侍女達を呼んで用意をさせますわ。・・・ヴィゴラス、そろそろ姫様を離して差し上げてちょうだい。美しく装う時間を待てないような駄目すぎて役立たずなグリフォンを、姫様は侍らせていないわよね?

 会場で一番美しく輝くべき姫様を着飾らせないだなんて、姫様を(ないがし)ろにする敵だわ。そんな姫様の輝きを曇らせるグリフォンだけはお側に近寄らせたくないものね」

「む。勿論、待つとも。だが、マコトもレオンが考えたドレスより俺の選んだドレスの方が似合うのではないか?」

「ここは譲りなさいな。ハールカ姫様を大きなグリフォン、マーコット姫様を小さなグリフォンが見立てたドレスで飾るのよ。それともグリフォンの美意識なんて、そこらの頼りない男共と変わらないのかしら?」

「そんなことはない。だが、チビより俺の方がーーー」

「これ以上ガタガタ言うなら、全部レオンの見立てで着飾るわよ」

「分かった。もう言わない」

「そうね。じゃあ姫様が耳につける宝石はあなたに選ばせてあげるわ。お化粧の色と引き立て合う、一番お似合いなものを選んでちょうだい。姫様が会場で一番輝くかどうかはあなたにかかっているのよ」

「うむ。ウンディーネはよく分かっている」


 さすがは長く生きていた水の妖精(ウンディーネ)というべきか。

 姫様と呼んで遥佳と真琴に従っているようでありながら、エレオノーラは寄越された使用人達を顎で使い、全てを取り仕切っていた。



 ― ☆★ ― ★☆★ - ★☆ ―



 一方、カティアは裕福そうな質の良い街着のワンピースに上着、そして顔を隠せる帽子をかぶって、物置小屋程度の小さな家を出た。

 既に髪の色は落としてある。

 朝、仕事だからと出ていった兵士との別れはあっさりとしたものだったが、何かあった時の為にと、合鍵をもらってしまった。

 必要ないと分かった時点で川に捨てろと言われたが、どうやら彼はカティアが受け入れてもらえなかった時のことを考えたらしい。


(最後まで、ひどい人のままでいてくれればよかったのに)


 もうお腹に描かれた絵は消えたが、それでも夫以外の男に恥ずかしい目に遭わされ、共に暮らしてしまった己の罪は消えない。

 誰に知られずとも、自分は知っている。


(お父様には密かに、どこの誰とも知れぬ男に汚されたのだと打ち明けるしかない。名前は分からないけど、恐らく貴族だと。だからもう王子妃として人前には立てないと。そうして病気になったと実家での療養に持ちこめば・・・。ああ、その前にヴァイオレットのことも考えなくては。私がいなくても立派な王女として育つように)


 市内を見回る兵士達を束ねる騎士達が使っている公舎。

 そこに行けば、関係者以外は立ち入り禁止とはいえ、カティアの顔を見知っている騎士も多い。

 最高責任者は第三王子ゲオナルド、つまりアルマンの弟だ。

 だからカティアは義弟となるゲオナルドを訪ねた。


「ご実家でお過ごしだと聞いてましたが、どうなさったんです? 兄上の堅苦しさに嫌気がさして、ついに離婚ですか。味方しろという話なら味方してあげてもいいんですが、兄上を怒らせると面倒なんですよねぇ」


 義姉であるカティアを見て、ゲオナルドは目を丸くして立ち上がる。

 両親である国王夫妻と同じく、彼もまた「カティア、もう限界。あんな夫についていけない説」を信じていた。


「アルマン様をそんな風に(おっしゃ)らないでください、殿下。アルマン様はとても立派な方ですわ」

「はいはい。ですが、供もつけていないとは見過ごせませんよ。何があったのですか?」


 愛する夫を(けな)されて怒るカティアだが、ゲオナルドはカティアの質素な格好と護衛がいないことを疑問に思ったらしい。

 鋭い眼差しになり、問いかけてくる。

 カティアの頬が赤くなった。


「そうではなくて・・・。その、・・・あの、・・・私も、ヴァイオレットを叱る前に、一人で出歩くというのをやってみようと思ったら、・・・その、ドルレアク家がどこに・・・。城は城で、この格好じゃ・・・」

「あー、つまり迷子になったと。ここに来たのはいい判断ですが、だけど侯爵家に私が同行するのはまずいですよ。こっちも痛くもない腹をさぐられたくない。城でいいですか?」

「お願いいたします」


 正直、義弟にあたるゲオナルドに頼るのは癪だったが、それでもこっそり城に連れて帰ってほしいと頼めば、あっさりと城門などもフリーパスで連れ帰ってくれた。

 顔を隠した人間を城に連れこめるのもどうかと思ったが、彼は顔を知られてはならない重要人物を保護することもあるそうで、かなり権限があるらしい。


(いい加減でだらしない王子だと思ってたけど。その通りだとあの執務室を見れば分かったけど。それだけじゃなかったのかもしれないわ)


 城にある王族が居住する区画に戻れば、思ったより人も少なく、静かだった。

 国王夫妻が一泊二日の船遊びに出かけてしまい、それに何人かの主要な大臣や高位の騎士達まで同行したというので、かなり人手が割かれたそうだ。

 カティアとヴァイオレットが不在の第二王子一家が暮らす棟も、せっかくだからと交代で臨時休日を取らせているとか。思わぬ休暇で女官達も気分を一新しているところらしい。


(人が少ないのは助かったけれど。ああ、どんな顔してアルマン様に会えばいいの)


 着て帰った服は小さくまとめて衣裳部屋の隅に隠したカティアだったが、分かったような顔をするゲオナルドから、

「本当は自由が欲しかったんでしょう。うちの妃(ルディー)にも、こっそりと城を抜け出して私の所まで来ることのできるやり方を教えてあるんです。使うならお教えしますよ。今度、迷子にならない方法をうちのルディーに教わるといいです」

と、騎士達専用の裏門を利用して、その際に護衛もつけてくれる方法を教わってしまった。

 普段の護衛騎士ではないから親しみはないだろうが、その代わり王子達につけられる本来の近衛騎士や護衛兵に内緒にできるそうだ。

 つまり、報告されない。


(それってアイナーティルディ様を城から抜け出させてたってことよね。なんてことしてるのかしら、あの人達)


 第三王子夫妻のやりたい放題を、カティアは知ってしまった。

 それでも前向きに覚えてしまった自分が悲しい。

 

(身辺整理をしなくては。だって、もう私は・・・。だけどあと少しだけ、アルマン様と・・・。いつか私を忘れて本当に好きな方と結ばれるのだとしても)


 人気のない懐かしい部屋で、カティアはハンガーに掛けられていたアルマンの上着を抱きしめた。

 その上着からは、アルマンが好んで使う爽やかな香りが立ち上る。

 いつの間にか馴染んでいた、あのスパイシーな香りではなく・・・。




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